☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

いちき串木野市照島を「こころ旅」で

2021-12-18 13:26:37 | 日記
皆さん、こんにちは
昨日といい今日といい、鹿児島も冷たい空気に覆われてすっかり初冬の気配です。
(寒くて冷たくて、外に出る気ゼロ〜って天気
 
今日は、火野正平さんの『こころ旅』鹿児島2日目水曜日夕方の「とうちゃこ版」録画していたのをお昼前の再放送直前に観て、そのあとの再放送放映でまた観たところ。
 
いちき串木野市は羽島(はしま)の薩摩藩英国留学生の記念館以外は、駅近くの商店街も照島(てるしま)神社もいまだに行ったことが無い。
 
照島神社に「驪龍厳(りりょうがん)」というのがあるらしく、テレビ画面に映ってる案内板をジーーっと観ていたら、「寛政二年(1790)、島津家第二十六代‥‥云々」とあったので、調べてみたところ、ブログに書いてる方があった。
なんでも、島津斉宣(なりのぶ)公(=先代・島津重豪公の子)が市来に湯治の際に照島を訪れ、その風光明媚に感嘆されると、巨巌に「驪龍厳」と書かせ彫らせたということでした。
(「説明案内板」の画像あり↓)
 
そして記事をさらに読むと、ここ照島は薩摩焼発祥の地でもあるそうです。
島津義弘公が朝鮮出兵の際に朝鮮半島から連れ帰った陶工達が最初に上陸したのが照島で、薩摩焼は照島周辺の窯元から始まり、のちに美山に移っていった、と。
 
番組には猫が数匹登場。俊敏な木登りを見て〜♪と言わんばかりの元気な猫さん。
行く先々で新種の猫発見の火野正平さんはいつもの如く「照島山猫〜」とか言っていました(笑)
ネット上では猫の話題もちらほら出ていて、猫好きにはちょっと知られた「猫島」でもあるそうです。
 
ところで、「驪龍(りりょう)」とは何だろう?と「広辞苑」で調べたら、
「驪竜」‥‥ 黒色の竜。黒竜。とあり、
慣用句に「驪竜頷下(がんか)の珠(たま)」というのが載っていた。
 [解説]‥‥黒色の竜のあごの下にある宝玉。危険を冒さなければ得られぬもののたとえ。
 
漢和辞典で「驪」を引くと、一文字で「黒馬。毛並みのつやつやとしてそろった黒毛の馬。」また、「つやつやして黒い」ということでした。
 
☆他に「[動詞] 車につけるために馬を並べる」とか「[名詞] 二頭立ての馬車。」の意味もあり
☆「麗」自体に「綺麗にすっきりと整って並ぶ」という意味もあるらしい。
コメント (2)
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父の伯母の婚家、実方の川上家と別府家

2021-12-05 11:48:10 | 別府晋介&桐野利秋

☆以前、実方の川上家について書きましたが、

  以前書いた記事 →『実方の別府家と川上家』( 2021-09-24  | 西南戦争 )

 

書く内容の焦点が絞りにくく、その為、説明に次ぐ説明で自分でも読みにくいな〜と思っていたところ、

FBで数日前に書いたものが思いの外スッキリ読みやすくまとまったので、

記録としてこのブログにも残しておこうと思います。(以下の通り

 

 

吉野実方(さねかた)の川上家は、父の伯母・フクが後妻に入った家で、
実は別府九郎・別府晋介兄弟の姉が川上忠太郎と結婚している。
 
<川上良助さんは父の伯母の夫。後ろの「忠太郎妻」は別府九郎・別府晋介兄弟の姉>
 
 
<この墓碑には「川上忠太郎 妻」明治13年4月16日(没)とだけ表記>
 
 
※ 1996年(平成8年)の『敬天愛人』第14号に塩満郁夫さんが「別府九郎と西南戦争」(p.245~260)の中で写真入りで書いておられます。
 
・別府九郎は投降し生還している。
・別府九郎の父・十郎の姉、スガ(九郎の伯母)が桐野兼秋と結婚、次男が桐野利秋。
 
 
この墓所は曽祖父の兄・時成子孫の内村氏から2011年に教えていただいた。
  
 
私の父の伯母(私の父方祖父の姉)フクは、その川上忠太郎の二男・良助の後妻。
 
※先妻・ヨネさんが明治40年9月に亡くなっているので、それ以降嫁いだことになる。
父の伯母・フクは明治9年9月生まれ。ヨネさんはフクより7〜8歳ほど年上か。
 
先妻ヨネさんの子供は大正時代に早世、その子供(孫)たちもなぜか夭逝している。
 
 
大正10年以降、何か流行病でもあったのか?と調べてみた。
「スペイン風邪」は大正8年〜9年にかけて、二度流行ったようだから、直接の関係はなさそう。
 
日本でのスペイン風邪の流行は大正8、9年で、その前に台湾巡業中の力士の間で流行った「相撲風邪」と呼ばれたものが先触れだったとみられるようです。
 
 
 

それにしても、西南の役で18歳で亡くなった「川上笑左衛門」さん、

幕末1860年頃のお生まれになりますが、このお名前はどういう経緯で付けられたのか、気になるところではあります。 

 
※左奥の「西郷家」の墓は、私の父の姉の婚家で、「西郷吉左衛門」さんが西南戦争で亡くなっている。
西郷隆盛さんの家との直接の関係はあるのかないのか、今のところ不明。
 
☆画像は全て10年前のもの('11. 7.2 & 7.4 撮影)
 
 

今回、ふと思い立って画像をファイルにまとめ直していたところ、

川上良助さんの先妻との間の子供さんの墓碑を見て、次男ご家族が大正時代に次々と早世・夭逝されていることで、何か当時の疫病・流行病との因果関係があるのかと気になり、FBでこの記事を書いたところです。

吉野・実方の別府家と桐野家、川上家と別府家との繋がりなどをもう一度確認するためにも書きました。

ということで、私の大叔母・フクの夫である川上良助の母親、即ち、お姑さんが別府兄弟の姉、ということになるのですね。

 父の伯母・フクおばさんの孫娘のお二人と父('11. 7.4 撮影)

なお、プライバシーにご配慮いただき、訪問等はお控え下さいますよう、呉々もお願い致します

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