今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

2.26事件の日

2006-02-26 | 歴史
1936(昭和11)年2月26日の今日、「2.26事件」が発生した。
「2.26事件」は、1400名余の将校・兵士が、「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに起こした、近代史上最大のクーデター事件である。
1936(昭和11)年2月26日の朝、陸軍の皇道派の青年将校たちが、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三各連隊から約1400名の部隊を率いて決起。襲撃は速やかに実行され、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、陸軍省、参謀本部、首相官邸など一帯を占拠し、陸軍上層部に対し国家改造の断行を要請した。東北農村の疲弊などを背景にしたこのクーデターには、陸軍上層部の一部関与していたといわれるが、陸軍主流・海軍は反クーデター側に結集、重臣殺害に激怒した天皇の勅命をタテに、鎮圧。結局クーデターは未遂に終った。軍法会議では、決起部隊の参加人員は連座を含め将校21人、准士官・下士官91人ら、1483人とされた。このう不起訴・無罪となったのは自殺した2人の将校を含む1407人。起訴された将校19人全員、有罪となり、死刑13人、無期禁錮5人、定期禁錮1人、民間人では参加の8人全員が有罪、死刑は襲撃・占拠を支持したとされた村中孝次、磯部浅一、渋川善助、水上源一であった。(朝日クロニクル・週刊20世紀より)
2.26事件の起点は統制派と皇道派の対立に遡る。1930年代陸軍内部にはこの2つの派閥があった。どちらも、古い長州閥中心の陸軍を変革していこうする点では同じであるが、目的が違った。皇道派は、荒木貞夫、真崎甚三郎らを中心に「君側の奸」を討ち、「国体明徴」「天皇親政」を実現すべしと主張、直接行動による国家改造をもくろみ、青年将校たちに広く支持されていた。皇道派はこれを昭和維新と称した。一方、永田鉄山、東条英樹、武藤章らの統制派は皇道派のやり方に批判的で、政治、経済、思想の全面的再編による国家総動員体制の確立を目指していたが、1934(昭和9)の年の林銑十郎陸送就任以降統制派が優勢となる。皇道派は、次第に陸軍中枢部から遠ざけられつつあった。翌年、中心人物の永田鉄山が皇道派の陸軍中佐相沢三郎に暗殺される(相沢事件)と、皇道派との対立を激化させる。
そして、折から、中心的な青年将校が所属する第1師団の満州派遣が発表され、「満州の地で果てるよりは・・・」と言う気持ちが、彼らを決起に向かわせる大きな要因になったのではと言われている。しかし、これら皇道派の青年将校にも2グループあり、北一輝の「日本改造法案大綱」を金科玉条とする「改造派」と「天皇親政」の「国体」が実現すれば、日本の社会は自然に良くなっていくと考えた「天皇派」とでも言うグループがあり、2.26事件の中核をなしたのは、磯部、中村らの「改造派」グループであった。
この事件は、極めて綿密に現実的な計画の元に行われ、岡田内閣を倒し、上部工作により真崎甚三郎による皇道派暫定政権をを起立させれば農産漁村の救済も出来ると考えていたようである。
このクーデターは、暗殺、要地占拠は一部の手違いを除き彼らの構想道り成功した。しかし、木戸幸一内大臣秘書官長がいち早く、事態の本質を知り、暫定内閣の成立を許すことは、「実質的に反乱軍の成功に帰する」として、天皇の政治方針を”現内閣の辞職を許さない”ことに決した。その後の、青年将校たちの上部工作によって、天皇周辺には「暫定内閣」の成立を献言する人物ばかりが何人も現れたが、天皇は、木戸の方針通りに動いたので26日中に大勢は決することになってしまったという。クーデターが成功しても、現内閣が倒れず皇道派の暫定内閣が出来なければ仕方がないので、4日間占拠を貫いて頑張ったが、最後は諦めて2月29日原隊に帰った。
”天皇のもとに、万民平等の社会を作る”というのは、幕末維新以来の日本における正当性をもったイデオロギーであった。明治維新はそうした目的のために行われたはずであり、それが行われていないことの方がおかしいという彼らの主張は民衆の共感を得るものでもあった。2.26事件の時、無邪気な庶民の中には、青年将校たちという義士が腐敗した政党政治に”討ち入り”をやってのけたという、受け取り方をしているものがいたといわれる。
この事件の後、陸軍の皇道派は勢力を落とし、東条英機ら統制派の政治的発言権がますます強くなった。
昭和初期は、第一次世界大戦(1914年~1918年)後の世界恐慌の煽りで日本はかってない不況であり、経済改革の為の政党政治が十分に機能せず、この2.26事件の前にも昭和7年2月には、血盟団事件、5月には5.15事件と次々に政治改革を叫ぶ右翼テロが起こっており、これを境に軍部主導の政治へと邁進していく。そして、「軍部大臣現役武官制」が復活し、軍部はいつでも内閣を倒せるようになる。このような軍部による威嚇が、以後の日本を、太平洋戦争へと導いていく上での重要なファクターとなったのである。
(画像は、2.26事件。週刊朝日百科・日本の歴史より)
参考:
二・二六事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/2.26%E4%BA%8B%E4%BB%B6
第一次世界大戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
血盟団事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%9B%9F%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
五・一五事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
相沢事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
軍部大臣現役武官制 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6
はてなダイアリー - 日本改造法案大綱とは
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%CB%DC%B2%FE%C2%A4%CB%A1%B0%C6%C2%E7%B9%CB?kid=126159