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その名を信ぜし者には、神の子となる権をあたえ給えり

2018-02-26 19:12:31 | 日記
私はやっと、真理の一番奥の部分を分った気がしていて、
安心の気持ちになり、
ほっと一息ついております。
“その名を信ぜし者”というのに成れた気が
しているのです。
真理追究を継続してきて
良かったと思っております。
【(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春 日本教文社)
もろもろの人をてらす真(まこと)の光ありて、世にきたれり。彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき。かれは己の国にきたりしに、己の民は之を受けざりき。されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる権をあたえ給えり。かかる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、人の欲によらず、ただ神によりて生れしなり。
(以下雅春先生の解説の一部分)
そのコトバこそ真の光であった。つまり宇宙を照らしている光明遍照の光がそこに人格化して現れて来ているのでありますけれども、それを知らない人が多いのであります。併し、コトバが創造主(つくりぬし)であり、そのコトバが自分に宿って自分の生命(いのち)となっているという真理を受け信じた者は、神の子となる権を与え給えられていると云うのであります。「その名を信じた者」と云うのは、「名」はコトバであり、「実相」であります。自分の「実相」が宇宙の創造主たるコトバと同体であると知った者は、既にもう神の子である。世を照らす光がやって来た。それはお前の生命の中に宿っているではないか。その光を見よと云うのであります。見ると云うことは知ることであり、知ることが信ずることなのであります。・・・・・・「其の名を信ぜし者」即ち自己の実相を「神のイノチ」であると、如実に「知った者」が神の子なのであります。】

コリント人への第一の手紙

2018-02-26 11:30:26 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第4章>
使徒の生活態度(4・1-13)
10 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。
11 今の今まで、わたしたちは餓え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、
12 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
13 ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。

実相直視ということ

2018-02-26 10:12:03 | 日記
聖経『天使の言葉』に
「肉体はその背後に『心』ありて
想念のフィルムを回転して
『現世』の舞台面に肉体の映画を現ぜるに過ぎず。
汝ら自己をば肉体なりと観ずる夢を破れ。」
とあります。
この『心』というのは『神の心』なのですが、
『神の心』の上に現象の心がかぶさって実相の現象化がなされるので、
病気ありの迷い心が実相の心に加わると、
実相の健康のレンズに迷い心が加わり
実相の不在である病的状態を現わします。
ですから、
現象肉体の状態の如何にかかわらず
実相の心、神の完全なる心のみを
実在と思って
それだけが唯一真実にあるものと
信じ切る必要があります。
要するに肉体はスッポリ存在せず、
代わりに神の心、神の言のみあると
思えば良いのです。
これを実相直視(じきし)と言い、
奇蹟的な神癒はこれによって起こります。
ですから信仰者が生命の実相をどこまで信じているかが、
神癒をどこまで為し得るかの鍵となります。
イエス・キリストの神癒は
すべてこの実相直視によるものであり、
信仰の深さと愛の深さが特別なものであったのです。
私は仏教とキリスト教の真理の内容に関心があったところから、
実相の真理に近づいて行けたことが幸せでした。
真理が分って実相直視ができるのですから。
ただ真理が本当に深く分るには、
聖典読誦、神想観ともう一つ愛行ということがありまして、
実相直視にせまる道のりは
まだまだです。

実相観にロゴスをイメージ

2018-02-25 20:55:07 | 日記
「実相は即ちわれ、われ即ち実相」と念じて
神想観をする時に、
実相についてイメージするものを
今キリスト教のヨハネ伝を復習している所なので、
神の言、言い換えればロゴスをイメージしてやってみようと
思ったところである。
イメージして神を想像できればいいのであるから、
私の場合
これでイメージできるかな、と思った。

コリント人への第一の手紙

2018-02-25 16:26:09 | 日記
コリント人への第一の手紙
<第4章>
使徒の生活態度(4・1-13)
8 あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。
9 わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。