☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

『鹿児島県史料 西南戦争』第四巻

2019-01-27 14:57:54 | 曾祖父・轟のこと
前回、『今和泉島津家と永吉島津家と』
「……曾祖父・轟が西南戦争で政府側へ投降し、市ヶ谷監獄に収監された際に記した「上申書」というものがある‥‥」と書きました。

それが、こちら↓です。「三六一 名越轟上申書」とあります。



↓画像左上には「明治十一年 三月 鹿児島懸 名越轟」と書かれています。

下段、右から4行目に「我軍ノ隊長 坂元仲平・栗川少等 数名 奮戦シテ 死之、外 僅(わずか)ニ 身ヲ以テ逃ルゝ者多シ、」
とあり、ここに「栗川」の名が出て来るのです。

続いて「此の時木山の我が軍も総て矢部に引揚げるに依り 此の軍も矢部に合す」
「爰(ここ)に於いて隊号 編制あり、鳥栖・隈府方面は奇兵、我が隊は奇兵十三番隊となる、‥‥云々‥‥」と続きます。

☆以前書いた記事『曾祖父・名越轟と西南戦争−2』(2017. 8.27)の後半部分の内容(情報元は『西南記伝』下巻二 「14. 名越 轟伝」)と合致します。


これは、『鹿児島県史料 西南戦争 第四巻』として、
平成20年2月27日に発行されたものの中の「十綴之内(八)」の最後(p.478)に載っています。
黎明館の前・調査史料室室長だった内倉昭文さんに教えて頂きました。

「解題」を読むと、
 『鹿児島県史料』では、昭和五十二年〜五十四年に『西南戦争』を第一巻〜第三巻として発刊しており、
  第二巻には「西南之役懲役人筆記」が収録されている。同巻解題によると、(中略)注に
     「右の表には東京府(市ヶ谷監獄)関係のものは全然含まれていない」とあるように、
     東京府関係分は収載されていない。これは、発刊計画当時、底本を所蔵していた東京大学史料編纂所に
     東京府関係分があれば当然収載されていたであろうが、当時 同編纂所では同史料の所在が不明であった
     という理由による。その後、同編纂所で東京府関係分が確認されたため、同編纂所所蔵本を底本にして
     東京府関係分を今回発刊する。
      三〇年の間をおいて、ようやく先のシリーズの欠を補うことができたことを喜びたい。」

 と書かれていました。

と、いうことで、曾祖父・名越轟の上申書もようやく日の目を見るに至った、という話です。


☆私信:内倉昭文さん、その節はありがとうございました。ご覧になっておられましたら幸いです。
   ようやく、以前戴いていたこの資料についてのブログ記事を書く事が出来ました。ありがとうございます♪
   どうも資・史料の読み込み(インプット)と文章にする事(アウトプット)に時間がかかるので
   今になってしまいましたが、こうして形に出来たので安堵しております。(^-^)

☆関連記事
  『西郷従道と台湾と曾祖父・轟と』(2018. 7.20)
  『曾祖父・名越轟と西南戦争−2』(2017. 8.27)
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今和泉島津家と永吉島津家と

2019-01-15 00:45:07 | 曾祖父・轟のこと

なんだか、うっかり忘れていた記事や写真が
ここへ来て繋がり始めている感じです。

「知覧のぼっけもん」さんから頂いたコメントをじっくり読んでいて、
一方で以前のフォトチャンネルで関連する画像を何となく眺めていたのです。

それが、こちら


去年の今頃の記事『島津對馬の長女・スガ』にあるように、曾祖父・轟の養母・スガは「島津對馬」の長女

今和泉島津家を継いだ「島津安藝 忠敬(ただゆき)」や、永吉島津家を(一時期)継いだ「島津久敬(ひさたか)」
それに、名越左源太の妻・タネの弟・島津久籌(ひさとし)が継いでいることなども書いています。

また、2017年3月9日の『島津 登について』では、「忠敬の兄・島津久敬(ひさたか)は永吉島津家の養子に入ったけれども、のちに島津 登(藩家老)の息子、島津久籌(ひさとし)を養嗣子としている」と書いています。

最後には「あと、欲を言えば「島津對馬」についても分かるといいのですが。(戸籍によると、曾祖父・轟の養母は「島津對馬」の長女)ご存知の方は、ぜひご一報お願い致します。」と書いていますが、
前述の『島津對馬の長女・スガ』(2018年1月11日の記事)にあるように、黎明館の前・調査史料室長(現・学芸課長 )内倉氏にご教示いただいた史料には「和泉家の流れを継ぐ今和泉島津家に「島津對馬 忠喬」」とありました。

しかし、内容を確認した時期も違うため、それぞれの情報を結びつけてまとめるまでは行かず、今になって自分の頭の中でようやく繋がって来た感じです。


また更にそれとは別に、2017年5月26日には西郷南洲顕彰館へ行き、以前から気になっていた南洲墓地内にある「栗川久澄」の墓石に関することを訊きに行ったところ、戦没年月日と亡くなった場所以外の詳しいことは分からずじまいでした。
《 栗川久澄 鹿児島出身 明治10年4月24日 肥後国 木山にて戦死 》


ただ、曾祖父・轟が西南戦争で政府側へ投降し、市ヶ谷監獄に収監された際に記した「上申書」というものがあるということで以前内倉昭文氏からご教示いただいた『鹿児島県史料 西南戦争 第四巻』で再度確認してみたところ、4月20日以降の内容に「栗川」戦死の表記を見つけました。

これは「栗川久澄」に違いないと思われます。
更なる事実が出て来ることを期待しているところです。


 

コメント (3)
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2009年9月25日 若き薩摩の群像と門田 明さん

2019-01-12 02:09:32 | mixi日記アップのお知らせ
いつもお読みいただきありがとうございます

久しぶりに過去のmixi日記から、
2009年9月25日の
『若き薩摩の群像と門田 明さん』(改訂版)をアップしてみました。

では、どうぞご覧下さい
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『電信創業之地』碑!

2019-01-11 07:38:21 | 曾祖父・轟のこと
皆様、
 明けましておめでとうございます
   本年もどうぞよろしくお願い致します


‥‥‥って、もう11日、鏡開きの日になってしまいましたが
  昔で言う「松の内」ということでお許し下さい〜
  (※ 昔は1月15日までを「松の内」と言いましたが、今では7日までらしい ← 広辞苑による)

さて、前回の投稿から半年近くになりますが、昨日あるテレビ番組を見ていると、
いやいや、平泉成さんはおいといて‥‥なぎら健壱さんの「B面の旅写真館」とか何とかのコーナーです
「電信創業之地」というものが紹介されていました
横浜が有名らしいのですが、昨日紹介されてたのは
東京築地の明石町にあるものでした。

検索かけてみたら、色々なページがありました。

「電信創業の地 - ビバ!江戸」

『電信操業之地』のクチコミ
  「電信創業之地の碑は、築地の明石町にあります。運上所跡の碑の傍です。」


電信創業之地
   
この「電話局の写真館」さんのサイトより
電信創業之地
東京傳信局跡 明治二年十二月廿五日開始 紀元二千六百年 逓信省
電信 創業記念碑の由来 「明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業務を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、
昭和53年、南南東 約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。」
※ 碑は、公営住宅の角地にひっそりとありました。 参考リンク:
横浜側創業の地

以上、前回投稿の『「電信」の仕事?』と関連ある出来事でした。
もしかしたら「轟じいさん※」も明治23年上京時にここを訪れていたかも??
と思ったのでした
※ 「轟じいさん」は私の曾祖父=ひいじいさまです。父が「轟じいさん」というので私もそう言います(笑)

そうそう、「電信創業の地」で検索したら、画像一覧に見慣れたものがありましたよ

「鹿児島県観光サイト/かごしまの旅」より
電信の碑実際は「電信使用ノ地」となっています
  島津斉彬が取り組んだ電信実験の成功を伝える記念碑 

1857年、蘭学者の松木弘安(寺島宗則)、中原猶介は、鶴丸城本丸と二ノ丸庭園探勝園の間に電線を引き、電信実験に成功しました。実験成功後は、地雷や水雷の起爆装置に電気技術を応用。市来四郎は仙巌園で地雷の爆破実験をしたときの様子を「電気装置で通電したところ、(爆薬が)激しく爆発し振動で山々が揺れた」と書き残しています。また、電信実験に携わった寺島宗則は、電信の重要さを感じて、維新後に国内の電信網の整備や万国電信条約への加盟に尽力しました。現在探勝園は公園として整備され、電信碑が建てられています。
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