こちらもFBにアップした記事です
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いつもお読みいただき、ありがとうございます
曽祖父が一時期町田家に居た事は、以前書きました。→『小松帯刀清廉の誕生日に』
そこに、
「 ☆名越時敏日史より
「 町田家、といっても、どこの町田家? 」
と書いたのですが、高祖父・名越左源太時敏の父もその前の代も「町田氏二男家」(勘解由家)から来ているので、
曽祖父・轟も二男であることから、おそらくこの「町田氏二男家」(勘解由家)に居たのではないかと思ったわけです。
「名越氏」(左源太家)第4代、第5代は、「町田氏二男家」(勘解由家)からの養子。
「町田氏本家」と関係あるのは、曽祖父の次姉・筆(フデ)さんとその子供ということになります。
トップ画像に
「二女 一 町田家へ参居候。於筆当年十八歳」とあります。この町田家は「本家」と思われます。
いつもお読みくださって、ありがとうございます
さて、11月4日にアップした『町田申四郎の妻』の中で、町田久成の弟たちのことを書きましたが、
その際に、久成のすぐ下の弟、町田実積(猛彦)が養子に入ったという、「三崎氏」のことを調べてみました。
三崎氏「島津大蔵家二男家」(平太左衛門家)寄合並
大蔵家五代 島津大蔵 久起二男 《嘉永元年 小番》
●久品 初, 明辰 千代熊, ‥‥ 樹家 号 三崎氏
ー 久芳 ー 久武(新八 平太) ー 久懿(新八郎 平太左衛門)
= 久謐(平太左衛門) 実, 町田監物久要三男 室, 伊集院亘久道叔母
= 久志 初,実積 大助 猛彦 平太左衛門 萬 実, 町田民部久成弟(町田猛彦)室, 大野多宮久甫女
西南役出陣 延岡ニテ脱退 後, 復家 号, 町田萬実積 石谷住 子孫不詳
(『島津家家臣団系図集』下巻 p.355より)
ここを見て、町田猛彦(萬 実積)が継いだ「三崎平太左衛門 久謐」も町田家の人だったことがわかったのでした
そして、猛彦の妻は大野多宮久甫の娘ということで、今和泉島津家墓地にあった「大野多宮久甫」の名前を目にしたことが発端となり、11月6日の『大野多宮久甫と関山糺金生(孚)』を書くことになった、というわけです
〈以下、参考までに再録〉
町田久長 二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(薩摩藩英国留学生候補となるも渡英せず)
→ 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女
西南の役に出陣、延岡にて脱退、改 町田萬実積 石谷住 子孫不詳
☆三崎平太左衛門久謐も実は「町田監物久要三男」で実積の叔父、「室 伊集院亘久道 叔母」とあります。
最近、我が家の家電のひとつが調子悪く、いつ頃購入したのだったかと、メモ帳・手帳、日記の類を読み返していたのですが、そんな中、気になるメモ書き(日付は'18. 4/22)がありました。
以前FBのお友達(Fさん)の投稿記事で、調所笑左衛門廣郷の孫娘(次男の娘)・八重さんが、「町田久成の弟・申四郎の妻」であるという(Zさんの)コメントを書き留めていたのを目にして、改めてちゃんと頭に入れておこうと思ったわけです。
ここで、町田久成の兄弟について確認です。
薩摩藩英国留学生として、町田久成の弟たちが参加しています。
【 町田久長の息子たち4兄弟は以下の通り】
当時の本名と渡英時の変名・帰国後の事も少し記してみます
(当時の年齢共に門田 明『若き薩摩の群像 サツマ・スチューデントの生涯』p.8~9参照)
(帰国後の事については、野田幸敬編『島津家臣団系図集』等参考)
長男・町田民部‥‥‥‥‥‥‥‥‥久成(ひさすみ)‥‥‥‥上野良太郎 28歳(開成所掛大目付学頭)
→ 博物館創設を提唱、明治15年3月オープンの帝国博物館初代館長、その後明治22年出家等ありますが、諸々は『関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり)』に。
二男・町田実積(さねつみ)‥‥‥大助・猛彦・萬‥‥‥(候補となるも渡英せず)
→ 三崎平太左衛門久謐を嗣ぎ改 三崎平太左衛門久志 室、大野多宮久甫 女
西南の役に出陣、延岡にて脱退、改 町田萬実積 石谷住 子孫不詳
☆三崎平太左衛門久謐も実は「町田監物久要三男」で実積の叔父、「室 伊集院亘久道 叔母」とあります。
三男・町田実種(さねたね)‥‥‥申四郎・右近・棟‥‥塩田権之丞 19歳
→ 明治に入り小松清廉を嗣ぎ小松右近清緝、後復家町田棟
(実種の息子・慶蔵は昭和39年、兄・久成の長男・秀麿より町田家を継承)
四男・町田実行(さねゆき)‥‥‥清蔵(清次郎?)‥‥‥…清水兼次郎 15歳
(鹿児島市の観光パンフには↑清次郎との表記も)
→ 帰国後財部氏養子(宮崎に居住)
※ 実種(申四郎)、実行(清蔵) 共に渡英の翌年(1866年)帰国。「帰国後の消息不明」と言われてきましたが、その後は以上のような事でした。実積(猛彦)さんが三崎を継いだというのはあくまでも『島津家家臣団系図集』によるもので、確認は取れていません。
そんな中で、「三男・実種=申四郎」さんの妻についての話です。
これまた『島津家家臣団系図集』で「諏訪氏本家(甚六家)一所持」を見ていた時に、「諏訪甚六=廣兼」の子・矩兼の室が「島津登久馨の娘・ヒサ」とあったり、娘が「町田棟 室」と書かれているのを見つけたのです!
「あれ?」と、ここでタイトルの「町田申四郎の妻」の話になるのですが、
親である「諏訪廣兼」の所をもう一度見てみたら、「室 伊集院隼衛久達 女」とあります。
もしかしたら、こちらが調所笑左衛門廣郷に繋がるのかな?と思ったり‥‥。
続きはまた改めて見てみる事にして、
今日はこれにて
最近になって思うこと
「名越家」のこともよく分からない状態ですが、名越左源太時敏の父・盛胤(町田實明)も祖父・盛尚も町田家から養子に入っているんですよね。
ということは、私たちにしても、元をたどれば町田家の人間ということではないかと、思うのです。
名越盛胤:実は町田(主馬)久輔二男、町田實明 → 名越盛尚養子となり、名越左源太盛胤と改める
名越盛尚:右膳 実は町田源左衛門久亮二男 → 名越恒当養子 左源太
※ 盛尚は盛胤の父・町田久輔の弟であり、盛胤の叔父にあたる
備忘録として
名越氏(左源太家)享保年中樹家 ( = は養子)
初代・恒渡(つねただ) ‥‥ 浅右衛門右膳 妹於須磨ノ方ハ継豊公ノ御母堂也、享保五年家老
恒渡 ー 恒索(平八 右源太) ー 恒次(当)(※恒篤) = 盛尚 =盛胤 ー 時敏 ー 時成
※名越恒次(恒当、恒篤)の表記が度々違うのに戸惑いますが、恒篤のこと。
《関連記事》→ 『 寺山用央と名越恒篤と二階堂省行與右衛門 』(2019-10-13 )
以前たまたま見つけた石谷町「町田家」の墓地で撮った写真を再度上げておこうと思います。
(確認したら、初めて見たのは2013年5月22日の事でした。 → 『 町田家墓地(石谷) 』)
☆昔の携帯で撮ったので、画像が小さいのはご容赦下さい。
ここ(画像3)には↓「町田實用」という名前も刻まれていますが、まだよく把握出来ていません。
「町田郷九郎 久儔」の刻銘もありました。(画像4)
例の『島津家家臣団系図集』によれば、「町田久儔」は町田氏本家「忠時公七男忠経流」(監物家) 町田久居を嗣ぐ
町田久倍 ー 忠綱 = 久幸(実は忠綱の弟) = 忠尚(家久公六男) ー 久東(兄・久孝,江戸にて病死15才) ー久居 =久儔
どの石塔に刻まれていたかは覚えていませんが、「町田久長」「町田久成」「小松清廉」「町田實用」「町田藤七郎」などの名前があります。「町田實用」って?「町田實明」とは違いますよね? 「仙壽院」とはどなた?
いろいろ気になるのでもう一度確認してみたいです。
いつか探してみようと思っていた町田家の墓地。
偶然見つけたのは4年ほど前の、2013年5月22日。
フォトアルバムも作ったけどブログ記事にも記しておこう。
☆フォトアルバムを貼ってたつもりが、画像表示されていませんでした。。ごめんなさい🙇♀️
☆改めて画像貼っておきました。お楽しみください♪ 〈 '17. 5/19 追記〉
よく見ると「おおっ!」というような名前があると思いますよ(๑˃̵ᴗ˂̵)♪
町田家墓地(石谷)
こちらには町田久成や小松(帯刀)清廉[きよかど]の名前が!!
町田久長は久成のお父上。久成の母・国子の妹は小松清廉の妻・お近さん
この郷九郎さんはどなたでしょうね…久ともの名はどこかで見覚えが…
こちらにも小松清廉の名が刻まれています。