☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

剣術・川上天真流と槍術・鏡智流

2022-03-05 11:19:00 | 名越時敏史料

 春ですね〜 梅の花も咲いています

  近くの公園では桜の花が咲いているところも

 

 

さて、先日、左源太じい様の武術について書いたのに →『旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ
剣術の流派と師範のことを書き忘れていました💦
 
 
剣術は「川上天真流」とあったのだけど、ネットで検索した限りでは分かりませんでした。
 
ただ師範は「加藤権兵衛」とのことだったので調べたら、『日本掃苔録掲示板』の「島津家関連」トピックの書き込み「南林寺由来墓」(2005.6.18)の暮石一覧に
 
「4列目 加藤権兵衛 藩士・天真流」とありました
 
まだ南洲寺に行ってないけど、行く前にこの件を見つけられたのは良かった
 
「南林寺由緒墓」関連記事(2022.7.22 追記)
名越彦太夫とは?』 (2019-10-07 カテゴリー| 名越彦太夫 )
 
 
で、さらに槍術「鏡智流」について調べてみた。
 
槍術の「鏡智流」では鹿児島大学デジタルコレクションに『鏡智流槍術由来』というものがあった。
著者は「梅田九左衛門」とある。左源太じい様(20代前半当時の名前は篤烈)の師は「梅田九之丞」だけど、関連は? 
 
「鏡智流」で検索すると、「本心鏡智流」で尼崎の槍術とか出てくるので、
「鏡智流 梅田九之丞」と師範の名前とでチェックしたら、いろいろわかって来た!
 
梅田治繁の子が、薩摩で鏡智流の師範となるのか🤔 
 
盛庸の次男「盛香」は1806年没。その次代の人物が「九之丞」かな?
 
「盛香」の子孫の項には「子の盛秀が家督を継ぐ」とあった。 また「安政年間に大山巌に槍術を教えた梅田九左衛門治哲も子孫と思われる。」とある🤔! でも「九之丞」ではない。この「九左衛門治哲」とも別人?
 
 
 
 
 
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旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ

2022-03-02 14:36:05 | 名越時敏史料

 3月になりましたね

いつも読みいただき、ありがとうございます

 

さて、最近はFBでの投稿・活動が多いのですが、先日、鹿児島神宮の宝物の刀が見つかったというニュースから、刀剣のことを話題にしていたのです。

 

 

 

それに関連して、日置市の青劔神社の刀は「三条小鍛冶宗近」の作だという話も知りました。

  

刀剣には詳しくないのですが、たまたま刀剣・刀工の特集が載っている、父が以前購入していた雑誌を目にしたばかりだったので、それをパラパラめくって読んでいくうちに、刀はいつ頃から盛んに作られ出したのかとか、どのように変遷していったのかとかも気になったり、刀だけではなく、薙刀や槍はどうなのか?など興味が広がりました。

 

 

そこから、そういえば左源太じい様についての説明書きにも「槍術」とあったなぁ、と、

昨日は左源太じい様の槍術の流派を確認しようと、『鹿児島県史料 名越時敏史料』の 一巻 〜 三巻 を調べていたのです。

槍術は「鏡智流」という流派だったようです(梅田九之丞に師事)

安藤 保 氏の「解題」を読むと、「名越の得意とする武術は弓術」だそうで、弓術は日置流(平田平七郎に師事)との事

 

で、その「解題」を改めて読んでいて気が付きました

「三男・吉次郎、四男・徳熊」についても左源太じい様が素読など自ら指導していたことなども、安藤氏によって丁寧にきちんと書かれているではないですか

これまでは拾い読みばかりして名前の記述を見つけては喜んでいたことを反省した次第

 

言い訳になりますが、手引きとなる冊子「黎明館調査研究報告」があったため、そちら頼みで、各巻の解題をじっくり読んでいなかったのと、気になる「身内」に関することにばかり着目していたので、気付かなかったのです

 

そんなこんなで、『鹿児島県史料 名越時敏史料』各巻のインデックス代わりのノートを作ってみたのです。

まだ第一巻から第四巻までですが、

(一)

 ・p.3~70 文久元年(1861)九月〜十二月

 ・p.71~317 文久二年戌(1862)正月〜十二月

 ・p.318~467 文久三年 癸亥(1862)正月〜十二月

 

(二)

 ・p.1~71 文久四年 甲子(1864)正月〜七月

 ・p.72~169 元治元年 甲子(1864)八月〜十二月

 ・p.170~244 元治二年 乙丑(1865)正月〜七月

 ・p.245~302 慶応元年 乙丑(1865)八月〜十二月

 ・p.303~358 慶応二年 丙寅(1866)二月〜七月 嫡男・平馬は英国へ留学中

    ・

    ・

といった感じ

 

で、第三巻に収録されている「常不止集(とことわしゅう)」は日記と書写が入り混じっていて、初め目を通した時にはいささか戸惑いました。で、こちらはほぼそれっきり‥‥

ただ、今回「解題」を読んでいて気が付いたのですが、この「常不止集」は、左源太じい様がまだ23歳〜26歳(数え年)の若い頃の日記で、「名越篤烈」と称していた頃のものなのですね。

(第三巻 → 天保十二年二月〜同十三年八月、第四巻 → 天保十三年九月〜天保十五(弘化元)年十二月)

 

☆ 参考までに、天保十二〜十三年は1841〜1842年、天保十五年(弘化元年)は1844年 

左源太は西暦だと文政二年十二月(1820年初め)の生まれだから実際には満21〜24歳かな?(2022.7.23 追記)

 

そして「篤烈はこの時すでに結婚しており、長女の藤(天保十三年四月には三歳)がいる。」とありました。

 「お藤」は曽祖父の長姉で、のちに『都見物日記』を書くことになる川上いさ様  

 

左源太じい様も先祖のことや島津氏の歴史を勉強するのにひたすら書写をしていたことを改めて知ったのだけど、「‥‥私も同じことしてるような‥‥。」と思わず笑ってしまいました〜

 

左源太じい様もその父親も、更に2代上まで町田家から養子入りしているので、左源太じい様も名越氏の先祖や島津吉貴、継豊親子などのことも勉強していたのだろうな〜と思います。→『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』に収録の「常不止集(とことわしゅう)」参照

 

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黎明館学芸講座「なごや左源太の明治維新」など

2018-07-22 11:17:02 | 名越時敏史料

いつもご覧頂き、ありがとうございます
 ※上部画像は鹿児島県歴史資料センター黎明館にある"天璋院(篤姫)像"中村晋也氏の作品)

もう1ヶ月以上前のことになりますが、6月17日に黎明館で学芸講座があり、父と一緒に聴講してきました。
最近はFacebookへの投稿がつづき、こちらの更新が後回しになっていたのですが、これはアップしておかなくては

『平成30年度 第1回 黎明館学芸講座(企画展解説講座)』


講師は、黎明館学芸課長 内倉昭文さん。
内倉さんは、黎明館の前・調査史料室室長で、これまでにも専門家の視点でいろいろとご教示いただいています。
最初の接点は私の別のブログにコメントを頂いたことでした。
       
「☆雪見月のチェストブログ☆〈☆ゆきのおと☆改題〉」2011年3月26日のコメント欄

まず、第𝗜部「なごや左源太の明治維新」は、これまで『鹿児島県史料 名越時敏史料』(「一」〜「八」が既刊)に携わってこられた中で調査研究された事柄の総括で、当然ながら我が家でも見聞きしたことも多かったのですが、こうして広く一般の方々にも知って頂けて(共有出来て)あり難いことだと思いました。
※なお、『鹿児島県史料 名越時敏史料 九』と『 同 名越時敏史料 十』がそれぞれ来年度・再来年度に刊行予定とのこと。

つづく第Ⅱ部「大河ドラマと黎明館史料 Ⅱ」では、今放送中の大河ドラマ『西郷どん』や、10年前の同じく大河ドラマ『篤姫』、はたまたもっと遡って『翔ぶが如く』『獅子の時代』に関連したちょっとした裏話なども交え、明治維新の頃の会津や琉球・薩摩藩はもとより、全く知らなかった「高須藩」のことなど伺うことが出来ました。
※大河ドラマ『八重の桜』(2013年)で北村有起哉さんが演じた「秋月悌次郎」についても、旧薩摩藩士に宛てた手紙から会津藩士・秋月悌次郎が戊辰戦争後も薩摩藩士と交流していたことを証明するものであり、「鹿児島の人たちにも会津に関心を持ってもらい、会津、薩摩両藩が戦った部分だけでなく、良好な関係にも多くの人に目を向けて(今年4月14日の「福島民報」の記事コピーより)」もらいたい、と当時の新聞記事を基に語っておられました。

聴講のあとは展示見学を希望された皆さんと、内倉さんの解説を受けながら、展示史料を鑑賞しました。


これからも、戴いた資料を読み返し、少しでも理解を深めたいと思います

 

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關山糺の名があちらこちらに

2018-03-01 23:07:10 | 名越時敏史料

いつもお読みいただきありがとうございます

今日は「關山 糺」という人物について記しておこうと思います。

実は先月、以前デジカメで撮った写真を探していたのですが、PCを変える前、10年くらい前の分を焼いたCDがどうしても見つからず、仕方ないのでmixiアルバムに上げていた写真をチェックしていたところ、今和泉島津家墓地の献灯の一つに刻まれた「關山 糺」の文字に目が止まりました。

何となく気になって、藤民 央 さんの『道之島遠島記』をめくってみたら、第1章の2ページ目にその名前が出ているのです!(同著のp.6)

そこには「‥‥先頭の馬に叔母婿の関山 糺(せきやま ただし)が乗っている。」とあります。

そこで今度は『鹿児島県史料 名越時敏史料 七』をパラパラめくってみたところ、p.297にも名前を見つけました。
永井亀彦先生が昭和9年に出された『高崎崩の志士 名越左源太翁』を見ると
「去りし嘉永の今は昔 戌の年三月四日予の親類御用にて 關山糺(筆者註、翁の叔母婿)なる人……」とあるので、藤民氏もこれをもとに小説に著されたのだと思われます。
実のところはまだ確かめる事が出来ていませんが、これから『名越時敏史料』一〜七をじっくり追ってみたいと思っています。

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鹿児島県史料 名越時敏史料

2017-05-20 08:10:40 | 名越時敏史料

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

さて、2日過ぎてしまったけど、昨年の5月18日の日記は『名越時敏史料 六、出ました。』でしたよ、と
gooブログさんからのお知らせがありました。

『鹿児島県史料 名越時敏史料』
現在第1巻から第7巻まで出ています。
県立図書館などにあるので興味ある方はどうぞ読んでみて下さいね。

 
名越時敏史料六、出ました。
今朝の南日本新聞より。「続常不止集」と「岩瀬之玉」収録。...
 
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名越時敏史料六、出ました。

2016-05-18 23:39:00 | 名越時敏史料

今朝の南日本新聞より。「続常不止集」と「岩瀬之玉」収録。

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没後130年

2011-06-16 23:38:01 | 名越時敏史料

6月16日。今日は、我が家のご先祖様・名越左源太時敏の命日。没後130年でございます。

  


*写真は、4月に発刊された『鹿児島県史料 名越時敏史料ー1』と
その紹介記事(南日本新聞 '11 4/13 掲載)など。

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