☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

ブログに込めた想い-5(一部追記あり)

2009-02-23 23:52:51 | このブログのこと

長くなりましたが、この回辺りで締めようと思います。
◇◇なお24日朝、一部追記したものがあります~◇◇

☆こちら→「ブログに込めた想い-4」からの続きです。


さて、さかのぼって
「あらためて当ブログのこと」に書いたように、
ブログに左源太のことを書こうと思った動機は
簡単に言ってしまえば、

「左源太についてもっと知って欲しい~」という気持ちと

「ここにも左源太の子孫がいるのにな~」という想いと

更には

「私のブログが、まだ会ったことのない
左源太の子孫の方の目に留れば嬉しいな~」

というものだったわけです。



でも、一番大きな理由は、

母が調べてきたものをどうにかまとめて
何らかの形として残せたらなぁ、と

そう思ったことにある気がします。


そして、母とのこと、
母と交わした言葉も
一緒に残すことが出来たら嬉しいなと。

 


◇◇ここから追記(24日 AM 6:30)

 よくよく考えたら、ここに書くことで
離れて暮らしている兄と弟にも
母とのことや母が遺していったものを
ちゃんと知っていて欲しいと思ったのと、
母が亡くなったあとの日頃の父とのやり取りや
ちょっとした切っ掛けで聴いた昔の話・先祖の話を
私ひとりだけじゃなく
共有したいという気持ちから
書き記してきたのかもしれない。

日頃あらたまってこんなことは滅多に話しないから。

兄弟そろってmixiやってるけど、
あまり熱心じゃないし
ここに書いておけばいつでも読めるからね。

       以上、ここまでは追記でした◇◇


 



そんなわけで、これからも家族のことなども書くことがあると思いますが、左源太については特に新しい情報を提供することはおそらくないと思いますので、ご期待に添えないかもしれません。


長々と書きましたが、
読んでくださって有り難うございました。

ブログは、不定期に続けますので
また読んでくださいね~     


     

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ブログに込めた想い-4

2009-02-23 22:00:31 | このブログのこと

時々のち夜はです。

☆こちら→「ブログに込めた想い-3」からの続きです。
☆☆画像は島津山城邸と名越邸の書き込まれた古地図
     (写真中央部分)
  画像拡大できませんのでわかりにくくてごめんなさい。。


mixi以外に自分のブログを持つことなど当時は考えもしませんでしたが、「名越左源太」をネットで検索してもヒットするのは書物に関するものぐらいで、一般に左源太に関する認知度はかなり低いのだろうなぁ‥‥と少々寂しい想いをしていたのです。

(ただ、思うように検索結果が出なかったのは
 当時の私の検索方法が未熟だったのが原因かも~

とはいえ、私自身もそれまでは左源太にまつわることを初め、お由羅騒動や郷土史すらろくに知りもしなかったのではありますが。


*その後、bizaさんのような方もいらっしゃることを知るのですが、bizaさんのブログ「::幕末奄美遠島生活::」と出会うことが出来たことは、私にとってとても幸運なことでした。


それにしても、地元の方たちや私自身の身近なところでもあまり知られていない左源太のことを「どうにか少しでも多くの人に知ってもらいたいなぁ」と、更には「左源太の子孫がここにもいることを知らせたいなぁ」という想いを抱えていたのです。

そこへもってきて、去年の大河ドラマ「篤姫」です。
郷土の歴史もろくに知らない私にとって、まさにうってつけのイベントばかりが目白押しで、昨年はすっかり「歴史探訪」の一年となりました。
 *この辺り→「追いつけない。。。」から読んでいただけるとお分かりかと思います。

次回の『ブログに込めた想い-5(一部追記あり)』でこのシリーズは終わりです 

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ブログに込めた想い-3

2009-02-23 13:01:09 | このブログのこと



☆こちら→「ブログに込めた想い-2」からの続きです。
☆☆画像は、左源太が晩年暮らしたという野屋敷跡へ続く
  「名越どん(殿)坂」と案内板

そしてこの頃から、
「ここにも、左源太の子孫がいるのになぁ。。。」という想いが浮かぶようになったのでした。
            
「せめて一目、納められる前にその寄贈された史料を見てみたかったなぁ。。」と。


*この寄贈された史料に関しては、つい最近こんな記事を見つけました。
『奄美情報誌ホライゾン』という雑誌の編集長日記だそうです。
2001年4月10日「南島雑話の下書原稿、名瀬市に戻る」のところに写真付きで紹介されていました。
(画面を下方にスクロールして4月10日の記事にあります)

4年ほど前まではPCではほんの数人の身内とメールでやり取りしているだけで、ほとんどインターネットの活用をしていない状態だったのですが、そんな私がひょんなことからmixiを始めることになり、この頃からインターネットの利用頻度が高まり、思いつくままに検索サイトで調べてみたり、mixiの日記でも左源太に関することや家族のこと、遡って祖先のこと(お須磨さん)や島津吉貴・継豊親子のことなども書いてみたりしました。
(一度mixiをやめたので、現在日記は残っていません。)

*島津吉貴・継豊親子とお須磨さんについてはこちらに→「これまでの経緯-1」


「ブログに込めた想い-4」へ続きます。

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ブログに込めた想い-2

2009-02-23 01:12:55 | このブログのこと
☆こちら→「ブログに込めた想い-1」からの続きです


前回終わりにお話した、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの記事ですが、新聞社のHPではバックナンバーが見られないようですね。
">南日本新聞ホームページ(折角なので、奄美関連のニュースをご覧下さい)

*「南島雑話」に関してはbizaさんの『幕末奄美遠島生活』('08 1/7版)にも以前紹介がありましたので、
こちらをどうぞ。→鹿児島大学の資料閲覧ページです。

記事を切り取って保管していたこと自体はっきりとは覚えていませんでしたが、母は既に他界していたので、当然父と私のどちらか、あるいはふたりで読んだということでしょう。


‥‥とここまで書いて、自分で切り抜きしたことを思い出しました。
とうとう記憶が曖昧になるような年齢になってきたようです。



で、その記事には「保管していた原口泉鹿児島大学教授を通じて
"子孫から"名瀬市に寄贈された。」とありました。

この時点で私は、現在もご存命の左源太の子孫の方が原口先生に依頼なさって、保存してこられた左源太のゆかりの品を名瀬市へ寄贈なさったのかと思ってしまったのですが‥‥。

続いて記事には、「史料は昭和初期、名越の遺族から鹿児島市の研究者に委託され、四十年ごろ研究者から故 原口虎雄さんに委託。虎雄さんが六十一年に亡くなり作業は中断していた。」とありました。


う~~~ん。。この昭和初期に委託した「名越の遺族」とは一体、‥‥誰なんだろう??

この記事について父とも話したのですが、父によると、南島雑話のことが話題になった当時、父の父親(私からすれば祖父)が、「"あれ"が手元にあれば左源太関連のものを渡せたのになぁ‥‥」と言っていたことがあるそうです。

"あれ"とは、終戦で台湾から内地に引き上げる際に現地の知り合いにウチの家系図だとか諸々を預けたのだそうで、左源太の書いた(描いた)ものも含まれていたのかもしれません。
父も父親から、曾祖父である左源太の描いた絵(『遠島録』にあるような感じの墨で描かれた絵や書き付け)を見せてもらったことがあったと言います。

祖父・篤彦は左源太(泰藏)の次男・轟の子供(長男)で、昭和23年1月に鹿児島市で亡くなっています。


永井亀彦氏の『高崎くづれ 大島遠島録(名越左源太翁遠島日記)』の発行は1934(昭和24)年11月(その前に自費出版された『高崎崩の志士 名越左源太翁』は1949(昭和9)年12月)なのですが、発行前にすでに話題になったということなんでしょうか?



話を少し戻します。

更にその新聞の関連記事をよく読んでみたら、「"(左源太の)子孫の快諾を得て"本当のふるさとに戻った。」とも書いてあったので、やっぱり現在ご存命の子孫の方が他にいらっしゃるということではないかと。

ではウチにもおいでになったことのある内村さんかしら?と思うのですが、ご本人にお訊きする機会を今だ逸している訳です。。



*続きは「ブログに込めた想い-3」で。

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ブログに込めた想い-1

2009-02-22 16:16:00 | このブログのこと



☆こちら→「あらためて当ブログのこと」からの続きです。


去年の4月23日の日記にも少し触れていますが、母から聞かされていた「高祖父=曾曾祖父(ひいひいおじいちゃん)」の名越左源太(時敏あるいは時行)のことを自分から「もっと知りたい」と思ったのは、皮肉なもので母が亡くなって5年以上たってからのことでした。
(*母は'99年7月に68歳で亡くなりました。)

母の遺品の整理は、父が気の済むようにと数年の間は任せていたのですが、その中でもウチの家系や祖先について調べて書き溜めたメモやノートを手にしては、父は「よくこれだけ調べたものだなぁ。」と私にも見せながら感心していました。

最初のうちは、「へぇ、凄いね。」と軽く相づちを打つ程度でじっくり目を通すこともなく過ごしていたのですが、何度となく見せられるうちに、「母がここまで熱心に調べたものなのだし、私もちゃんと読んでこれらの資料が一体どんなものなのか知っておかなくては母に悪いかな。」と思うようになったのです。

実は母は歴史が好きだったんだなんて、知りもしなかったのですが、残されたものを読むうちに、私も自分の祖先のことや左源太の生きていた時代の背景などにも興味を持つようになりました。

そうして調べていくと、「これについてはどうなってるんだろう?」と疑問に思えばそれに見合った資料や書物が母の残したものの中にちゃんと準備されていて、なんとも感心することばかりでした。

母は元々病気がちでずっと心臓病も患っていましたので、それを考えると尚更そう思えるのです。

母が生前、父を誘って指宿の今和泉島津家の墓地に行ったのも、我が家の名字が島津忠剛・忠冬さんのお墓にある対の燈籠(献灯)に刻まれていることを発見したのも、こうした調べものの中からだったのでしょう。
父はそうしたことにはとんと無頓着なので、母の探究心とその行動力に改めて感心しているのでした。

(*ウチでは島津家の方々にはいつからともなく「さん」付けで呼ぶ習慣がついてしまっているので、ここでも「さん」付けでと呼ばせていただいてます。)


そのうち、私は自分でも歴史に関する記事などにも目を止めるようになり、気になる新聞記事などを切り取っておくようになりました。

ふと思いついては父を誘って左源太に関するものを訪ね歩き、書物を読み、資料をまとめたりしていたのですが、そんな中、いつの間に切り取っていたのか、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの切り抜きが出てきたのです。



*長くなるので、ここから「ブログに込めた想い-2」

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あらためて当ブログのこと

2009-02-21 06:27:28 | 初めて読む方へ


こんにちは、ゆきです。

気がつけば、複数のブログを抱えて、さて、どうしたものかとしばし思案中でしたが、この辺であらためて各ブログの位置付けを再確認してみることにしました。


そこで、まずはmixiの次に始めたこのブログ、
「ゆきのおと Yuki's Note ♪」です。

去年の春分の日に始めて、特に去年の後半辺りからは日常の出来事なども書いてきましたが、これからは名越左源太や先祖のこと、それに歴史探訪のようなことに絞って、日記というよりは、趣味のホームページのような感じになるかと思います。

実際このブログを始める時にも、ホームページを作るよりは簡単だと思ったから書いてみる気になった訳ですし、日々のことは別のブログを使うことにします。

☆ご興味がおありの方はこちら→「ゆきのおと♪ Part 3」をご覧下さいね。最近作った「ゆきの時間」なんていうのもあります

       ☆☆☆

当ブログを始めたのはほんの気まぐれではあったのですが、
ブログのサブタイトル(ブログ説明)にも名前を記してあるように、
実を言えば、左源太のことも無関係ではありません。


左源太のこともブログに書こうと思った動機を率直に言うと、
「左源太についてもっと知って欲しい」という気持ちと
「ここにも左源太の子孫がいるのにな~」という想いと
もっと言えば、私のブログが
まだ会ったことのない左源太の子孫の方の目に触れるとしたら嬉しいな
というものでした。

 

そう思った切っ掛けはある新聞記事にありました。


以前切り抜きしてとっておいたもので、
2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った
「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」
という記事が目に留まったのです。


詳しくお話しすると長くなるので、それにまつわる経緯を次回から数回に渡って綴ってみようと思います。
ちょーーーっと長くなりますが、まぁ気楽に読んでくださいまし。
   


☆こちらから→「ブログに込めた想い-1」へどうぞ。


22:40 一部内容を校正し直しました~
☆画像は名越左源太が晩年暮らしたという
 鹿児島市の野屋敷跡入り口の案内表示
 画像拡大できないので見づらくてすみません。。

 

 

 2020. 4. 18 追記:投稿当時は「左源太の子孫の方の‥‥」と書きましたが、

今考えると、もっと限定的な気持ちがあったように思います。

「祖父・篤彦の兄弟の家系」と、あまり情報がなく未だよく分かっていない「左源太の二女・フデさんのご子孫」の方々、という気持ちが今も強くあります。

 

 

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左源太に関する記事発見。

2009-02-05 00:04:18 | 奄美大島と名越左源太

時々

鹿児島県のHPに「貴重資料の紹介」というものがあり
リンク切れで「鹿児島県立図書館」HPに移行したようなので'17 9/30にリンク貼り替えました
『名越左源太と島の三大旅行家』のトピックで
左源太の書として画像表示されているのですが、
そこに「棲鸞」という名が記されています。

この書は以前見ていたのですが、
ふと気が向いて、この名でGoogle検索かけたところ、
「南島雑話と焼酎」という記事を見つけたのです。
記事は無くなっているので参考までにこちらをどうぞ奄美黒糖焼酎について(鹿児島県酒造組合奄美支部HPより)

*あとこんなのもありました。
http://spysee.jp/名越左源太(←名前を入れて検索してみてください)
   
『http://spysee.jp/名越左源太/107140』
'17 9/30追記=改めて試したら、誰だかわからない顔写真が出てきます。
 スーツを着た左源太、ないと思いますが、誰の顔でしょう??


左源太の書いたものなどを紹介してくださっているbizaさんのブログでも、以前蘇鉄の実のことが話題になっていましたが、先程見つけた記事にもいろいろと紹介されていました。   リンク切れなのでこちらをクリック「蘇鉄の実のこと」

内容もさることながら、左源太のことをずいぶんと褒めてくださっているのが何とも嬉しいのでした。

このサイト主の池見哲司さんも仰るように、←※サイト無くなってます('17 9/30追記)
『南島雑話』にも『鹿児島県の歴史』(山川出版社/1973年)にも
著者の経歴がほとんど載っていないのは、
最初目にした時に私も「??」というか
少々不満でちょっと納得いかなかったりしましたが、
これはなぜなのでしょうね?

まぁ、玄孫としては、
「左源太の紹介でも載ってると嬉しいのになぁ‥‥
といった程度のことなのですけど。。


久しぶりに左源太絡みの日記が書けました~

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