今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ふろしきの日

2006-02-23 | 記念日
今日(2月23日)は、「ふろしきの日」。
京都ふろしき会が制定。「つ(2)つ(2)み(3)」(包み)の語呂合せとか。
「風呂敷」は物を包んで持ち運ぶために用いられる正方形の四角い布で、古くは「平包み(ひらづつみ)」と言っていた。風呂敷の語源は、文字通り風呂に敷くから「風呂敷」で、衣服を脱ぎ着するのに床に敷いたことから転じてこの名がある。
日本の風呂も、仏教の伝来とともに中国から伝わったもので、はじめは宗教的な禊ぎや儀式にあった。我が国でも戦乱の治まるまでの時代は、入浴といえばお寺であった。寺院では僧侶だけでなく民衆への施浴もあった。中でも東大寺の大湯屋は、最大最古のもので、約100坪もあったようだ。湯屋とは沸かし湯を浴びて垢を洗い落とすところで、風呂は本来汗を流す蒸し風呂のことをいった。
室町時代の風呂は先にも述べた蒸し風呂の様なもので、蒸気を拡散させるために、「むしろ」「すのこ」「布」などが床に敷かれていたものがもともとの風呂敷の起源のようであるが、入浴者も当時は、白布の衣を身につけて、沐浴する習慣だったが、床に「ふろしき」を敷いてその上で衣服を着替えたものであった。
室町時代、足利義満が室町の館に大湯殿(おおゆどの)を建てた際、大名達が他の人の衣服と間違えないよう家紋入りの絹布に脱いだ衣服を包み、湯上りには、この絹布の上で身繕いをしたのが今で言う「ふろしき」の始まりといわれている。これが「風呂敷」と「平包」の間に位置するものと考えられる。江戸時代に入り、湯を張った銭湯が誕生し、庶民も気軽に湯に入れるようになった。 江戸庶民には敷物の上で、衣服を脱ぎ着するといった行儀のいいことはしなくなった。そしてこの頃より元来の”敷く”目的だった「風呂敷」が、しだいに「包む」目的に変ってきて、衣類や入浴用具を四角い木綿の布に”包む”ようになった。これが、現在の「ふろしき」に近いもので、風呂に敷く布のようなもので包むことから「風呂敷包み」や「風呂敷」と呼ばれるようになった。銭湯が発展したのに伴い、江戸時代の元禄頃から「平包(ひらつつみ)」に変り、「風呂敷」の呼称が一般に広まっていった。布を二幅から七幅まで継ぎ足して、荷物の運搬用に、また、布団などの大きいものも包むようになった。
今の「ふろしき」の”包む”というものに、日本独特の優れた文化を感じる。風呂に入る道具としてみただけでも、1枚で、衣類の持ち運びに使われ、又、脱衣かご代わりや、バスマットをも兼ねた優れものであったが、「ふろしき」には、”収納”面や、”運搬”面でも、 物の量・大きさ・形に自由に対応できる、たためるのでかさが張らない、多用途性(多目的性) がある、そして、再利用・別利用ができる など非常に多くの特性がある。
今、「ふろしき」のサイズは、一幅といわれる34cmを基本として、約8種類のサイズのものがあるそうだ。なぜ、基本が34cmかというと、一反に織りあげられた布を継ぎ足して作っていたために、着尺小幅の実寸(約36cm)から縫い代を引いた鯨尺の9寸(34cm)が基本となっているからだ。
江戸時代からの便利ものは使い方を覚えれば、本当に役にたつよ・・・。最近は、テレビなどでも、「ふろしき」の使い方など」放送していたが、以下参考の「ようこそふろしき研究会へ」などで、風呂敷の使い方などが色々紹介されてる。普段使わなくても、手頃なサイズのものを一寸、買物袋や旅行バッグなどに忍ばせておくと、とっても便利だよ。
(画像は風呂敷「絵本吾妻抉」。NHKデーター情報部編、ビィジュアル百科・江戸事情より)
 参考:
ふろしきの歴史(資料提供:東京ふろしき振興会)
http://wakomono.tafs.or.jp/furoshiki/rekisi.htm
ふろしき(風呂敷)資料室 >(宮井株式会社)
http://www.japan-furoshiki.jp/frame/f-rekishi.html
ようこそふろしき研究会へ
http://homepage2.nifty.com/furoshiki_sg/


猫の日

2006-02-22 | 記念日
今日(2月22日)は「猫の日」。
英文学者の柳瀬尚紀さんらによる「猫の日制定委員会」が1987(昭和62)年に制定。ペットフード工業会が主催。
「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」の語呂合せ。全国の愛猫家からの公募でこの日に決まった。
エキサイト 辞書 国語辞典の<「猫」には、ねこ 【猫】:食肉目ネコ科の哺乳類。体長50センチメートル内外。毛色は多様。指先にはしまい込むことのできるかぎ爪がある。足裏には肉球が発達し、音をたてずに歩く。夜行性で、瞳孔は円形から針状まで大きく変化する。本来は肉食性。舌は鋭い小突起でおおわれ、ザラザラしている。長いひげは感覚器官の一つ。ペルシャネコ・シャムネコ・ビルマネコなど品種が多い。古代エジプト以来神聖な動物とされる一方、魔性のものともされる。愛玩用・ネズミ駆除用として飼われる。古名、ねこま・・・とある。
猫が人と暮らすようになったのは、今から約5000年ほど前の北アフリカ東北部の古代エジプト。ナイル川流域の肥沃な農地で穫れた小麦や大麦を蓄えていた穀物倉庫を荒らすネズミを獲物とするために、猫が倉庫の中に棲み付いたのがきっかけだと考えられている。肉食の猫は、ネズミを捕まえても穀物を食べることはないので、大切な穀物を守ってくれる猫の定住は人々に歓迎され、徐々に人と一緒に生活をするイエネコになった。 それが、地中海交易を行っていたフェニキア商人たちの手によって、地中海東部やアジア地方などの農業がさかんな地域に連れて来られ、又、15世紀頃の大航海時代には、食糧や積み荷をネズミから守るため必要不可欠な存在となり、世界中に猫が広がっていった。
日本には、元来ネコ(イエネコ)が存在していなかった。日本へは奈良時代ごろに古代中国や古代朝鮮から、仏教の伝来とともに経典を守る益獣として輸入されたという説が有力。愛玩用というよりも益獣として輸入された猫ではあるが、平安時代には、貴重な動物として貴族達の間で猫がかわいがられ、平安時代の『源氏物語』や、鎌倉時代の『石山寺縁起』などの絵巻物を見ると、猫が逃げたり、盗まれたりしないように、首に縄をつけ、紐に繋いで飼っていた。その後、武家社会になると、日本人の猫観が変わり、猫の占める位置も変化してきたようだ。鎌倉時代の『明月記』には尾が二つに分かれるねこまたが出てくる。『四季物語』『徒然草』などにも年経た猫への恐怖を反映したねこまた伝説が現れる。それ以来江戸時代まで日本での猫のイメージは良くはなかったといえる。しかし、江戸時代初期の1602(慶長7)年には猫にとって画期的な法令が出た。すなわち猫を綱でつないで飼うことが禁止された。目的は、鼠退治の為である。これは「猫の草子」という御伽草子にもなった有名な事件であるが、このあたりから、猫の放し飼いがされるようになったようである。このことは、私の前に書いたブログ今日(9月29日)は「招き猫の日」を、見てください。
色々な変遷があり、世界各地で猫が飼われるようになっても、人が猫に求める最大の役割は、狩猟本能を利用した「鼠退治」だったので、犬のようにさまざまな目的のために改良されることはなかった。そのため、猫は今も野生的な性質を存分に残しているといわれる。
しかし、猫の尿マーキングは猫にみられる自然な行動で、これは縄張りを誇示するための手段のようだが、実に臭い。 野良猫にしろ、飼い猫にしろ、放し飼いの猫は、どこへでも出歩き、これをやる。これだけは何とかしてもらいたいものだ。それと、早春は、猫の交尾期にあたり、物狂おしく鳴く。これは、雄猫が雌猫を恋すること 【猫の恋】と言うらしく、俳諧では、「春」の季語にもなっているらしい。
芭蕉の句に「猫の恋やむとき閨(ねや)の朧月( おぼろづき)」と言うのがある。
先ほどまで猫の恋する騒々しい声が聞こえていたが。みれば春の短夜の朧月が部屋に差し込んでいる。猫に刺激されたのでもあるまいが、何となく私も人恋しくなる春の夜です。・・・といった意味らしいが、これからの時期、夜中になく猫の狂おしい鳴き声には、私など無粋な人間は、人恋しくなるより、睡眠不足で悩まされる。
今、ペットブームで、犬や猫が多く飼われるようになった。ペットには癒しの効果もあり、特に、独居老人などにとっては、家の中でも飼えるし、いいものだろう。しかし、太古の昔から人間と共生していた犬と違い、猫には野生が残っており、その点、犬より飼い方が難しいだろう。最近は、「地域猫」と言う言葉が、流行って居るが、猫と人とが仲良く共存できるようにしていくためにも、守るべきルールだけは、きっちりと守らないといけないだろう。
参考:
ネコ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AB
源氏物語に関するエッセイ・論文集
http://www.iz2.or.jp/essay/1-1.htm
動物種別基礎知識
http://www.aikis.or.jp/~vet-shin/knowledge.html
芭蕉俳句全集
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/Default.htm
地域猫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%8C%AB
地域猫とは!?
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ma-guro/tensi/ten_tine.html

日刊新聞創刊の日

2006-02-21 | 記念日
1872(明治5)年の今日(2月21日)は、「日刊新聞創刊の日」。
日本初の日刊新聞「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)が創刊されたことによるらしい。
『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)は、1872(明治5)年3月29日(旧暦2月21日)、條野伝平、西田伝助、落合幾次郎が、東京浅草の日報社から創刊した東京最初の日刊紙である。この年は鉄道が開通し、東京大阪間の電信も開通。さらには全国に郵便が施行されるなど、通信手段が大発展を遂げた年であり、『東京日日新聞』以外にも「郵便報知新聞」(栗本鋤雲主幹)、最初の地方紙「峡中新聞(のちの山梨日日新聞」。英国人ブラックの「日新真事誌」など全国で多くの新聞が創刊された。
明治の初期、新聞は、必ずしも日刊ではなかった。東京日日新聞というのはその名から見てもわかるように、「日刊」を打ち出した画期的なものだった。また、1875(明8)年世界初の新聞戸別配達を実施。1911(明44) 年の大阪毎日新聞との合併では、「東京日日新聞」の名を残すことを条件に経営的には「大阪毎日新聞」の傘下に入り、全国紙としての第一歩を踏み出 した。この大阪毎日新聞は1876(明9)年2月、大阪日報として創刊 。 1888(明21)年 大阪毎日新聞と改題 した会社である。 その『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となっていた。その後、1943(昭和18)年1月1日号から『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』が題号を統一し、『毎日新聞』となり、現在に至っているが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとり、現在では朝日新聞、読売新聞に大きく水を開けられているようだ。
因みに、冒頭の記念日「日刊新聞創刊の日」は、日本初の日刊新聞「東京日日新聞」が創刊されたことによる・・・となっている(今日は何の日、毎日が記念日)が、実際には、1870(明治3)年12月(新暦では1871年1月)に創刊された「横浜毎日新聞」が日本初の日刊紙である。それまでの新聞が半紙2つ折あるいは4つ折の冊子体だったのに対し、西洋紙に始めて鉛の活字で印刷された。貿易都市・横浜の経済情報誌で関東一円に読者を獲得。以降、「東京横浜毎日新聞」「東京毎日新聞」と名を変え、1940(昭和15)年まで、存続していたが、現在の「毎日新聞」および毎日新聞社とは全く関係がない。 現在の毎日新聞社の母体となった大阪毎日新聞が東京に進出する際、まず目に付けたのがこの「東京毎日新聞」と名乗っていたものであったらしいが、営業権(のれん代)が高額であった上、かつ経営状況が最悪であったために買収を諦め、東京日日新聞と合同する道を選んだといわれている。 現在の「毎日新聞」および毎日新聞社とは全く関係がない。 現在の毎日新聞が「日本最古の日刊紙」と名乗っているのは、「東京日日新聞」が、1943(昭和18)年に現題号に変更されたことによるもの。つまり、横浜毎日新聞の発行から東京日日新聞の発行までに創刊された日刊紙は現在全て消滅しているからだそうである。
日本では、1615(元和元年)年、大坂夏の陣の報道が瓦版(読売り、辻売り絵草紙)として発刊され、その後瓦版が盛んであったようだが、幕府を批判・中傷するものが多かったため、1673(寛文13)年には出版規制例によって、規制されている。1855(安政2)年、安政大地震の瓦版が多数発行されたがこのときの「安政見聞誌」が有名で、発禁本となるが内容の風刺性よりむしろ、無届出版という統制逃れを敢えて承知で行なったことにあるらしい(作者は仮名垣魯文・二世一筆庵栄寿であったが、魯文は名前を表していなかったため、処罰を免れたという)。そして、幕末の1861(文久元)年、長崎、横浜の居留地で外人の手によって英字新聞が創刊された。これが、日本における最初の新聞である。居留地は治外法権であったため、幕府も取り締まることは出来なかった。
しかし、新聞という定期刊行物の出現は、幕府の長年とって来たジャーナリズム排除の政策転換を方向ずけられた。長崎・横浜に新聞が出現した翌年、幕府自らが翻訳新聞を次々刊行することになる。その大部分は、横浜の群小の英字新聞の翻訳であった。刊行の狙いは尊皇攘夷派に国際情報を周知させ、開国の正当性をPRすることにあったが、尊王攘夷派の脅しによって市販を中止している。
1868(慶応4)年2月から5月幕府と新政府の対立が最終局面に入る。新政府は、2月23日京都で「太政官日誌」をを創刊し、政府・官軍の上位下達のメディアとした。その翌日幕府の柳河春三(やながわしゅんさん)らが、「中外新聞」を創刊した。これが、日本人自らによる最初の新聞であった。「中外新聞」に続いた20紙余りも、その殆どは幕臣が刊行するものであった。これらは、佐幕派や幕府を心情的に支持する江戸っ子達の間でよく読まれ、特に、「中外新聞」や福地桜地(ふくちおうち)の「江湖新聞」は千部前後を江戸を中心に東日本の地域で売ったという。しかし、上野で彰義隊が官軍に討たれるに及んで、いずれの新聞も廃刊させられ、ことにラディカルな論陣を張った福地は官軍に逮捕されあやうく処刑されるところであった。
東日本の治安が解消し、新政府の全国支配が確立した1869(明治2)年3月、新聞の発行が解禁となり、翌年、最初の日刊紙「横浜毎日新聞」が創刊されたのである。この「横浜毎日新聞」をはじめ、明治初期に創刊された新聞は民間新聞であったが、大部分は、中央、地方の行政当局の支援を受けていた。東京で最初の日刊紙である『東京日日新聞』も、大蔵省が一府県につき三部づつ買い上げたそうだ。これらの政府の御用新聞は政府による支援にもかかわらず、読者の関心は高まらない。この停滞を破ったのが、明治7年の英国人ブラックによる「日新真実誌」による、民選議員設立建白書スクープであった。この建白書は、政府の有司専制を抗議した板垣退助らによって左院に提出されたものであり、政府機関の機嫌を損ねることが予想されたにかかわらず、社主のブラックが敢えて掲載したのは、上位下達のメディア化して沈滞した新聞経営の回復を図る狙いを持ってのものだった。以来、民衆も政府の発表ジャーナリズムから脱した新聞を歓迎し、購読するものが増えていった。
新聞には、「大(おお)新聞」と「小(こ)新聞」がある。「大新聞」は紙幅が広く、文語体で書かれた政論中心の新聞である。「東京日日新聞」などがこれに当たる。これに対し、「小新聞」は艶種(つやだね)、警察種、忠君種、孝行種、などを連載、センセーショナルな事件を談話体の文章でつづる、ルビ付きの新聞であり、その種の末尾に「是だから嘘は顕(あら)はれ易いものに違いありません」といった勧善懲悪的な説論をつけるのが常であった。「大新聞」には娯楽がなかったのに対し「小新聞」には言論が見られないなど双方に、欠陥はあった。
やがて、「大新聞」が衰退する中で、娯楽活動中心の「小新聞」が着実に成長していった。明治7年に東京で創刊された「読売新聞」、明治12年に大阪で創刊された「朝日新聞」が「小新聞」を代表する有力紙として成長していく。しかし、まだ、新聞には、絵も写真も入っていなかった明治7年~9年頃、新聞記事を錦絵に仕立て、絵草紙屋から出版することが流行した。これを、「錦絵新聞」という。
つまり代表的なものが『東京日日新聞』と「郵便報知新聞」で大きさは今の週刊誌2頁大、題材は殺人事件や色事、孝行美談、珍談、奇聞などが中心で今日的に言えば写真週刊誌に似ていなくもない。その最初は、1872(明治5)年に創刊された東京で最初の日刊紙『東京日日新聞』の記事をもとにした錦絵のシリーズである。本紙の題号をそのまま掲げた落合芳幾(よしいく)の絵による錦絵版『東京日々新聞』が1874(明治7)年8月頃に発刊されると、これにならうように月岡芳年が描く錦絵版『郵便報知新聞』、小林永濯が絵筆をとった『各種新聞図解』などが現れ、あいついで約40種類の錦絵新聞が東京、大阪、京都などの都市で発行された。特に、゛『東京日日新聞』を担当した画家落合芳幾(よしいく)の絵は写実的で殺伐な光景が原色で生々しく描かれ人気を博したという。
私も、一度、京都で、「錦絵新聞展」を見たが、非常に楽しい。今や、新聞によるニュースの報道は、テレビ、インターネットの速報性には太刀打ちできない。まさか、今頃、錦絵新聞でもないが、もう少し、工夫をしないと、在来の新聞のままだと、もう、大衆を満足させられなくなるのではないか・・・。
以下参考の「條 野 採 菊のぺーじ」 は、゛『東京日日新聞』創刊の條野伝平(條 野 採 菊)について詳しく書かれており、錦絵新聞も掲載されている。又、「転変地異と世紀末『安政見聞誌」も瓦版や錦絵新聞があり見て楽しいよ。
(画像は、1972年の『東京日日新聞』の創刊号の中の記事をもとに1974年に作られた落合芳幾画の新聞錦絵。朝日クロニクル・週刊20世紀より)

参考:
新聞の歴史
http://www.lian.com/TANAKA/comhosei/newspaper.htm
毎日新聞社
http://www.mainichi.co.jp/
毎日新聞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E
横浜毎日新聞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E
早稲田大学図書館所蔵貴重資料/東京日日新聞
http://www.wul.waseda.ac.jp/collect/b10/7017-7125.html
條 野 採 菊のぺーじ 
http://www.geocities.com/waifu_seijyu/index.html
転変地異と世紀末『安政見聞誌
http://www.city.koga.ibaraki.jp/rekihaku/kikaku99-11/4.htm
新聞錦絵
http://www.lib.kagawa-u.ac.jp/www1/kanbara/tenji4/nishiki.html



アレルギーの日

2006-02-20 | 記念日
今日(2月20日)は、「アレルギーの日」
日本アレルギー協会(日ア協)が1995(平成7)年に制定。
1966(昭和41)年、免疫学者の石松公成・照子夫妻が、ブタクサによる花粉症の研究からアレルギーを起こす原因となる免疫グロブリンE抗体(lgE抗体)を発見したことを発表した。
最近は春になると花粉症が話題になる。花粉症とは、花粉が原因(抗原)のアレルギー疾患。鼻だけでなく眼、皮膚、さらには発熱といった全身症状まで起こるため名付けられた。
その症状は多彩で、原因となる花粉の種類によってスギ花粉症、ブタクサ花粉症などと呼んでいる。花粉症を起こす植物はいくつもあるそうで、現在、日本では50種類以上の植物で花粉症が確認されており、その代表的なのがスギやヒノキであるが、シラカバ、ケヤキ、イチョウ、ブナなど樹木の花粉によるもの、イネ科のカモガヤやハルガヤ、キク科のブタクサ、ヨモギなど草の花粉によるものも、比較的患者が多いようだ。中でも、日本における代表的な花粉症は、春のスギ、ヒノキ花粉症、梅雨から夏のかもがや花粉症、秋のブタクサ花粉症などで、とりわけ、春のスギ花粉症の頻度が最も高く、その有症率は一般住民の15%前後と推定されているというが、結構高い比率だな~。
花粉症対策で、私達にとって最も大切なことは先ず、花粉が人体内に侵入することを防止することだろう。花粉症を起こしやすい植物は、風によって花粉をばらまかれるものが多いので、鼻や眼の粘膜が乾燥冷気や大気汚染、インフルエンザをはじめとする感染などによって障害されないように防御することで、とりわけスギ花粉症には直前の冬の対策が肝心だそうだ。具体的には居間、寝室の温度、湿度を調節(洗濯物を干す、洗面器に水を張るなど)する、マスクや眼鏡で鼻や眼の乾きを防止する。室内空気の汚染を防ぐために、換気を心がける・・・など。
私の家では花粉症対策としてではないが、いつも居る居間には、加湿器を置いてある。それと、健康管理も兼ねて、ペットボトルにお茶を入れて、夫婦で1本づつ持ち歩き絶えず飲むようにしている。、目標は一日2リットル。テレビを見たり、パソコンなどをして、目の乾くのを予防するために、目の乾燥用の目薬も用意しているが、それと、一日何回か顔を荒い、その時に、目も何回か水で洗うようにしている。なんかこちらの方が目薬より手間も掛からず気持ちが良い。まだ、花粉の時期ではないので、していないが、外出時には、いつも、帽子を被り、花粉用のマスクはするようにしている。眼鏡をかけるまではしないが、地域的なことを考えれば、これでよいかな・・。私は、もともと少し、アレルギー体質的なところがあり、温度や空気の変化には敏感であり、結構自分では、神経使っているつもりだが・・・。
今年・2006年春は大量飛散を記録した2005年春と比較すると飛散数は少なくなりそうだとのことであるが、十分、注意はしておこうね。
以下参考の「環境省花粉情報対策」など参考になるのでは・・・。
(画像はスギ花粉。以下参考のスギ花粉情報より)
参考:
環境省花粉情報対策
http://www.env.go.jp/chemi/anzen/kafun/
日本アレルギー協会
http://www.jaanet.org/
花粉症*ナビ(協和発酵HP)
http://www.kyowa.co.jp/kahun/
スギ花粉飛散情報
http://www2.kissei.co.jp/kafun/sugi.htm

「瓢々忌」小説家・尾崎士郎の忌日。

2006-02-19 | 人物
2月19日「瓢々忌」。小説家・尾崎士郎の1964(昭和39)年の忌日。
代表作『人生劇場』の主人公・青成瓢吉から瓢々忌と呼ばれる。
やると思えば どこまでやるさ それが男の 魂じゃないか
義理がすたれりゃ この世は闇だ なまじとめるな 夜の雨・・・
昭和初期から歌われつづけている『人生劇場』の歌である。作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男。尾崎士郎の同名の小説を下敷きにして作られた歌で、昭和13年(1938)発表。男の世界を豪快に歌い一世を風びした歌手村田英雄の代表歌でもあり、私の大好きな歌でもある。『人生劇場』は、愛知県吉良町出身の作家尾崎士郎の自伝的大河小説。映画化されること10数回、流行歌にも歌われ、戦中・戦後のロングセラーとなり、尾崎士郎の『人生劇場』が広く世に知られたのは1935(昭和10)年だったという。『人生劇場』は、「青春篇」、「愛慾篇」、「残侠篇」、「風雲篇」、「離愁篇」、「夢幻篇」、「望郷篇」、「蕩子篇」からなる。
吉良から上京、早稲田大学に入学した骨太い熱血漢・青成瓢吉の生き様を、義理と人情にからめて織り上げた大河小説であった。1898(明治31)年、愛知県に生れ、中学時代から政治に関心を持ち、高等予科入学後、社会主義運動に傾倒し、1917(大正6)年の早稲田時代には早稲田騒動の指導者となっていたようだが、早大政経学部を中退して、1923(大正12)年に長篇『逃避行』発表後、運動から離れていく。1933(昭和8)年、都新聞(現『東京新聞』の前身)に連載され始めたころは、さほど話題にならず、竹村書房から単行本として刊行されるようになり、川端康成が読売新聞紙上で、絶賛したことからブーム現象を起こすほどになったという。1935(昭和10)年4月16日付け読売・文芸欄の全紙を埋めてすこぶるつきの賞賛をしたというがその内容は次のようなものである。
「彼岸の中日、雲の日、(特にその日をここに誌して置きたいほど)私は、よき日の思いに溢れた。尾崎士郎氏の『人生劇場』に感動したのである。その日の後、私はこの小説とこの作者を思って幾度か幾夜か眠れず、房総の旅に出たが、まだ眠れぬほどであった。(中略)このような大小説が我が文壇に生まれえたこと、余りに文壇に知られず書き続けられていたことが、不思議でならないということになる。実に我が国では脅威に価する、長編小説らしいまことの大小説である。比肩し得る作品は容易に見当たるまい」(朝日クロニカル・週刊20世紀より)・・・。後にノーベル賞作家ともなった有名作家に、全国紙上でここまで、絶賛されると、ブームにならないほうがおかしいよね。
川端康成が激賞するだけあって、作者尾崎士郎の面影を宿す正義感と侠気にあふれた主人公・青成瓢吉(あおなり・ひょうきち)の、人生如何に生きるべきかを求めて彷徨する姿には、大正ロマンの哀歓がみなぎっている。早稲田大学に入学し、折からの大隈候夫人の銅像建設に端を発した学生運動(早稲田騒動)に主人公は青春の情熱を注ぎ込む。これに絡まってはじめての恋を体験する。この小説の面白さはやはり、1935(昭和10)年刊行の最初の「青春編」が圧巻だ。多くの読者の支持を集め、「青春編」の刊行直後、古賀政男作曲の歌謡曲「人生劇場」が発表され大流行、翌年には日活によって映画化、1937(昭和12)年には新国劇が劇化・上演して、尾崎士郎は文壇の寵児から世間の寵児に上り詰めていく。これを手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩五木寛之の自伝的な大河小説『青春の門』がある。「人生劇場」は、14回も映画化されているそうだが、今では、最もよく知られているのが、「人生劇場-飛車角と吉良常」(1968年・東映)内田吐夢監督 と「人生劇場-青春・愛慾・残侠篇」(1972年・松竹)加藤泰監督 の2作ではないか。
早稲田騒動のことは以下参考の「尾崎士郎のこと ・大学騒動事始」が詳しい。このブログを書くので調べていて分ったことだが、古賀政男作曲、佐藤惣之助作詞で発表され、大ヒットとなった。『人生劇場』は早稲田の学生たちの心意気を示すものとして同行の『第二校歌』とも呼ばれているらしい。この歌は、通常3番までのものだが、「幻の4番」といわれる歌詞があるのだと言う。佐藤惣之助が作った歌詞か、あるいは別の人があとで付け加えたものかはわからない。3番と4番の間奏の部分にセリフが入っているガ、誰が作ったものかは正確にはわかっていないが、歌が発表される前に上演された『人生劇場』の宣伝文句が原形ではないかといわれているそうだ。
以下参考に記載の「二木紘三MID歌声喫茶」にある>「人生劇場」には、MIDIだけではなく1番から4番までの歌詞とセリフ、歌の説明などがあるのでどうぞ。
「人生劇場」
(画像は、日本近代文学館提供の「人生劇場」アサヒクロニクル・週刊20世紀より)
参考:
人生劇場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E5%8A%87%E5%A0%B4
NO.886 Nov.18,1999『早稲田大学と文学』 (早稲田大学HP)
http://www.waseda.jp/student/weekly/tokusyu/tok886-2.html#top
早稲田ウィークリー/尾崎士郎のこと ・大学騒動事始
http://rokugou.cside.com/sub348hantihankai.htm
日々激動/55 人生劇場
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040914.html
尾崎士郎 (オザキシロウ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/89717/index.html
二木紘三MID歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm