☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

篠崎彦十郎 仲苗の墓

2021-04-10 22:34:53 | 名越彦太夫

いつもご覧いただき、ありがとうございます♪

 

仲苗さんについては以前書きましたが(カテゴリー「名越彦太夫」をご覧下さいませ😌)、最近ネット検索で見つけた「篠崎彦十郎 仲苗」の記事をリンクしておきます。(今年1月に『名越彦太夫の屋敷』を書く時かな?)

 

 関連記事→『名越彦太夫とは?』 (2019-10-07  カテゴリー| 名越彦太夫 )

 

南林寺は廃仏毀釈で残っていませんが、南洲寺の中に一定の由緒墓が残されているという事です。

 

南洲寺は月照上人のお墓があることで知られていますが、外から見える説明書きしか読んでおらず、未だ中へ入って行けずにいますが、一度は行ってみたいところです。

 

 

「南林寺由緒墓」について、2022年3月に書いた記事にリンクを貼っています(2022.7.22  追記)

「『日本掃苔録掲示板』の「島津家関連」トピックの書き込み「南林寺由来墓」(2005.6.18)の暮石一覧」で、氏名や墓石の配置など詳しいことが書かれていました。参考までに 

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名越彦太夫の屋敷

2021-01-15 23:17:31 | 名越彦太夫

 いつもお読み頂きありがとうございます

今年も宜しくお願い致します。

 

昨年暮れから父の体調管理で明け暮れ、集中してPCに向かう時間が取れませんでしたが、今日はかかりつけの医院で通常の薬をもらいに一緒に出かけることも出来ましたし、どうにか体力も取り戻しつつあるようでホッとしたところです。

 父は年齢の割には元気なのですが、寒い時期は体力消耗しやすく(8日〜10日は鹿児島でも雪が積もりました)、すぐ眠くなるようです。

何せ今年95歳になりますので

 

 

さて、今年初の投稿です。

先月29日にツイッターでこんな感じで↓呟いたのですが、

「今日は『鹿児島城下絵図散歩』を見ていて、以前ブログにも書いたことがあった名越彦太夫(家?)の、幕末の住まいや敷地について気付いたことがあった! ブログに書こうと思っていたけど、暮れの墓参に2ヶ所ハシゴして疲れ切って眠いので、明日にします。お休みなさい」https://twitter.com/yukie_nagoya/status/1343581959889403904?s=20 

 

当ブログ12月27日の『『現代語訳 上井覚兼日記』に「大興寺」の名を見つけた!』を書くために地図を見ていた最中に、

「名越彦太夫」の名前で屋敷跡を確認したところ、「島津安芸殿 下屋敷」の隣であったことに気付いたのです

 「名越彦太夫」についてはこちらを→『名越彦太夫とは?

☆ 下の画像(天保13年頃の地図)、上部中央にひときわ大きな文字でハッキリと「島津安芸殿 下屋敷 八百四拾七坪」とあります。

その左隣です

 

『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)の表示だと、画像中央↓① の所が「島津安芸殿 下屋敷」で、その下の部分が「名越彦太夫」の屋敷跡です。

 島津安芸殿(安政6年時は「島津峯之助殿」)下屋敷のすぐ隣が名越彦太夫の添地150坪(清水馬場の「馬」の字の所)、

真ん中に219坪(墨字の濃い部分)、続いて添地185坪(清水馬場の「場」の所)です。

 

 

以前「本立寺馬場」を散策した時に撮った写真があります

 

 

 

 

現在の区画とは違うのですが、この右隣辺りが「名越彦太夫」の屋敷跡だと思います。

上の地図で言うとちょうど「①」の辺りに、「⑤ 鶴嶺高等女学校跡」に向かって、写真の駐車場横の道路が通っている感じですね。

 

 

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名越彦太夫とは?

2019-10-07 23:55:25 | 名越彦太夫

以前アップした画像で「名越彦太夫」という名前が気になっていた。

(『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018.3.20))

どこかで目にした様にも思った。

が、その後そのままで放っておいた。

(画像は福昌寺跡島津家墓地にて2008.5.17 撮影)

 

 関連記事「5月の歴史探訪フォトアルバム-2

 

最近になって調べてみる気になった。

 

ネット検索をかけてみると、「篠崎 仲苗(しのざき なかなえ)」という名前がトップに上がっていたので見てみた。

 

「名越彦太夫高房の次男」とある。

 

 実父:名越彦太夫高房(名越左源太家分家筋の当主。家格代々小番。広敷御用人や側役、当番頭などを務める)

 
「高房」‥‥‥ 島津斉興から島津忠義に仕えた名越彦太夫高房
 
 

実はずいぶん前に、原口泉先生の著書『NHKかごしま歴史散歩』の中の「サラリーマン武士の一日」の章で目にしていたのだ。

 

それによると、名越家の初代・名越恒渡(つねただ)の弟・高豊の子孫で、5代目が高房ということらしい。

 

4代目・盛発が鮫島家から養子入り。この頃相当家運が傾いていたが、4代目は鮫島家から持参した30石を基礎にして家運をおこした中興の祖である、とのこと。

 

5代・高房は、横目役に就いていたが、1816年(文化十三年)から長崎詰となり蔵屋敷の監査などにあたった。

ところが長崎在任中、何かと出費がかさんだ様で、再び家計が苦しくなる。

1823年(文政六年)から琉球への転勤願いが叶い(注:琉球といっても奄美のこと)約2年勤務。

その結果、苦しかった家系も挽回し、さらに新たに屋敷地や禄高も買うことが出来た。

 

6代目・彦太夫高温(たかはる)の代には219坪と買増した添地合わせて339坪あり、禄高も幕末には4百石近くになった。同じ屋敷内に家来の黒木家と川村家を含めて三世帯が住んでいる。

 

名越彦太夫(6代目)は、順調に昇進してお側役までなった。(お側役とは殿様と家老の取次役)

 

尚、名越彦太夫高房の次男・彦十郎は、母方にあたる篠崎蔵太左衛門家の養子となり、名跡を相続する。

江戸芝藩邸において江戸留守居を務めていたが、庄内藩を中心とする江戸幕府軍による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に戦死。 ←Wiki「篠崎仲苗」より https://ja.wikipedia.org/wiki/篠崎仲苗

 

 

 ちなみに「名越彦太夫」と同じ石塔台座には「町田」の名もあります☆

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