☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

西郷家墓地へ(2018.3.9)

2021-09-09 15:04:00 | 大河ドラマ『西郷どん』

前回記事で、石敢當(せっかんとう)の画像を探していたら、この写真を撮った2018年3月9日の出来事をブログに書いていないことに気づきました。

  

なぜかな?と考えるに、この頃はあちらこちらを探索し、画像処理や記事のアップで忙しく、

このブログでも2018年3月をチェックすると、

10年近くも前に幾島様のお墓を訪ねたことをアップしていたり→『幾島君招魂墓(鹿児島市)

FBでもその日あった出来事をアップしたりと、とにかく忙しかったようです(笑)

 

で、3年前の3月、この日は父と、市内の常盤町へ西郷家墓地やその他気になっていた石碑などを探しに出かけたのでした。

ちょうど大河ドラマ『西郷(sego)どん』が放送中でもあり、墓所があると聞く常盤町は、小さい頃に母の妹家族が住んでいたし、兄弟揃って書道教室へ歩いて通ったりして昔から馴染みのある場所なのだけど、西郷家の墓所はまだ訪ねたことがなかったので気になっていたのです。

 

ここからはFBにアップした2018年3月の記事をそのまま転載します。

 

     ☆☆☆

風はちょっと冷たいながらも今日は天気が良かったので、父と一緒に西郷隆盛ゆかりの地などをいくつか訪ねてきました♪ 
 
まずは前々から行ってみたかった、西別府にある西郷野屋敷跡と、常盤町の西郷家墓地。それに、同じく常盤町の薩英戦争本陣跡と千眼寺跡。
 
常盤町には小さい頃に親戚の家があったんだけど、昔の面影は石垣のみで元の家の場所がハッキリ分からなくて残念。
ただ、最後に訪ねた西郷家墓地では、隣家が偶然にも、60年以上前に父が大阪支店時代に同僚だった方のお宅でした!(墓地訪問は今日で2度目)
 
それより少し前に常盤町で親戚の家があった近辺を少し歩きまわって、そのあと西郷家の墓地を訪ねた時にちょうど車で帰宅された女性が家の中へ入って行かれたのでした。父が表札に書かれた名前を見て、同名の知人が確かこの辺りに居られたはず、と思い切って尋ねてみたところ、その同僚の娘さんだったのです!父より年上の同僚は随分前に亡くなられたものの、娘さんも大阪時代の事などご存知で、ひとしきり話をして帰りには美味しそうな屋久島のタンカンまでいただき、父にとって思いがけず楽しいひとときだったようです。
なんとも良い一日でした。
西郷家墓地(2018.3.9)
 
 
     ☆☆☆
 
ということで、西別府の西郷家野屋敷跡に行ったのも同日だったこと、忘れていました。
まだまだ元気にあちらこちらを散策していたようですね。
付き合わされた父も大変だっただろうなぁ‥‥(苦笑)
 
3年半越しにフォトチャンネル作りました
西郷家野屋敷跡
 
コメント (2)
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舞台は奄美大島へ

2018-05-14 11:58:58 | 大河ドラマ『西郷どん』

夕べの『西郷どん』を観て思った事・分かった事など。(ほぼアメブロ『ゆきの時間』とかぶりますがご容赦を^^)

西郷隆盛が奄美大島へ向けて鹿児島を発ったのは安政五年(1858年)の暮れで、奄美大島竜郷村阿丹崎に到着したのが翌年(1859年)一月十二日ということです。文政十年(1827年)十二月七日生まれなので満31歳とひと月ですね。

わが家の先祖である名越左源太時行(時敏とも)が「お由良騒動」の連座で奄美大島に即日遠島を命じられたのが嘉永三年(1850年)三月のこと。 
ですから、西郷さんが奄美へ渡る9年近く前です。

奄美大島に即日遠島を命じられたのが三月二十七日、翌日鹿児島から出航し山川港に着いたものの、風向きの関係で「風待ち」もあり、投下後の四月八日明け方、ようやく順風になったので山川を出航。その後も風向きが急に変わったりしたために途中で口永良部島へ引き返し、ここでも「風待ち」十八日間!四月二十八日に口永良部島を発つと、翌日午前、名瀬間切仮屋元に着船。
鹿児島城下出帆から三十一日目のことだったそうです。(※以上は名越 護(なごし まもる)氏の『南島雑話の世界』より引用)


その後、藩主・島津斉彬の「赦免通知」を受け取り、またまた風向きの関係で半年あまり島に滞在した後、実際に鹿児島城下へ帰ったのが安政二年(1855年)六月二十一日。 

ですから、その3年半後に西郷さんが奄美へ渡るんですね〜!
前後して渡っている事は知っていたのですが、比較したのは初めてでした。


名越左源太が生まれたのは文政二年の十二月二十八日(1819年、但し旧暦なので実際は1920年2月か?)ですから、遠島になった当時は満30歳。

西郷さんとは8歳違いで、奄美へ渡ったのがほぼ同年齢だった、ということがわかりました!

ただ、左源太の場合、妻も子供もあったので、そこが西郷さんとは違っていました。
詳しくはこちらを『名越左源太泰藏の子供たち』

私の曾祖父(=左源太の次男)が生まれたのは嘉永三年(1850年)の一月も終わりの頃なので、生まれて2ヶ月そこらで父である左源太が遠島になった、というわけです。。(涙)
そして、帰って来た時には5歳になっていたんですもんね〜(!!)
「父上、初めまして」って感じですね。

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篤姫の父上・母上のお墓

2018-03-11 21:25:16 | 大河ドラマ『西郷どん』

いつもお読みいただきありがとうございます

さて、今夜の大河ドラマ『西郷どん』では、篤姫の実父・今和泉家の島津忠剛が亡くなったという知らせに、国許を離れ江戸藩邸に暮らす篤姫が市井に逃走、海を見つめ涙を流し「父上〜〜!!」と叫ぶ場面がありました。

10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、篤姫が徳川家に入輿するために江戸へ移った後に国許の父上が亡くなったことは一通り見聞きしていましたが、なんとも言えず感情移入して涙が溢れてしまいました。

その放送当時、鹿児島市内の墓地に篤姫の実家・今和泉島津家の墓石があると、内村八紘さんに教えて頂いた事がありました(内村八紘さんは名越時成の子孫のお一人)。
この時は轟の姉・イサさんの婚家・川上家のお墓を教えて下さるためでしたが、先日『西郷どん』の時代考証をされている原口泉先生もテレビで話されていた「郡元墓地」です。
ただ、実父・島津忠剛様のお墓は指宿・岩本の今和泉島津家墓地にあるので、ここに名前が刻んであったかどうかはわかりません。

ブログにも書いた事があったのですが、どこに書いたのだったか、写真と記事を探し出すのに時間がかかってしまいました。。
結局別のブログに探し出す事が出来ましたが、今後迷う事が無いように、こちらにも写真付きでアップしておこうと思います。

☆撮影は、2008年12月6日だったようです、自分でも忘れてるので日付け書いといてよかった〜♪
アメブロ『ゆきの時間』より「天璋院篤姫さんのご家族のお墓へ行ってきました♪」(日記は2009年9月30日)

「忠剛 女」の次の「 〃  室」とあるのが篤姫の実母「幸」様、その下にある没年の画像、右から3番目です。
 

明治二年十一月三十日 六十才 と読めます

右から4行目の「源 忠敬」とあるのが篤姫の兄・島津忠敬(ただゆき)様


☆篤姫の養育係・幾島殿が登場しましたが、幾島さまのお墓(招魂墓)が鹿児島市内の墓地内に見つかった当時すぐに探して写真におさめましたが、それはまた次回という事で。

 

《追記》後日、関連記事をアップしました〜   

幾島君招魂墓(鹿児島市)』(2018-03-24)カテゴリー| 幾島君招魂墓


 

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調所広郷さま

2018-01-19 23:32:41 | 大河ドラマ『西郷どん』

いつもお読み頂き、ありがとうございます
この数日は暖かく過ごしやすい日が続いていますが、来週からまた本来の寒さがやってくると思うと‥‥

さて、この2〜3日はツイッターやFacebookで『西郷どん』絡みの記事を目にすることが多くなりました。


※トップ画像は鹿児島市天保山(てんぽざん)にある調所様像です♪(2019.3.1 撮影)
  以前の南洲墓地の南洲翁暮石から変えてみました(^-^)
※「調所笑左衛門広郷邸跡」は市内平之町の平田靫負像のある平田公園と道路を挟んだ向かいにあります。
(平田靫負像の背中側です)
 


※↑説明書画像はクリックすると拡大表示されます(同じく 2019.3.1 撮影)



私も過去の記事を読み返したり、10年前には知識もなかったために気付かず今になって新たに気付いたことなどもあったり
また、過去の写真の元の画像を探すのに時間がかかったりと手間取っていましたが、それがかえって良い切っ掛けになりつつあります。
『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』にアップしている写真、拡大表示が出来なくなっているので新たに貼り直してみようと思っています。例えば福昌寺跡で見つけた「調所笑左衛門 広郷」の名前が入った石塔とか。


ところで、「調所広郷」の肖像画というと思い浮かぶあの画像ですが(Wikiにある「調所広郷」の肖像画をご覧下さい)、名越左源太が描いたものを基にして、明治時代に日本画家・野田九浦(のだ きゅうほ)によって描かれたということをご存知の方は少ないのではないかと思われます。(※この件については後日また補足して書いてみたいと思います)
確かに、Wikiにある調所広郷の肖像画を見ると「九浦 復模」と書かれていますね。

年末の記事『その後どうなっているのか、知りたいものですが…』でも少し触れましたが、改めて紹介します。

5年前の「黎明館開館30周年記念企画特別展『島津重豪 薩摩を変えた博物大名』」の図録のp.90にある
「調所広郷」を描いた名越左源太時敏(時行)の直筆画

小紙片は、本人が最初に描いた物にイマイチ満足できずに後で描き直したもので
「此方似寄也(こちらの方が似ている)」と書かれています。

前述の図録のp.114にある記述によると「167. 続常不止集(ぞくとことわしゅう)巻十四 ・・・名越左源太時敏の日記・記録。弘化四年(1847)に時敏は初めて藩の会合で調所を見た。藩政を動かす実力者の姿に感動した時敏は その場で畳に図書の姿を指で描き覚え、帰宅後描いたものの納得しなかった。そのためもう一度別紙に描き「此方似寄也」と記した。図書が亡くなる前年の姿である」そうです。
後述の通り調所の死は1848年なので、これを描いたのは1847年、ということになりますね。

もしご興味のある方は、『鹿児島県史料 名越時敏史料 六』のp.194, p.195をご覧下さい。主要な公立の図書館で見られると思います。

また、「調所広郷木像」も 既出の図録に載っていますが、こちらは「調所の元家来であった 海江田綱賀が 調所の菩提を弔うために、出目祐徳に依頼して作った木像。調所の死(1848年)の翌年に作られた銘が厨子の背面にある。」と解説されています。

チェブちゃんのチケットはご愛嬌ってことで、ウフフ♡(~.~)

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