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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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西村天囚と三原家の繋がり

2020-06-10 19:35:50 | 西村天囚(西村時彦)

昨日、西村時彦(ときつね)さんのことを書きました。

『懐徳堂』について覚えがなかったのですが、三原家の女性たちの確認のため、以前黎明館調査史料室 前室長の内倉昭文 さんから頂いていた黎明館調査研究報告第24集(二○一二年三月)別刷「『鹿児島県史料 名越時敏史料』について」を読み直していたら、その中に『懐徳堂』の名前も出ていました。

 

西村時彦すなわち、西村天囚氏の妻・タカさんと、私の曽祖母・ツタとの年齢差や親兄弟の名前の確認のために読み返したところだったのですが、それについて少しまとめて記しておこうと思います。

 

まず、曽祖母・ツタの生年月日は『 曾祖母・ツタの誕生日 』にも書きましたが、

  安政五年(1858年)10月23日

また、書いたつもりでその形跡が無かったのですが、我が家の除籍謄本に

「三原經賢 二女」とあります。

 

で、西村天囚氏の最初の妻・タカさんは、前述の黎明館調査研究報告第24集別刷 によると、

「(天囚より)二つ年下の鹿児島市生まれの三原経倫の妹」で、「慶応三年十月二十八日生まれ」(註「西村家戸籍謄本」によると同年十月十八日生まれ)」(p.55)

とのこと。戸籍謄本を重視して、

  慶応三年(1865年)10月18日

ということは、ツタより7歳年下になりますね。

 

さらに、「西村天囚の最初の妻は「三原タカ」で、まさしくこの「都見物」の帰りの大阪見物の時期(明治二十三年五月)は、天囚自身「大阪朝日」に入社した翌年であり、また「三原タカ」との結婚(同九月)の少し前でもあり、時期的にはその準備の期間といってもよい。」(同上p.55)とあります。

残念なことに、「明治二十五年死去したため 再婚したのが幸子夫人」(同じくp.55)とあり、明治23年の『都見物日記』から2年後には亡くなっているんですね。

 

そして『西村天囚伝』によると、西村天囚氏と再婚したこの「幸子夫人=サチ」も、「タカの親戚にあた」り、「三原経典」(註「西村家戸籍謄本」によると「三原経倫」の長女」ということで、ここも戸籍謄本を重視して考えればサチさんは「三原タカさんの姪」ということですね。

三原サチさんの生年月日は、

  「明治七年六月五日生まれ、鹿児島住」とあります。

  明治七年(1874年)6月5日生まれで、タカさんより9歳若いですね。

 

『都見物日記』で曽祖父・轟が4月22日に「三原御母様」と「おたか様」の所を訪ねていますが、

「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」 )

5月28日には「三原氏母様」もイサさんたち3人と一緒に鹿児島へ帰っています。

「5月28日 三原氏母様も一緒に鹿児島へ」 )

 

ここでも「三原氏母様」のお名前が無いし、曽祖母・ツタの母親の名前もわからないので確認はできません。

女性の戸籍を辿るのも簡単ではありません。。

また「三原經賢」と「三原経倫」の関係性もわかるといいのですが。。

 

☆「 黎明館調査研究報告」p.52を見ると、「トキツネ」という表記がありました。。

『西村天囚伝』、読んでみたいですね。上・下巻あるようです。

(後醍院良正編『西村天囚伝(上・下)』(一九七二年)だそうです)

 

コメント (2)
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西村時彦は「ときひこ」ではない⁈

2020-06-09 23:59:19 | 西村天囚(西村時彦)

以前書いた通り曽祖母・ツタは三原家出身ですが、西村時彦(天囚)の妻も三原家の女性で、詳しい繋がりはわかりませんが親族だと思われます。

(4年前の4月にはこんな記事書いてました → 『2016年4月のあれこれ』)

 

で、今日は改めて西村時彦さんの生没年月日を知りたくてネット検索してみました。

 

まずはWikipedia を見てみると…、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/西村天囚

西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日慶応元年7月23日) - 1924年大正13年)7月29日)は、日本ジャーナリスト

本名は時彦(ときつね)で、天囚は。他に碩園(せきえん)とも名乗った。は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム天声人語」の名付け親である[1]。祖先は西村織部丞時貫

 

とあり、、、エッ?「ときつね とビックリ‼️

ずーっと「ときひこ」だと思っていたのです 

 

Wikiでは生年月日が西暦で1865年9月12日とあり、慶応元年の7月23日と書かれています。

(通常、旧暦で見ますが、偶然にも母の命日でした)

没年は1924年(大正13年)7月29日

(こちらはなんと!我が家のアイドル猫だったクロの命日!)

 

ただ、Wikiのページ最後の方には亡くなった日を7月30日とも書かれていたので、

別のサイトを見てみることに。

「ふるさと種子島」というサイトにありました。

「西村天囚先生誕生之地」

ここに大正十三年七月二十九日没 五十九歳

と書かれていました。

 

さらに、「懐徳堂記念会」のHPの「西村天囚」の紹介ページがありました。

「懐徳堂」は知らなかったのですが、「年表」をみると

その中には西村天囚の名前もあり、少しばかり動向がわかります。

 

リンク先のページ左サイドの「懐徳堂について」から「懐徳堂を知る」などを読めます。

興味深い内容でしたので御一読をお薦めします。

 

☆ 今日は「彦」の字の別の読みをもうひとつ知りました。

「久邇宮邦彦王」です。「(くにのみや)くにひこおう」ではなく、「くによしおう」なのですね。

「久邇宮邦彦王妃」を検索して初めて知りました〜

 

いわゆる「キラキラネーム」も簡単には読めませんが、昔の方のお名前もかなり難しいものです 

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