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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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⑦ 2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

2022-07-07 23:30:53 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

〈福昌寺墓地 案内図〉

 お読み頂きありがとうございます 

2008年2月29日に撮った写真の中で、時代の違う1枚の写真↓がありました。

  

前回の『第六代薩摩守護職・島津師久』からの続きです。

 

 上の写真を撮った10年後の2018年6月13日に訪ねた際には、まだ踏み入れていなかった歴代のご当主様の墓所も見て回って、写真に収めていました。

撮った画像を順に追っていくと、この時は斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所を巡り、

    

石塀の出口から外に出ると久光公の墓所を右手に見つつ、石畳の通路を左に進み、

 

吉貴公の墓所に再会、

 

更に左奥へ進み、幅の広い階段の前を過ぎた先の、

 

小さな階段を上ってみました。

  

 

まず目に飛び込んだのが、黒い蝶が群れ飛ぶ姿

 黒いアゲハ蝶たちが水を飲んでいたのです

 

 

そこにあったのは「島津齊徳之墓」

 

写真がピンぼけ↓ですが、大正8年9月の生まれで、昭和43年1月に亡くなっているようです。50歳くらいですね。

 

 

どなたなのかわからなかったので案内図で確認すると、「齊徳 忠重男子」とありました。

最後の藩主・島津忠義公の跡を継いだ、第30代ご当主・島津忠重様の、そのご子息の墓でした。

 

 

ここから左手を見ると、島津氏歴代のお墓は、この奥にありました‥‥が、

 

続きはまた、次回です

 

 では〜 

 

 


⑥ 第六代薩摩守護職・島津師久

2022-07-07 14:47:14 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みいただきありがとうございます

 

さてこの数日、福昌寺跡の島津家墓地の画像を並べていますが、

今回はちょこっと小出しにしてみます。

背景からして、福昌寺墓地の一番奥付近を写していますが、

手前の表示は「薩摩第六代 島津師久(もろひさ)」です。

2008年2月29日に撮った写真の中で、これだけ他の区画のものと違っていました。

 

 

案内図(全体図)です。

 

 撮りためた写真をチェックしたところ、10年後の2018年にはこの歴代当主の墓所辺りをたっぷり写真に撮っていましたが、2008年のこの時は、吉貴公の墓所から奥へ入ってみて「こんな古いのもあるんだ〜」と思いつつ、気まぐれに撮ったものと思います。

 

      ↑「薩摩6代 師久」です。

この時(2008年2月29日)は吉貴公墓所が目的だったので、

もっと古い時代のご当主の区域は回っておらず、この1基だけ撮ったようです。

 

 歴代の島津家当主の墓は主に案内図の左側の区域にあり、

薩摩6代・島津師久(もろひさ)をはじめ、第9〜14代までが並んでいます。

(初期には薩摩国守護職・大隅国守護職それぞれで名前が上がります)

※ 島津師久 … 六代薩摩国守護職

  島津貞久三男。母は大友因幡守親時入道 道徳の女子。

  正中二年(1325年)八月十六日、出水木牟礼城に出生。

 父の守護・貞久は文和元年(1352年)頃には、嗣子・師久には薩摩国を、同じく氏久には大隅国をと国政を分けて委ねているが、師久は薩摩国の守護所を川内(せんだい)碇山城に置いた。(『島津歴代略記』より抜粋)

 

 この続きはまた次回。