☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

鎮守神社(炭床)

2021-10-13 20:25:27 | 歴史探索

 2010年11月28日撮影

前回に続き、これも過去に撮った画像

炭床(すみどこ)、地元では「すんどこ」というのかな?

そこの鎮守神社です。

 

確か2010年当時、引っ越しからだいぶ経つのに、

「そういえば、土地神様、氏神様に一度もご挨拶していないなぁ」と思い、

鹿児島県神社庁に電話して尋ねたところ、ここと、黒丸神社を教えていただきました。

それで父と訪ねてみたのです。

県道35号永吉入佐鹿児島線を春山方面へ向かい、途中右手の道に入ります。

行き着いたのは住宅の横の細道の奥まったところでした。

市のコミュニティバスは近くの公民館までは通るみたいですが、そこからさらに奥に行ったところです。

車で行ったので止めるスペースがかろうじてあったので良かったです。

鳥居の奥の階段を登ると社殿がありました。(トップ画像)

 

 社殿の横には紀念碑がありました。

左:「明治三十七、八年 日露戦役紀年碑 明治三十九年八月十六日○(不明)」

右:上部に「紀念」とありますが、「大正十一年」(?)の他はこの画像では不鮮明です

  

 訪れる人、いるのだろうか?と思うほどの静かな、ちょっと寂しい感じの神社でした。 

地元の方が守っておられるのかもしれません。

11年前の事でした。

では。

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歌誌「にしき江」創刊者の歌碑と烏帽子嶽神社の鳥居

2021-10-08 23:07:46 | 歴史探索

いつもお読み頂き、ありがとうございます

 

例によって、FBにアップしたきりで

当ブログにあげてなかった画像が多々あるので、

ちょっと並べてみます。

 

国道226号線を鹿児島市から南へ向かい、平川付近の左手に鳥居が見えます。

 2014年11月2日撮影

 

車を降りて見てみたところ、「烏帽子嶽神社御由緒」の案内と、

短歌雑誌「にしき江」創刊者の歌碑がありました。

「鶴田海南歌碑・昭和三十九年三月建立

  同 さゑ歌碑・昭和四十七年九月建立」とありました。

〈海南〉歌碑↓

 

〈さゑ〉歌碑↓

  

 

7年前の撮影時にはありませんでしたが、FBで最近撮影された方の画像には

「鶴田正義歌碑」が写っていました。新しく建立されたのだろうと思います。

 

今、「にしき江」で検索したところ、HPのTopics にありました!

平成27年3月28日に除幕式があった模様です。

 

 実は亡き母が一時期「にしき江」に参加しており、

家には鶴田正義先生のお写真を一緒に額に入れた賞状(免状?)が掲げてありました。

(現在は亡き父が部屋の模様替え時に鴨居から下ろしてどこかへしまってあり確認出来ず‥‥)

また、鶴田正義氏は南洲神社の宮司(当時)で、著書に『南洲神社・墓地由緒』があります。

  (画像はリンク先「日本の古本屋」さんよりお借りしました)

 今あらためて本の出版年月日を確認すると、

「平成15年5月20日第1刷発行」でした。母が亡くなったのが平成11年なので、

これは母が亡くなった後に購入した本でした。父が購入したのか私だったのか‥‥不明。

気になる本があるとやたらと購入してた時期があったのでその中の一冊だったか、

結果としてはその後の学びに貴重な一冊となりました。

「著者略歴」を読むと、

「大正3年 鹿児島市平川町に生まれる」とありました。

続いて、

「昭和8年 鹿児島県立一中卒業

 昭和7年1月より父の偉業を継ぎ、歌誌『にしき江』を編業、主幹となる

 昭和9年10月より南洲神社に奉職、宮司

 平成15年4月より名誉宮司」

「昭和51年 藍綬褒章受章

      (鹿児島刑務所篤志面接委員の功による)

 昭和59年 南日本文化賞受賞

 昭和63年 宮中歌会始入選」とありました。 

  

⛩烏帽子嶽神社御由緒の案内板より

 

「御祭神 建速須佐之男命 天之手力男命」

 

⚪︎天文年中(1532〜1555年) 島津貴久公、国中平定にあたり

烏帽子嶽飯網大明神を御信仰になり、父君日新公は木造の本尊を、時の修験者、長野武蔵坊に命じ、

三鉾杉の下に勧請せしめられる。

 

⚪︎弘治三年(1558年) 鶴田伊豫守(烏帽子嶽神社初代宮司)は、

平川津野崎大明神、烏帽子嶽飯網大明神祠官を命ぜられた。

(「飯網(めしあみ)」と読みましたが「飯綱」かも?間違えていたらご指摘下さい)

祠官となった伊豫守は、風雨により破損のはげしい三鉾杉の

本尊を、子丑の方、吹き晴らし峯(今嶽=今の社地)に御遷座申し上げた。

元の場所(三鉾杉の下)には、小石祠を建立して本山と呼ぶ。

以後、社家(シャケ)道、修験道の両道奉祀せるも 明治の初め、

廃仏毀釈に際し本尊は鏡となり、烏帽子嶽神社と称され、

社家道の奉祀により現在に至っている。

 

⚪︎天正(1572〜1592年)初め、義久公詣で、太刀薬丸(?)二尺三寸)を

御寄進さる。

享保十一年(1727年)春秋彼岸中日を以て祭典日と定めらる。

中でも柴打ち神事は、当社独特のお祓いであり門外不出の

特殊神事である。(一体、どんなんだ??

諸祭典神事は、現在も受継がれ、厳粛に執り行われ、又、

修験の行場としても親しまれている。

          宗教法人 烏帽子嶽神社

          第十八代宮司 鶴田千明

  

 思うに、「鶴田伊豫守」は鶴田海南、鶴田正義、両氏のご先祖様なのではないでしょうか。

 

 昔の携帯で撮ったので画質が荒く、今回初めて細部まで読みました。

読み間違い書き間違え、勘違い等があればご指摘下さい。

では〜 (この記事、草稿は10月8日、現在10月13日17時です〜

 

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石敢當(せっかんとう)から都城島津家、更には北郷氏へ

2021-09-09 14:31:18 | 歴史探索
いつもお読みいただき、ありがとうございます
(画像は以前、鹿児島市内の常盤町で写したもの)
 さて、FBの歴史を語るグループで昨日話題に上ったのが石敢當(せっかんとう)でした。
沖縄や鹿児島ではよくみられるもので、「中国から入ったのでは」とか「琉球から」と話題になったことから、私は「唐人町」のある都城あたりも関係するのでは?と、以前購入していた佐々木綱洋氏の『都城唐人町』や『都城島津家墓地』をめくってみたのです。
 
 すると、前回書いた北郷家について、
『都城島津家墓地』の冒頭、第1章 第1節に「北郷氏と都城島津家」と題して詳しく書かれていました。
ただ、以前は「和泉(今和泉)島津家」に関するところに興味があり、北郷家については気になりつつも、詳しいところまでは読んでいませんでした。
 
 北郷家は川内の平佐北郷家もありますが、都城島津家を離れ作った別家とのことで、その辺りのことや、鹿児島側からではなく都城や宮崎の歴史の動きも知らなくては始まらないな、と思っていました。
 
 飫肥城、伊東氏、はたまた豊州家との関係なども気になるところ。
 
 忠平(のちの義弘)の妻が北郷忠孝の娘であり、二人の間にできた「お屋地」は北郷時久嫡子・相久(すけひさ)に嫁いだが、謀反の疑いによって自害すると、お屋地は義弘のもとに返され、豊州家朝久の室となり‥‥等々、詳しく書かれているのです。
 
 また沼にはまってしまいますが、
これを機に今回はじっくり読んでみることに島津。
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黒丸神社へ(2009年3月8日 番外編)

2021-04-08 23:28:33 | 歴史探索

さて、『2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ③』で白山神社まで回ったところで、この日は解散。

父と二人、近くにあるはずの黒丸神社、ここは氏神様と聞いていたので、いつかご挨拶をしなくては、と日頃から思っていたところ、良い機会だからと訪ねることにしたのです。

白山神社から少し奥まった狭い路地に入ると、案内板が出ていました。

  

 

 

  

 

 

 

ここの狛犬さんが秀逸なのです。一遍でファンになりました

 

 

阿形(あぎょう)です。フォルムもなんとなく可愛い

 

 

吽形(うんぎょう)も、なんとも言えずキュート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 この↓こんもりとした緑の小山が黒丸神社です。

 

以上、黒丸神社初訪問、でした。お参りは‥‥‥しておりませんでした

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2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ③

2021-04-08 23:11:15 | 歴史探索

前回の『2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ②』に続き、中山(ちゅうざん)地区にある白山神社です。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

桜が美しく咲いていました🌸

 

 

 

 

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2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ②

2021-04-08 22:53:04 | 歴史探索

前回の『2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ①』に続き、旧・伊作街道へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苔むして滑りやすいので、この辺で引き返すことにして、旧・伊作街道の探訪は終了。

 

 

 

これより白山神社へ向かいます。 

 

 

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2009年3月8日 滝ノ下地区〜旧・伊作街道〜白山神社へ ①

2021-04-08 22:23:59 | 歴史探索

いつもご覧いただき、ありがとうございます

これまでに鹿児島の歴史を探訪した所で、mixi日記にも残していなかったものを

備忘録としてこのブログで新たに綴ることにしました。

 

 2009年3月8日、鹿児島市南部の滝ノ下地区から旧・伊作街道、白山神社にかけて、

中山(ちゅうざん)地区を「かごしま探検の会」に父と共に参加して訪ねたものです。

 

まずは、山之園〜滝ノ下地区から

 

永田川上流の樋渡橋近くの山之園地区です。手前の山之田川との合流地点で、画面右が下流。

 

中山交番手前を右手の滝ノ下地区へ向かいます。

 

「田のかんさあ(神様)」です。田んぼの側で、豊作と安全を見守っています。

  

 

意外にもこの辺りからも桜島を望むことが出来ました!

 

「伝・小伝次の墓」へ

 

私が「伊集院忠棟幸侃」の名を初めて聞いたのがこの時でした。

 

 

 

 

 

個人的にはこの↓岩肌が気に入りました(笑)

 

 

  

 

 

 

山桜が咲く季節でした🌸

 

 

  

滝ノ下地区の名前は確かこの滝由来でしたか、そのままの名前ですね

 

 

こちら、探検の会の誰かさんですね(笑)

 

 

  

 

さて、これから旧・伊作街道へ向かいます。

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加治木島津家関係の墓地?

2021-02-15 00:49:06 | 歴史探索

このブログを始めたのは、2008年3月20日の春分の日だった→『春分の日に、ブログを始めてみた。

 

その後、それ以前に書いていたmixi日記を当時の日付でいくつか当ブログに記録し出したのだけど、

2008年3月のブログを読み返してみた。

坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)』などを読むと、まだこの頃は名越家のお墓のことも町田家とのこともほとんど知らない状態だったんだなぁ、ということがよくわかる

 

「なぜ?」mixi日記より』(2008年3月10日の日記)に書いたように、左源太の長男の家系の方が書いた資料に載っていた、移設前の長谷場墓地のお墓というものがどうしても気になっていたので、「深固院」だか「長谷場墓地」だかの跡がどこなのか知りたくて市役所で教えてもらったのだった。

 

現在、池之上の玉龍高校の裏手の小高い山にある、深固院龍源寺の墓地があるらしく、

市役所の担当の方によると「加治木島津家の関係の墓しかないですよ」「少し前の台風被害でそのままになってるみたいです」ということでした。

あれ以来行ってないけど、今どうなってるのか、気になっています。
丸十紋のお墓もありましたが、文字は読めない状態でした。
 

 2008年の3月13日、父と行ってみた時に写真も撮ったので、いくつか並べてみます。

 

玉龍高校(2006年以降は中高一貫校になっている)の裏手にある「深固院龍源寺」

 

 また別のお寺さんらしき「發照寺(ほっしょうじ)」の表示もある

その右手に伸びる長い階段を昇ると、

 

   

上から見ると、こんな感じ

 

 

そこから更に奥の小高いところに、墓地、らしきところがあった!

 

その右隣には何やら立派な墓石が‥‥!

 

父の前、向かって左の五輪塔 側面を見ると、

「新納刑部大輔 忠秀 室」とありました。

 

そして、真ん中の石の祠の背後には、草に覆われた墓石群が‥‥既に無縁仏なのだろうか?

  

 

父の前の右手の五輪塔の横にも、雑草に埋もれた小さな墓石が並んでいました。 

 

他にも没年月日や「法名」?の刻字なども見える墓石群‥‥

 

更に、五輪塔の手前にある石祠に添えられた石柱には

「樺山資賢」「小山田貞雄」「向井友敬」など刻まれていました。 

 

他に丸十紋らしきものが刻まれた墓石もありました↓(画像をクリックして見て下さい)

 

 丸十紋の五輪塔 名前は不明ですが、こちらが加治木島津家のどなたか、でしょうか?

 

「亀山氏」の墓石群がありました。右側の墓石に「亀山良盛」の名があります。

 

こちらの五輪塔周辺も「亀山氏」。奥の墓石には「亀山良智」の名も。

 

こう言う状態のものが多くありました。

  

 

更に奥の方にもお墓があるようでした。

 

丸十紋の五輪塔越しに、桜島を撮影

 

この日、上空には飛行船が飛んでいました。

  

結構頭上近くをゆっくりと旋回して行きました。

 

 

日が傾いてきたので、この辺で降りることにしました。

 

登り口とは違う寺の名前、「発照寺」

 

長い階段を降りて帰りました。

 

帰りにはワンコに吠えられつつ見送られ、、、^^;

 

最後に、墓地から見下ろした景色

 
(ここまで全て2008年3月13日撮影)

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新納殿小路(にろどんしゅっ)

2020-12-12 12:03:53 | 歴史探索

 いつもお読みくださって、ありがとうございます

またまたFBで先日上げたものですが、記録としてFBのコメント欄と共に再編集して書いてみました。

 

先月(11月14日)偶然見つけた通り名の石碑
「新納殿小路」と書いて「にろどんしゅっ」です
「小路(しゅっ)」の小さな「つ」が見えにくいですが、「しゅっ」です。これ大事
 
最初に「…小路(しゅっ)」に出会ったのは夕刊記事の「ねこんくそしゅっ」でした😆🙀
(2008年4月18日の南日本新聞の夕刊でした)
この方の記事に、その夕刊記事が載っていました♪
 
 
 
平田公園の角にあります(2枚目)
 
 
角から左を見ると、「調所笑左衛門広郷屋敷跡」(3枚目)
画像の奥、向こう側が3号線、新上橋、新照院方面です。
右手の白い服を着てる人の辺りに、調所様の屋敷跡の石碑が建っています💁🏻‍♀️
 
 
こちらは照国神社方面を撮りました。
 
 
 
☆唐鎌祐祥先生のブログを参照下さい。
 
「新納殿」とあるように、新納氏の屋敷があった場所ですが、明治時代以降の、また戦後の区画整理等もあり、元々の通りや町並みは変わってしまったようです。
 
☆また、上記リンクのブログで「永吉島津家」や「町田家」についても触れられている記事を見つけたので、参考までにご紹介します。
↓↓↓
 
 
 ではまた〜。
 
 
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初めての南方神社参詣('11.1.8)

2020-10-12 10:27:49 | 歴史探索

古い画像ファイルを見ていて、いつか上げようと思いつつそのままになっていたものを拾ってみました。

2011年1月8日、父と連れ立って鹿児島市上町五社の南方神社に行きました。

ここを訪ねたのは初めてだったと思いますが、その際に撮っていたのが

「島津山城 忠教(ただゆき)」の名が刻まれた石塔でした。

撮った当時は何となく「島津久光のことじゃないかなぁ‥‥?」と思った程度でしたが。

左に並んだ「島津〇〇」については読めませんし、わかりません。。

  

案内板に書かれているものを以下に書き起こしてみます。

『ー 最も古い島津氏の城下町 ー』

 島津氏が本拠を鹿児島に移したのは南北朝時代のことです。島津家第5代貞久は、東福寺城を攻め、鹿児島郡司 矢上一族を追い、鹿児島へ入りました。島津氏の城下町はこの城を中心に南へ南へと広がっていったのです。また、この時、出水山門院から移され、この地に建立されたのが南方(みなかた)神社です。南方神社は諏訪神社ともいい、建御名方命(たてみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)を祭り、上町五社の第一社として歴代藩主の信仰が特に厚く、諏訪市(8月28日)と呼ばれた市は、西田市(にしだいち)と並んで最近まで盛んでした。

 五社には他に、オギオンサァの八坂神社や流鏑馬(やぶさめ)の奉納で賑わった稲荷神社、藤原氏の氏神 春日神社、大隅正八幡の分社 若宮神社があり、いずれも島津氏に縁故が深く、正月、5月、9月は五社詣(もうで)と称して多くの人々がお参りして賑わいました。

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中西長門守秀長は近江の人で猿楽の名人だった

2020-09-25 15:58:22 | 歴史探索

 いつもお読み頂きありがとうございます

 ←「中西長門守秀長」の墓石(クリックすると拡大表示されます

さて、7月末に『岷山? 』というタイトルの記事で福昌寺の墓石の主について調べていましたが、

「中西長門守秀長」の名前を調べる前に、数日後、別件で『かんまち本  その2』を読んでいたら

「虎屋馬場(とらやんばぁ)」の説明文にその名前が出ていました

『虎屋馬場(とらやんばぁ)』の項に、「虎屋と称する呉服商の中西秀長の屋敷がありました。秀長は猿楽の名人であり、島津忠恒に伝授しました。」とあります。

「呉服商」で「猿楽の名人」、、、?

島津忠恒、のちの島津家久の頃の人、ということはわかりますが、、、ん〜〜、もう少し詳しく知りたいですね。

 

改めて「中西秀長」でネット検索してみました。

元々は近江の出の家系のようですね。

「尚古集成館」のHPにも関連記事がありました。

「能楽(のうがく)」

 

以下、Weblio辞書より → 「中西秀長」とは?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/04 19:54 UTC 版)

中西 秀長(なかにし ひでなが、生年不詳 - 慶安3年8月11日1650年9月6日))は、江戸時代初期の薩摩藩武士は秀長。通称は弥兵衛、長門守。猿楽の名人。近江国小幡村の領主の子孫である小幡弥兵衛宗以の子。は秀長。12歳の時に豊臣秀次に奉仕し、浪人して上京して呉服商となり、家号を虎屋と称す。慶長年中は虎屋または小幡氏を称す。薩摩藩に移って後も、しばらく「虎屋」を称していたため、かつて中西秀長の屋敷のあった通りに「虎屋の馬場」という名がついた。

「中西秀長」の続きの解説一覧

のちに猿楽の名人であるが故に、島津忠恒に300石で仕官す。のちに1000石となる。征夷大将軍徳川家光の薩摩藩桜田藩邸御成の際は猿楽を披露する。また、薩摩藩に金春八郎大夫厳達、大坂本願寺坊官下間少進法印に伝わる謡曲や舞踊を伝え、島津忠恒に猿楽を伝授した。

また禁裏より参内を命じられ、正六位、長門守を叙される。寛永年間に中西に改姓する。

墓は浄土宗知恩院の末寺、不断光院。法号は久遠院円日大居士。墓所から宗旨は浄土宗と思われる。また、息子は中西分右衛門(初め、弥左衛門。墓は父に同じ)、中西長門右衛門秀乗(墓は福昌寺)。子孫は代々、猿楽を世襲する。

年譜

  • 慶長7年;島津忠恒に仕官。
  • 慶長9年;禁裏より正六位、長門守を叙される。
  • 元和6年;加増されて1000石となる。
  • 寛永7年4月8日;徳川家光が薩摩藩桜田藩邸に御成となり、猿楽を披露す。
  • 寛永13年;この年作成の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」によると、『新堀の上』に『中屋敷 3620分 中西長門守殿』とある。鎌田出雲守政統の屋敷が近くにあった。

参考文献

  • 上野尭史「鹿児島士人名抄録」高城書房
  • 「鹿児島県史料 旧記雑録後編4」
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岷山?

2020-07-28 23:01:28 | 歴史探索

 トップ画像↑ 画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。

(中央の墓は「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「琉球人の墓」)

 

 福昌寺墓地の石塀の外の一群の墓を見て、よく知らない人物のことを調べてみることにしました。

まず、「K」の「岷山(樺山資之 父)の墓」です

 ←こちら、画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。

(中央の墓は「J」の「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「I」の「琉球人の墓」)

 

そもそも「樺山資之」という方を知りませんでしたので、ネット検索してみると、

「樺山三円」の諱であると出ていました。

また、「樺山資之」の別称:樺山三円の実父が「樺山資雄」と書かれたサイトを見つけ、

「樺山資雄」(かばやま すけお)は「幕末から明治期の国学者」であることがわかりました。

晩年は「松原神社の宮司となった」とあります。

 

以下、「コトバンク」より「樺山資雄」の項 

 

「 1801-1878 幕末-明治時代の国学者。
  享和元年10月14日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。香川景樹(かげき)に和歌をまなぶ。藩命八田知紀(はった-とものり)らと地誌「薩隅日地理纂考」を編集。晩年,鹿児島の松原神社宮司となった。明治11年7月13日死去。78歳。通称は武左衛門。著作に「山陵遺考」。

出典 講談社 」

 

「中西長門守秀長」についてはまた後日調べることにします。

 

 

 

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横山安武の命日(旧暦7月27日)

2020-07-27 22:44:10 | 歴史探索

以前撮った福昌寺墓地の写真を見ていたら、明治3年に「集議院」前で自刃したという横山安武の墓が目についた。

 説明板には「衆議院」とあるが、「集議院」であり、現在の「衆議院」とは別物のようですので修正しました('20. 8.3)

 

墓石をよくよく見てみると、、、「七月廿七日卒」とあり、旧暦ながら今日が命日!

明治3年のことだから、1870年、ということは、今年が没後150年ということですね。

 

 3年前の6月4日に訪ねた時の写真をフォトチャンネルにまとめてみました。

福昌寺墓地 2017.6.4

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苦辛(くらら)城跡へ

2020-07-24 01:39:04 | 歴史探索

しばらく雨が続いた後2〜3日は晴れたので、7月21日 火曜日に、

以前から行きたかった「くらら城跡」を訪ねてみました。

今回は先に別ブログに画像満載で記しました → アメブロ『クララ〜、くらら城跡に行って来たよ〜♪

が、こちらにも記録しておきます(一部微妙に違う写真もアップしました

☆ 訪ねる前にこのサイトを参考にしました↓

  http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10724.html

 

 

城跡からの眺め(南〜南南西方向)。昔もこんな感じで見下ろしていたのでしょうか‥‥。

 

島津勢に渡る前までは「鞍良城」と記されていたとか。

また、「くらら(苦参)」というマメ科の薬草が城の周りに自生していたことが名前の由来だそうです(以上、前述サイトによる)

 

 

皇徳寺小学校が見えます。小学校の前を通って右手の奥まったところにあります。

  

 

6時35分くらいから10分ほどで夕闇が迫って来ました。

 

 

公園の入り口から桜島が見えます。

 

公園は地震時の緊急避難場所になっています。

 

 

 以下、画像など追加('20. 7. 27)

『「かごしまデジタル」より、中世の山城「苦辛城」模型 』 ←※これで何となく全体像がイメージできる、かも?

  

 

 

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五輪塔板碑だった!

2020-06-29 16:37:21 | 歴史探索

ずいぶん前に行った鹿児島市吉野実方の「御内用方」の跡に、気になる物があったのです。

屋根の形をして、丸い模様や二つの塔のようなものが彫られた平板な石碑のようなものです(↑トップ画像)。

「実方(さねかた)というところ」mixi日記より 』

 

 

その時にはよくわかっていなかったのですが、クマタツさんのブログによく似たものを見つけました!

「本立寺跡」の記事内の画像ですが、「五輪塔板碑」というのですね、これ!(トップ画像↑)

島津家廟堂を訪ねる 』

勉強になります〜♪

 

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