今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

税関記念日

2004-11-28 | 記念日
今日(11月28日)は、「税関記念日」。大蔵省(現在の財務省)が1952(昭和27)年に制定。1872(明治5)年、運上所の呼称を「税関」に統一することが決定された。
鎖国政策を続けた江戸時代には、長崎の出島が、日本と外国を結ぶ唯一の港であったが、幕末1854(安政元)年に結ばれた日米和親条約を皮切りに、我が国は諸外国に対し、次々に港を開いた。1859(安政6)年、長崎、神奈川及び箱館(函館)の港に「運上所」が設けられ、今日の税関業務と同様の輸出入貨物の監督や税金の徴収といった運上業務や、外交事務を取り扱うことになった。これが税関の前身である。
神戸三宮のフラワーロードを南へ下り、国道2号を渡ると、石造りの重厚な建物がある。横から見ると巨大な客船の形に見えるこの建物は1868(慶応3)年の神戸開港と同時に「神戸運上所」として開設以来、港の門番役となっている神戸税関である。「兵庫運上所」は、 先にも述べた、明治5年(1872年)に全国の運上所が税関として名称を統一されることとなったのを機に、翌明治6年1月4日「兵庫運上所」は「神戸税関」と改称された。 初代庁舎は、明治5年2月に着工し、明治6年12月に完成した石造の2階建で、海に面する正面には菊の紋章がさん然と輝く立派な建物であった。二代目庁舎は大正12年4月に着工し、昭和2年3月に完成。「帝国の大玄関番たる税関として決して恥ずかしからぬ近代式大庁舎」として新築され、外装は花崗岩とタイル張りの重厚な造りで神戸港の要としてその威容を誇った。 しかし、神戸港の歴史を見続けてきた税関も阪神淡路大震災(平成7年1月発生)により被害を受け、その修復のため、平成8年4月に着工し、平成10年11月に落成したのが三代目庁舎である。建て替えにあたっては、市民からの熱い要望があり、外観や時計塔、大正建築の吹き抜けのホールなど、二代目庁舎の姿をそのまま引継ぎ、分館跡に建設された新館の高層部は、船のブリッジをイメージし、旧館と連結して、船をイメージした神戸港の新しいシンボルとして生まれ変わっている。又、旧館1階にて「見て、触って、学んで」をコンセプトにした展示を無料で一般開放しているそうである。
王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸三宮(さんのみや)に突発した「神戸事件」(三宮事件)をご存知でしょう。慶應4年1月11日に神戸居留地付近で西宮警備の岡山藩兵とフランス水兵とが発砲衝突した事件である。この事件については三宮神社に碑文がある。神戸事件発生の翌日、明治新政府は、1月12日に東久世通禧に「外国御用掛兵庫表各国公使談判応接之義」を命じた。15日、王政復古を告げる会談が、神戸運上所で行われ、この会談で東久世は、勅使として、天皇が将軍に変わって政権を執り、以前の条約では大君の称号を用いたところは、天皇の称号に変える旨の勅書を伝達した。また、今後、外国への暴行が為されないことを保証し、神戸事件に対する外国の要求を京都へ伝達することを約した。この布告によって、明治新政府は諸外国に承認された。この布告により、対内的には新政府がこれまでの攘夷政策から、開国和親政策に転換したことをも示すこととなり、このことはすでに、大政奉還の後からすでに岩倉具視や大久保利通などによって企図されていたが、実質的には、この事件をきっかけに実現したといえるそうだ。その後、神戸事件の決着のために東久世が各国公使と神戸運上所にて会談を行った。この事件前後の様子などは、島崎藤村 「夜明け前」に詳しく書かれており、以下参考の「島崎藤村 夜明け前 第二部上」を見ると良くわかり、面白いよ。
(画像は、北東より望んだ三代目神戸税関・・神戸税関HPより借用)
参考:
[ 神戸税関の歴史 ]
http://www.kobe-customs.go.jp/00zeikan/03rekishi.htm
島崎藤村 夜明け前 第二部上
ここに神戸運上所開設前後の状況が詳しく書かれている第二章を参照してみてください。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1506_14587.html
税関ホームページ - 新着情報ほか、出入国時、輸出入時の税関手続きについて
http://www.customs.go.jp/index.htm
税関記念日関連行事予定
http://www.customs.go.jp/news/kinenbi.htm

mapion地図(神戸税関付近)