☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

名越左源太泰藏の子供たち

2011-01-20 13:37:52 | 名越左源太と家族

名越左源太の子供は4人。(☆これに関して後に分かったことを↓最下部に追記)

上から、長女:イサさん…天保11(1840)年1月7日生まれ
    次女:フデさん…弘化 2 (1845)年6月16日生まれ
    長男:時成さん…弘化 4 (1847)年9月24日生まれ
    次男:轟さん …嘉永 3 (1850)年1月26日生まれ

      ***

以上、こちらも前回に続き、
2009-09-13 10:45:26 に草稿のままだったものをアップしてみました。
旧暦なので西暦表示には少々自信がありません。。特にイサさんなど。
たぶん合ってると思いますけど。

イサさんもフデさんも、それから時成さんについてもこれまでいろいろと書いてきましたが、もう少し整理してそれぞれに関することをまとめて書いてみたいと思ったのでした。でも、それはまたいずれ。


こうして並べてみると年齢差などがハッキリして便利。
ただ単に、自分のために整理したかったということもあります。(笑)

今思えば、ここから、幕末から明治期の歴史の流れにも興味を持つようになったのです。

左源太泰藏のじいさまや
曾祖父兄弟が生きていた時代のことをもっと知りたい、と。



もうすぐ、曾祖父・轟の誕生日です。
その前日の1月25日は、祖父・篤彦の命日です。

そして、篤彦じいさんの誕生日は
1881(明治14)年5月16日。
その1ヶ月後の、6月16日は
篤彦の祖父、左源太(時敏)改め泰藏の命日。


う~~む、なかなか妙なり。
ややこしや、ややこしや。


そうそう、ややこしついでに、
イサさんの嫁ぎ先は川上家。
(夫・川上久達さんは慶応3年には京都詰めの家老だそうです。)

そして、祖父・篤彦の姉(イサさんからすると姪)の嫁ぎ先も川上家。
(こちらが吉野実方の”川上どん”。終戦後、父と父の両親・兄弟家族が身を寄せたところです。)


で、その篤彦の姉(父の伯母)の名前は「フク」で、
篤彦の妻(私の祖母)の名前もこれまた「ふく」という、、、。
なんともややこしく、この3~4年は
家族・親族のつながりを覚えるのに一苦労しました。


*昨年1月2日に訪ねてみた鹿児島市内の竹迫温泉。

(この日も桜島が噴煙を上げていました。)


ここは鹿児島市長だった故・平瀬実武氏ゆかりの温泉。
<南日本新聞のHPより↓>
http://373news.com/modules/nmblog/response.php?aid=207
その平瀬氏は、イサさんの孫だとか。

<上記リンク先の記事より引用>
「県議や串木野市長、そして鹿児島市初の革新市長だった平瀬実武さん(1994年、92歳で死去)が途中から経営し、晩年、90歳を超えても自ら番台に座った。手にはシェークスピアの原書。読みながら番をしていたという。」

*去年のこの日はお正月休みで3日から営業とのことだったので、
残念ながらこちらの温泉は未体験。
行って、平瀬さんのお孫さんのお話なども聞いてみたいな。
左源太さんのこととか聞いてらっしゃるのでしょうかどうでしょうか?
それも、いずれまた。
  
 

☆冒頭部分、追記にて訂正(2017. 4.4)

「左源太の子供は4人」と書いたのですが、
『鹿児島県史料 名越時敏史料ー1』によると、
「三男・吉次郎、四男・徳熊」とあり、
4男2女がいたとのことです。
文久2年の正月の日記に左源太時敏本人が書いています。


コメント (6)
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昭和21年の父と祖父・篤彦

2011-01-19 12:55:34 | 名越左源太と家族

*2009年6月15日、桜島爆発直後


      ***

以上、一昨年7月9日にブログ草稿のままだったものをアップしてみました。

上記タイトルからは、もはや何を書こうとしていたかは判然としませんが、鹿児島市易居町から名山堀界隈を散策したときのものです。

*その時の記事はこちら

父は、終戦前年の昭和19年3月21日に台湾の高雄港から船で日本本土へ向かい、10日後の3月31日に大阪港へ。
翌日の4月1日に四国松山で海軍予科練に入隊し、宿毛(すくも)の辺りで終戦を迎えました。
戦後の残務処理で詫間に滞在した後、台湾に戻る船が佐世保から出るらしいと聞いて向かったものの、佐世保の手前で、もう台湾へは渡る必要はない、と(すでに中国本土から国民党が入ってきてたでしょうか)止められて、
家族が身を寄せている鹿児島へ移ってきたそうです。
昭和21年の頃の話です。


祖父・篤彦の姉が吉野の実方(さねかた)に居り、父は台湾から一足先に引き揚げて来た家族とそこで再会。その後、しばらくして家族で易居町へ移り、祖父は昭和23年1月25日、満66歳で亡くなりました。
       〈追記:青文字については、その後2017年になってわかったのですが、父が先に引き揚げて来て、運輸局の仕事をしていた実方(さねかた)川上家の従兄から港湾の仕事を紹介され北九州・苅田港で一時期仕事をした後に鹿児島へ帰り、家族と合流した、ということらしいです。確認作業も一苦労です………。(2018.1.25 追記)〉

*その、実方の家は別府晋介生誕地のすぐ近くでした。
(写真は'09 10/27に散策して撮ったものです)



末の息子だった父はその時21歳。
祖父は台湾を引き揚げる時には既に病気を患っていたようで、易居町のバラックの家では治癒もままならず不自由だったことと思います。


当時住んでいた場所を訪ねての、父との名山堀散策でした。

*当時バラックがあったと思われる辺りの写真。

「錦城幼稚園」の敷地を引揚者などの住まいに提供していたそうです。
そこが、終戦直後祖父母と父や兄弟とが過ごした場所。


*父には、この近くの不断光院が目印となりました。


名山堀、最近徐々に注目されているようですね。

「かごしま探検の会」の事務局もここにあります。
近所のスペイン風居酒屋も人気だそうで、私も行ってみたいと思っているのですが、、、。
今度、ご無沙汰している友達を誘って行ってみようかな。 

 

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2011年始まる

2011-01-18 00:57:17 | 日記
いつもお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

さて、もう新年もすでに始まってますが、今年は携帯からちょこちょこっとアップしてみようかな、なんて思っております。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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