☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

平山矢九郎季徳とは?

2022-01-13 16:15:30 | 爲恵祥院殿菩提石塔

新年のご挨拶、遅くなりました〜

本年もよろしくお願いいたします

 

 さて、連休明けの11日に雨の中、照國神社へ新年のご挨拶に行ってきました。

お参りしてご挨拶申し上げ、おみくじを引くと‥‥‥大吉でした

六角形(八角形かな?)の箱を振って出てきた棒の番号は「1」

(番号自体には意味はないけど、なんとなく嬉しい

で、中のお言葉もありがたいものでした(中身は内緒

それといつも引いている「開運招福お守り」の入ったおみくじも大吉

で、小さなラッキーチャームの「お守り」は「小槌」でした〜

そう、打ち出の小槌の「小槌」〜 ありがたいです

今年もこれで頑張れそうです

 

☆こちら↓、クリックで大きい画像を見られます。

    

 

さてさて、お参りの帰りにふと立ち寄ったのは、

以前『倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった! 2019-10-27』にも書いた、「爲 惠祥院殿菩提」の石塔のある場所。 

 

この石塔に刻まれた名前から、「島津登家」に関わりのある人たちのように思います。

 それぞれの名前については上記リンクや検索欄、記事右上のカテゴリー等からご覧ください

 

名越右源太篤烈とは? 2016-12-20』の通り、最初に撮ったのは2012年11月16日で、以前見たときには生垣が茂っていて見えませんでしたが、この日は綺麗に刈り込んでおられてすっかり全部見ることができました。

ただ、雨で濡れていたこともありますが、以前よりは若干刻銘が鮮明に読めなくなっていました。
こちら側には「倉山作太夫久籌夫婦」と「平山矢九郎季徳夫婦」と刻まれています。

 

 「名越右源太篤烈夫婦」の隣、画像中央に「倉山作太夫久籌夫婦」の刻銘があります。

 

今回の画像では「倉山作太夫久籌夫婦」が読みづらくなっていますので、以前の画像を載せておきます。

↓画像の左端です

 

☆以前は一番奥の「平山矢九郎季徳」には気付けず、ブログに「コンプリート!」なんて書きましたが、未完成でした

島津直江久敬でコンプリート~!!  2020-06-28

 

最近になってまた改めて黎明館だより『黎明』を読み返してみたところ、黎明館の当時調査史料室長であった内倉昭文さんの説明文を読み返してみると「平山矢九郎季徳」の名前も刻銘されていることを見落としていたことに気づいたのです。

 

それもあって、初詣の際には近くなので行ってみようと思っていたのです。

写真を撮ることには成功しましたが、雨天で暗く、現地ではよくわかりませんでした。

帰ってから画像を見てみたら、確かに「平山矢九郎季("徳"は行人偏しかわからず)」と読めます。

 

今日になって、「平山矢(弥)九郎季徳」を『島津家家臣団系図集』で見てみたら、「豊州家」の人で、のちに「伊勢氏本家」(雅楽家)の伊勢雅楽貞章を継いで「弥九郎貞正」と改名している方らしいです。

 

だからこの石塔はその改名前に建てられたことになるな、と思うのですが、いつ頃だろう?

少なくとも、名越時敏がまだ「名越右源太篤烈」の頃であり、筆頭の「島津求馬久憑」が存命で、「平山矢九郎季徳」が、まだ伊勢家を継ぐ前、ということになりますでしょうか。

 

以前『石塔と島津求馬家の屋敷 2021-01-16』を書いていますが、

むしろ、この石塔は、島津登の屋敷跡にでもあったのではないだろうか??と思えてきました。

 

 追記:'22.3.7

「名越篤烈」と称していたのは、『旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ』に書きましたが『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』の「解題」を読むと、時敏が記した『常不止集』が「23〜26歳の頃の日記」であるとあり、時敏は文政二(1819)年生まれなので、少なくとも天保年間(1830.12.10~1844.12.2)から弘化年間(=1844.12.2~1848.2.28、それ以降の嘉永年間も?)が入る期間と思われます。

(各年号の西暦日付は「広辞苑」調べ)

 

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石塔と島津求馬家の屋敷

2021-01-16 22:21:29 | 爲恵祥院殿菩提石塔

☆ トップ画像は『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)より

 

古地図を見だすと時間も忘れるほどにキリがないのですが、

例の石塔が元はどこにあったのか、ふと思うのです。

(石塔についてはこちらをどうぞお読み下さい →『名越右源太篤烈とは?』)

 

島津求馬の屋敷の場所は以前見ていたのですが、最近また城下絵図を見ていて思いました。

この画像↓右上部の「岩崎谷」の「岩」の字の広い敷地、「島津求馬」の邸の場所です。

 

お城の裏の城山に登る途中のようです。

 

 

 

 また、画像フォルダの整理をしていたら、昨年の「鹿児島の城館」展で黎明館の外に展示されていた絵地図にも「島津求馬邸」があったことに気付きました!

画像中央の「岩崎口」から左上に向かいお城の後部の山に上がったところに「島津求馬殿」とあります。

 

この求馬家の屋敷跡にあったとは考えられないでしょうか?

それともやはりお城の二の丸でしょうか?

う〜〜ん、今あるお宅の場所から言えば、二ノ丸なのかなぁ。。

 

   

関連記事:『島津直江久敬でコンプリート~!!

  〃  :『倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!

  〃   :『倉山作太夫久籌?

 

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島津直江久敬でコンプリート~!!

2020-06-28 13:11:56 | 爲恵祥院殿菩提石塔

いつもお読み頂きありがとうございます

 

これまでカテゴリー『「爲惠祥院殿菩提」石塔』でいくつか書いてきました。

  最初の記事は、2016年12月20日『名越右源太篤烈とは? 』

 

この石塔に刻まれている名前を調べていましたが、最後までわからなかったのが、

画像左の「島津直○久○」でした  

 

昨夜、別件で『島津家家臣団系図集』を見ている中で、

市成島津家「土岐氏本家」(主水家)一所持」 の久浮(23代?)の娘が

「初 二階堂蔀 行経室 後 島津直江久敬室」 と書かれているのに目が止まったのです

(野田さん、女性の情報まで載せて頂き、ありがとうございます!!)

 

以前書き留めたメモには「島津求馬家」5代・島津求馬久憑(画像右)の次代に「久敬」の名前があり、「愛之助 直江(早世不継家督)」 とあったのですが、「早世」を「夭逝」と同意だと思い込んでいたため、「これは違うかな」と判断していたのです。

 

最近になって35歳くらいで亡くなっても「早世」と書かれているのを目にしていたので、この記述もその類なのかと考えが及び、2012年11月16日に撮った画像を見直してみました。

 

やはり「島津直江久敬」と読めると確証した次第です

これで全員の名前が判明したことになります

 コンプリート〜

 

で、この方が幾つで亡くなったかはわかりませんが、

島津直江久敬様がご存命中にこの石塔が建てられたということになりますね 

 

この石塔、個人のお宅にあるのですが、我が家としてはどうにもなりません。。。

なんとか、どんな形であっても保存して頂きたいものです

 

 

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倉山作太夫から上司・調所笑左衛門殿への書簡

2019-10-29 14:18:00 | 爲恵祥院殿菩提石塔

FBで先日の記事の倉山作太夫の紹介をしたところ、

あるお方に調所様の部下であったとご教示頂きました。

 

そこで、「倉山作太夫 調所笑左衛門」で検索かけたら

とても興味深いものを見つけました

「『琉球外国関係文書』編年目録」

(天保十四年に始まり、弘化元年三月〜嘉永二年十二月)

 

その中に、嘉永元年申七月晦日付けの、倉山作太夫から調所様への文書もありました。

「警吏新納四郎右衛門帰国照会」

 

弘化三年(1846)九月の「11」にはタイトルに「倉山」の名前が見られます。
弘化四年(1847)四月「12. 琉球国守備増遣(予備)」に、「当時琉球在番奉行は倉山作太夫」とありました。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/…/ok230016.htm

 

嘉永元年十二月以降、調所様のお名前が無いのが悲しい。。

https://ja.wikipedia.org/wiki/調所広郷

 

 

 

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倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!

2019-10-27 22:19:33 | 爲恵祥院殿菩提石塔

前回、倉山作太夫家の家系図を追って、倉山作太夫久籌の室は「島津登久備 孫女(永吉家二男家)」であるという記述を紹介しました。

 

そこで前回のように、『島津家家臣団系図集 下巻』で「210  島津登家[永吉家二男家](登家)」を確認すると、

「島津登久備」とは、「島津登久包」の祖父であり、久包の妹が「倉山作太夫久籌 室」と確認出来ました!

 

ということは倉山作太夫久籌夫婦は、久包の長女・タネ(名越右源太盛貞時行=左源太時敏 室)の叔母夫婦であると判明しました

  

 

さらに良く見ると、久包の父・「島津久命」は実は先代「久備」の従弟「掛橋輝次 兼治」が養子に入っており、

またその「久命」の妹(久備 女子)は「島津求馬久馮 室」とありました

なので、「島津求馬久馮夫婦」は島津登久包の叔母夫婦!という事になります 

 ←右端に「島津求馬久馮 夫婦」の刻銘あり!

 

と、ここで「島津登久包」を再確認してみました。

「八郎権五郎登 若年寄(斉彬公) 家老(忠義公) 戊辰戦争出役」

 

「久包」には弟もあり、「輝次 門十郎矢九郎 平山七郎右衛門 嗣」とありました。

   (‥‥ん?「平山」 

 

ところで、久包の長男で、タネの弟も「久籌」なのでややこしいです。

 

 写真の中央にある「島津矢柄久計」は島津矢柄家「薩州家准二男家」(矢柄家)にその名があります。

前述の系図集では

「134  島津矢柄家 [薩州家准二男家](矢柄家)一所持格 庶子号岩越」とあり、

「本宗家八代久豊公二男 用久」に始まります。

「久計 弥一郎矢柄」とだけ。

その長男に、「久敬」とあるのですが、続けて「弥一郎矢柄 室 菱刈杢之氶隆徴 妹」とのこと。

「島津矢市郎久敬」とは文字が違っているのですが‥‥。別人でしょうか??

 

「菱刈杢之氶隆徴」について、同様に「146  菱刈氏本家 [藤原北家庶流](藤馬家)一所持 本領菱刈院」にて確認。

「隆(実)徴」の妹「島津矢柄室」とあり、その父「隆珍」の弟に「久籌」とあり、

「孫五郎倉山作太夫久喜養子」とありました!

正に!島津登久包の妹の夫でありました〜  グルグル回って一周した感じ

 

「倉山久籌」について前回省いた箇所があるので再度、

「久籌 孫五郎作太夫 琉球在番奉行  実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備 孫女(永吉家二男家)」

 

  ☆10.30 追記:昨年6月13日に福昌寺で撮った写真に「菱刈安房隆観」「島津登久備」の名がありました

   関連記事 → 『調所笑左衛門などの刻銘を確かめに


ふと、(倉山作太夫)久籌の子供たちに目をやると、

長男・久昌の長男「藤五郎」という人がいて、(どこかで見たような‥‥)と思ったら、

永吉島津家「貴久公四男家」(中務家)を継いだ、タネの実弟「久籌 権五郎主殿又七」の長女・フユさんのところに「倉山藤五郎妻」と書いてあるのを以前見ていたので見覚えあるはずですね

 

「藤五郎 西南役薩軍狙撃一番左小隊長 於佐土原戦死 ‥‥ 

       室 島津又七久籌長女冬(永吉家)」

また、藤五郎の父・久昌の妹・ヌイさんは、「島津求馬久邦室」であり、

ヌイさんの息子「久能」さんも「応 吉織衛 西南役戦死 ‥‥ でした。。

       室 比志島静馬範雅女」

 

西南の役戦没者名簿で 確認しなくては‥‥‥。

 

それでは、今夜はこの辺で

 

 

☆☆☆☆☆☆

追記(11/4)

南洲墓地墓石配置図により確認! 栗川久澄の一つ置いた右隣にありました!!

たまたまですが、戦没者のネームプレートでも一つ置いた隣同士!

 

 

 

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倉山作太夫久籌?

2019-10-27 08:28:46 | 爲恵祥院殿菩提石塔

ここ数日調べ物をしていました。

以前2016年12月に書いた『名越右源太篤烈とは?』で上げた画像、石塔に刻まれた数組の夫婦の名前です。

(☆画像は全て、2012年11月16日撮影です。もう一度しっかり確認しなくては!)

  

左:「島津矢市郎久敬夫婦 名越右源太篤烈夫婦 倉山作太夫久籌夫婦」

右:「島津求馬久馮夫婦 島津矢柄久計夫婦 島津直??夫婦」

 

 この中で「倉山」という姓が気になっていたので、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄著 高城書房出版)で見てみると、

[ 倉山 ] ‥‥ 豊州家島津丹波 正徳年間 二男以下の苗字は倉山氏。諱字は長男「久」、二男以下は「季」と命名するよう命ぜられた。

  倉山久武 ‥‥ 豊後久起 子 倉山作太夫家(寄合並)祖。

と、もう一件「倉山藤八」の2件のみ載っていました。

 

そこで「豊後久起」を[島津]に探してみると、[ 豊州島津 ](p.151)にありました。

  島津将監久起 ‥‥ (島津内膳)久兵 孫 宝暦六年(1756) 千五百六十九石 一所持 若年寄。1757没。

  ※ 将監(しょうげん)‥‥ 近衛府の判官。左右がある。

 

この「久兵」は「久邦養子」で

 宝永二年(1705) 大目付。正徳二年(1712) 一所持 若年寄。 正徳五年(1715)〜享保十六年(1731) 家老。

とあります。

 

また、『島津家家臣団系図集 下巻』でも「倉山」をチェック!

下巻 p.356  倉山氏 「豊州家二男家」(作太夫家)寄合並

 282  豊州家十二代 島津内膳久起二男 文化九年五月樹家 屋敷 西田

 

久武 ー 久喜 = 久籌 ‥‥ 実 菱刈安房隆観三男 室 島津登久備孫女(永吉家二男家)

とありました!

今度は「島津登久備」を調べてみなくては〜、、、と一先ずここまで。

う〜〜〜ん、、この辺りも繋がりありそう〜

 

 「島津矢市郎久敬」「 島津求馬家」「島津矢柄(やつか)家」も調べましたが、次回以降に回します。

(何で「やつか」と確認したか忘れましたが、「矢柄」は「やがら」かもしれません。'21.1.16 追記)

「やがら」【 矢柄・矢幹・簳 】 ・・・ 矢の幹。篦(の)。矢篦(やの)。(「広辞苑」より '21.1.18 追記)

 

この石塔に刻まれた各家の繋がり、何かお気付きの方がおられましたら、コメントなど頂けると嬉しいです

 

 この石塔、引きで見ると、こういう形↓の石塔です。これにぐるりと名前が刻まれています。

  

上の画像を大きく写したのが↓こちら

 「爲 恵祥院殿菩提」と読めますが、

恵祥院とはまだ誰だか分かりません。ネット検索では出て来ませんでした。

 

 

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名越右源太篤烈とは?

2016-12-20 12:39:52 | 爲恵祥院殿菩提石塔

最近の携帯の待ち受け画面は、これです。

表には「為 恵祥院殿菩薩」とありました。

「名越右源太篤烈」の名前がありますが、これ、どうやら左源太時敏のことらしいです。

「天保十一年庚子正月」とあり、その当時の名乗りなのでしょう。
右源太、左源太と記述も変わり、名前も「篤烈、時敏、時行、泰藏」と変わっているようです。


この写真は、4年前の2012年11月16日に撮ったものです。
「島津矢市郎 久敬」などの名前もあります。どなたかはわかりませんが、他に何組かの「夫婦」で寄進された石灯籠のようです。


これより前、2010年8月に頂いたコメントに「篤烈」は左源太では?というものがありました。
※こちら→「そもそもの始まりは」のコメント欄

その後、県の歴史資料センターの調査室長さんから頂いた『黎明館だより Vol. 30 No.2』(平成24年8月1日発行)の7ページに載っていて、父と連れ立って見に行ったところ、父の仕事関係での知り合いで私も面識のある方のお宅でした。訪ねた際はご本人は外出中で、息子さんから少しだけお話を伺う事が出来ました。

場所を言えば先方にご迷惑になるのでは?と思うので、資料にもある「メルヘン館の近く」とだけ。


いま、この「黎明館だより」を読んでいて気づいた事があります。
この寄進者7組の夫婦にある程度共通する人物に永吉島津家の庶流の「島津登」という人が浮かび上がるそうですが、
前に読んだ時にもちょっと気になっていて確認したところ、
この名前、左源太の妻、タネさんのお父上のようです。

以前内村八紘さんから頂いた資料によると、タネさんは島津登久包(ひさかね)の長女とあるのです。
そして、タネさんの実弟:島津久籌(←竹冠に壽:ひさとし)は永吉島津家を継いでいるそうです。

なので、おそらくそちらの関係なのでは?と思う次第です。



今年はあまり歴史探訪は出来ませんでした。五代(友厚)さんの誕生地に行ってみたくらいでしょうか。

犬も猫も亡くなって時間はたっぷりあるのだけど、何やかやとやる事はあるもので、雑事に追われて一年が過ぎようとしています。

以前、他のブログに書いたかもしれないけどここにアップしていない記事や写真とかもあるので、今後はそのようなものも紹介していく予定です。

それでは、また。

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