☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

継豊の後継、長男・宗信と次男・重年

2022-06-16 16:29:06 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

 いつもお読みいただきありがとうございます 

画像は紫式部の花🌸5月末に撮影。黄色の花🌼はカランコエです。

 

前回は吉貴・継豊親子の時代を再確認しましたが、

その後、継豊の長男・島津宗信も若くして亡くなり、継豊次男の島津重年が後を継いだのです。

・島津宗信 … 享保十三(1728)年  江戸の芝藩邸に出生。

       延享三(1746)年 継豊が隠居し、宗信が封を継ぐ

        〜 寛延二(1749)年 病に罹り、同年七月十日 鹿児島鶴丸城に没す 歳二十二

 関連記事:

→『第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪』(2019-05-26) カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

 

以前、平田靱負について書いた記事もありますが、

→『平田靱負と藩主・島津重年』(2019-05-25)カテゴリー:第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

島津重年は江戸へ参勤交代の途中、まだ子供だった島津重豪の伴い、岐阜の「宝暦治水」の現場を訪れています。

 

☆きのうのテレビ番組『英雄たちの選択』(田沼意次の回)を見たことで、

寝る前に再度諸々を確認することになったのですが、

島津重年の没年月日を改めて目にしてみると、

宝暦五(1755)年 六月十六日

旧暦の今日でした!

それで、またまたその偶然に驚いて、今日のブログ記事と相成りました

 

・島津重年 … 享保十四(1729)年 鹿児島鶴丸城に出生。

   重年は初め加治木島津家島津久季の養子となり元文二(1737)年元服。

  寛延二(1749)年、兄の藩主・宗信が若くで亡くなり後継ぎがなかったので、

 重年が本家に復し、第24代藩主を継ぐ 〜 宝暦五(1755)年 江戸の芝藩邸に歿す 享年二十七。

 

 以上、主に『島津歴代略記』を参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「田沼時代」は安永・天明年間

2022-06-16 13:42:46 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
前回に続き、『英雄たちの選択』からもう一つ。
 
昨夜は「田沼意次」の回だったけど、その中身というよりその年代についていろんなことが気になった。
 
「田沼意次」… 1772(安永1)年, 幕府老中。子の意知(おきとも)と共に田沼時代を現出。(1719〜1788)
(※「広辞苑」より)
 
江戸中期、第9代将軍徳川家重の小姓を経て側用人となり、第10代将軍・徳川家治から老中に登用されたわけだけど、正直このお二人の将軍には馴染みがなかった。
 
 第8代将軍はよく知られた徳川吉宗、第11代将軍は徳川家斉で、松平定信を老中に任じ「寛政の改革」を行なった。
 そのお二人の間に埋もれた印象。
 
田沼時代の後半には「天明の飢饉」(天明2〜7年)、天明の大火(天明8年1月晦日, 京都の大火)などもあった。
年号を順に網羅しているわけではないので、田沼時代を確認すると、
 
・安永(1772. 11. 16 〜 1781. 4. 2)後桃園・光格天皇朝の年号
・天明(1781. 4. 2 〜 1789. 1. 25)江戸後期、光格天皇朝の年号
 
とある。
 
1700年代といえば、薩摩藩・島津吉貴、島津継豊を思い浮かべるのが私の性(さが・性質)なのだが、これも確認してみると、
・島津吉貴 … 延宝3(1675)年生まれ - 延享4(1747)年没
      宝永元(1704)年襲封
・島津継豊 … 元禄14(1701)年生まれ - 宝暦10(1760)年没
      享保6(1721)年に藩主襲封
 
※ どの時代にも天変地異あったわけですが、享保元年〜2年には霧島山大爆発を繰り返した模様。
 また、享保年間、延享年間にはそれぞれ江戸の桜田・高輪の藩邸が延焼し、出費はさらに累増したそう。
 
☆おまけ:吉貴・継豊の時代に鹿児島郊外の武に黄檗宗の寿国寺を建立
 「寿国寺」についてはブログでコメントいただいている「クマタツ1847」さんの
  ブログ記事「鹿児島にあった笑岳寺と寿国寺」をぜひご参照ください
 
ということで、田沼よりもだいぶ前の時代になるわけですね。
 
では、「田沼時代」の薩摩の藩主はというと‥‥長くなるので、また次回。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪

2019-05-26 21:55:04 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
 トップ画像は
黎明館開館30周年記念企画特別展「島津重豪 薩摩を変えた博物大名」のチケット
その下は調所広郷の似顔絵を名越左源太時敏が29歳の頃に描いたもので、
これをもとに、よく知られるあの肖像画が描かれたと聞きます。
 
昨日の投稿記事「平田靱負と藩主・島津重年」で島津重年とその嗣子・重豪について少し書きました。
 そこで、今日は重年とその子・重豪について書こうと思います。
 
島津重年は、第22代藩主・継豊の二男で、兄・宗信(継豊の長男)が22歳の若さで亡くなったため、
21歳で藩主を継ぎました。
 
※以前の関連記事
 
※また、宗信に関する記事を昨年『雪見月のチェストブログ』↓に書きました

福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓 

 

『島津歴代略記』より

島津宗信 [享保十三年(1728)- 寛延二年(1749)]

  継豊長男。母は渋谷喜左衛門貫臣の女子。お嘉久。妙心院殿。

  享保十三年六月十三日、江戸の芝藩邸に出生。初め益之助・又三郎・忠顕。

  同二十年(1735)継母・竹姫に伴われて八代将軍 徳川吉宗に謁し、「誠に英物なり」と褒められたといわれます。

  翌二十一年(1736)元服。元文四年(1739)元服の礼を行なって松平姓と諱を賜り「宗信」と改めました。

(中略)

  延享三年(1746)父・継豊(46歳)が隠居して宗信が封を継ぎました。・・・この時、宗信19歳ですね。

 

一方、翌十四年(1729)二月十一日生まれの弟・重年の実母は、島津求馬久房の女子。お登米。嶺松院殿。

・・・という事です。

 

また、重年の夫人は、

  垂水家島津備中貴儔(たかとも)の女子。都美。正覚院殿。

  花岡家島津大学久尚の女子。お村。智光院殿。

とありますが、重年長男・島津重豪(第25代藩主)の母は、垂水家島津備中貴儔の女子。都美。

この島津貴儔は継豊の同母弟、須磨(=名越右膳恒渡[つねただ]の妹)の子なので貴儔の娘・都美は須磨の孫娘。

なので、その子・重豪は須磨の曾孫、ということになります。

 ☆名越右膳恒渡[つねただ]は妹・須磨が江戸・高輪藩邸で島津吉貴夫人となり、自らも薩摩藩に仕えることになり名越家を起こした

 ☆須磨(=月桂院)についてはこちらを→ 「月桂院とは

 

延享二年(1745)十一月七日、鹿児島城下の加治木島津家邸に出生。初め善次郎・兵庫・久方・又三郎・忠洪(ただひろ)。

宝暦三年(1753)鶴丸城にて元服。・・・重豪この時9歳

翌 四年(1754)父・重年に従って江戸に上る途中、薩摩藩士による木曽川治水工事を巡察。

さらに同 五年(1755)、11歳の時に父・重年が亡くなったため本家二十五代藩主を継ぐことになる。

宝暦八年(1758)九代将軍・徳川家重に謁し、同年元服の礼を行ない、諱を賜って重豪と改めた・・・そうです。

 重豪は幼年であったので、初め祖父・継豊が藩政を後見したが、木曽川治水の直後でもあり、藩の負債は

金八十八万六千両に達していた・・・とあります。

 

前稿で書いた通り、第23代藩主・宗信が若くして亡くなった寛延二年(1749年)の藩の負債:金五十六万両から更に三十三万両近く脹らんでいるんですね!

 

結局、長男・二男ともに先立たれ、孫の重豪の後見となった継豊は 、宝暦十年(1760)九月二十日、鹿児島で亡くなります。

歳六十。

ということは、重豪が後を継いで5年、将軍・家重に拝謁・元服の礼から2年後、16歳の時に祖父・継豊が亡くなったんですね。

それぞれがそれぞれに大変な思いをされたのだなぁ、と思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平田靱負と藩主・島津重年

2019-05-25 17:43:35 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
☆いつもお読みいただきありがとうございます。
前回の投稿から少し間が空きましたが、その間のことを別ブログに書きましたので
宜しければご覧下さい ⇒アメブロ「ゆきの時間」”『西郷どん』から、菊池源吾と名越左源太と”
 
 
さて、今日5月25日は、平田靱負の命日です。
毎年鹿児島市内の平田公園(平田靱負屋敷跡)では「薩摩義士慰霊祭」が催されます。
 
 
 
平田靱負は江戸時代中期の薩摩藩家老で、宝暦3年(1753年)の木曽三川治水工事(宝暦治水)の責任者でした。
検索するといろんなサイトに各記述があるのでここでは詳しいことは省略させていただきます。
※参考までにWikiの「平田靱負」を以下にリンクしましたのでご覧頂ければと思います。
 
※以下、Wikiより抜粋し、併せて当時の年齢を書いてみました。
 
平田靱負 宝永元年8月12日(1704年9月10日)
 
   九歳 正徳2年(1712年)4月15日:島津吉貴の加冠をうけて元服し、平蔵から兵十郎に改名。
  十四歳 享保2年(1717年):藩法により、将軍徳川吉宗の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。
 
 四十五歳 延享5年(1748年)1月21日:島津宗信により家老に任じられ、
            同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。
            両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。
 
  五十歳 宝暦3年(1753年)徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、
            毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。
 
 
『島津歴代略記』を読むと、第24代藩主・島津重年が参勤交代で江戸に登る途中、まだ幼かった嗣子・重豪(しげひで・当時十歳)を伴って工事現場を巡察し、平田靱負以下を激励してその労をねぎらったとあります。
 
 
治水工事は、宝暦4年(1754)〜翌5年(1755)四月、一切を完了し見分の上、幕府に引き渡されました。
治水工事の総奉行・平田靱負は工事の後始末を全て終えた後、配下に多くの犠牲者を出したこと、工事費に莫大な予算超過をしたことなどの一切の責任を負って、美濃大牧の陣所に自害して果てました。
五月二十五日。この時五十二歳でした。
 
若き藩主・重年の心労も重く、平田靱負の自刃後一ヶ月にして、江戸の芝藩邸に歿しました。
宝暦五年(1755)六月十六日。重年、二十七歳の時でした。
 
 
 
※『島津歴代略記』より引用
島津重年
  享保十四年(1729年)二月十一日、鹿児島鶴丸城に出生。善次郎・兵庫・久門と称した
  重年は初め加治木家島津久季の養子となり、元文二年(1737年)元服
 
  寛延二年(1749年)兄の藩主・宗信が若くして亡くなり後嗣が無かったので、重年が本家に復し、第24代藩主を継ぐことになった
  同年、初めて江戸に上り、九代将軍・徳川家重に謁して松平姓を許され、また元服の礼を行なって諱を賜り「重年」と改めた
(この年の藩の負債:金五十六万両に上っている)
 
 
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」

2019-03-05 13:42:43 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
Facebookで知ったのだけど、3月10日に種子島で歴史関連のシンポジウムがあるらしく、
  種子島のシンポジウムはこちら↓
   歴史シンポジウム「種子島と東アジア海域」

その中に上がっていた「西村天囚」の名前。
確か以前書いた気がしてブログ内を検索してみた。
西村天囚の妻(前妻・後妻とも)は、曾祖父・轟の妻ツタの実家である三原家から嫁いでいる。

結果は‥‥、
残念ながら↓この1件のみ。。
『古の遺愛』

ただ、久しぶりにこの記事を読んで、再び『黎明館調査研究報告』一覧を眺めていたところ、第21集 に「島津吉貴の時代(PDF:3,337KB)」(2008年 林 匡)に目が止まった!

今頃?な感じだけど、家系(相関)図の凄さにウ〜っ!!と頭を抱えながらも6ページまでざっと読んでみた。

吉貴様の実母は二階堂家の娘だったこと、異母弟・忠英(のちの花岡家・島津久儔)の存在、
注目すべき事がいろいろあった。

あまりに有名な「島津四兄弟」、それに比べてあまり注目されない島津吉貴・継豊の時代だけれど、もっと注目されても良いのではないかと思った次第です。
p.14 (五)吉貴の時代 ー 島津斉彬が羨望した人材と時代 参照)

また、第18集「黎明館所蔵「奄美史談」(写本)をめぐる一考察 - 特に「南島雑話」との関わりを中心に-(PDF:699KB)」2005年 内倉昭文や、
第20集「「小松」改号一件-近世祢寝氏の系譜意識と島津吉貴-(PDF:1,700KB)2007年 林 匡」などもあるので、併せて、更にじっくり読み返してみたい。


「西村天囚」の名は轟の長姉・川上イサの『都見物日記』にも出てくる。
昨年3月にカテゴリーに「轟の姉・イサさんの『都見物日記』」を作ってはみたものの、
まだ取りかかれていないので近く始めてみようと思っています。
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去年の同じ頃のこと

2018-05-19 23:20:39 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
 
今日のツイートから
今日は、改めてこのブログを書き始めた切っ掛けをTweetしてみました。元々は歴史好きではなかったのです。子供の頃は父と兄がテレビで大河ドラマを観ながら語っているのを聞いても訳分か......
 



「去年のブログ記事」の案内がメールされてくるので見てみた。

ここ2〜3日同じような題材でnewバージョンの日記をアップしたところだった。
別のブログですが。
よろしければ覗いてやってくださいまし(^-^)

『☆雪見月のチェストブログ☆』
「福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島津吉貴様のご命日

2017-10-10 23:16:14 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

本日、10月10日は島津家第21代藩主 島津吉貴様の没後270年となるご命日でございました。
  延享4年(1747年)10月10日磯別邸にて死去 齢73

『島津歴代略記』によると、
吉貴様は、第20代藩主 綱貴様の長男 母は二階堂十郎左衛門宣行の娘お重
  延宝3年(1675年)9月17日、鹿児島鶴丸城に出生、初め菊三郎。又三郎。忠竹。
  天和元年(1681年) 江戸に上り、同3年(1683年) 曾祖父 光久の加冠により元服
  貞享2年(1685年) 五代将軍 徳川綱吉に謁し、元禄2年(1689年) 元服の礼を行って松平姓と諱を賜り吉貴と改めました。

  宝永元年(1704年) 襲封。

吉貴の長男で 第22代藩主 島津継豊様は、徳川家から養女・竹姫を夫人に迎えた事や、第25代藩主 島津重豪の祖父として知られますが、父親の吉貴様は一般にはあまりメジャーではない気がします。

私にしてみても、薩摩で名越(なごや)家を名乗る切っ掛けとなったのが初代・名越恒渡(つねただ)の妹・お須磨様が吉貴夫人となったからだと知り初めて「吉貴」という名前を認識したわけですから。

とりあえず、今日はご命日であったことをお知らせして、後日改めて書いてみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする