今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

小林一茶

2004-11-19 | 人物
1827(文政10)年の今日(11月19日)は、俳諧師・小林一茶(こばやし いっさ)1763(宝暦13年 )~1827(文政10)年の忌日。
一茶の本名は信之(幼名は弥太郎)。信濃柏原(現在、長野県信濃町)の人。俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠(そうしょう)となった。作風は方言と俗語を巧みに利用して、家族的に不幸な経験からにじみ出た主観的、個性的な句を作ったことで有名。
一茶は柏原の農家の長男として生まれた。3歳の時に母をなくし、祖母に育てられたが、8歳の時に継母が父に嫁いできて、その母親と摩擦もあったらしいが、それをかばってくれていた祖母が14歳の時に亡くなりその翌年、15才で江戸へ奉公に出されている。
江戸に出た当初の行動ははっきりせず、どういう経緯を経てかは分からないが、俳諧を葛飾派の宗匠ニ六庵竹阿などに学び、25才頃から「一茶」の号での俳句を残している。「一茶」とは、消えやすい茶の泡のように、はかない身の上の例えとのこと。31才の時から7年間、九州・四国・京阪など西国へ俳句修行の旅に出て、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版した。39歳の時、故郷へ帰り、病の父の看病をしたが甲斐なく死亡。このときの様子は、「父の終焉日記」に日記形式で綴られているが、そこには、日々衰弱してゆく父の姿と遺産問題に端を発した継母・義弟との確執がなまなましく描かれている。父の死後、まもなく江戸へ戻り、その後、上総、下総の弟子達を指導して暮らしていたらしいが、51才で故郷柏原に帰り、菊と結婚(初婚)し、65才で亡くなるまで故郷で俳壇の指導者として生涯を送る。一茶の句日記としては最大のものである「七番日記」は、一茶の48歳から56歳までの9年間にわたる句日記(自筆稿本)である。この中には《痩蛙(やせがえる)負けるな一茶是(これ)に有(あり)》など,代表作が多数含まれている。
小林一茶の人生は家庭的には不遇なものであった。晩年故郷に帰ったが、そこでは相続争いに巻き込まれ、大変な苦労をした。遅まきながら菊と結婚し、人並みに安定した家庭生活を送るようになり三男一女をもうける。長女「さと」が生まれたのは56歳になってから、しかし、不運にも、「さと」が満1歳と1ヵ月になった頃、突然痘瘡 (天然痘) にかかり死亡し、その後も次々と生まれた子供が死ぬ。一茶は「さと」への挽歌ともいえる句文集 「おらが春」 の中で、次の句を詠んでいる。
「露の世は 露の世ながら  さりながら」
この俳句は、あまりの悲しさにただただ呆然としていた様子をよく伝えている。『おらが春』の始まりの句は「目出度さも ちう位也 おらが春」そして、終結の句は「ともかくも あなた任せの としの暮」 である。
57歳にもなって生まれた娘を前に喜びを噛みしめながら、凡人の目出度さとしては、春(正月)も中くらいとその心情を詠み、、60歳に近づいて子供を次々亡くし、終結の句では、仏の前に身を投げ出し、あなたまかせにどうにでもお好きなようにしてくださいよとの居据りに似たようなものが伺える。
妻菊も62歳の時に病気で亡くし、2番目の妻を迎えるが、気に入らずに別れ、3番目の妻を迎えている。この1年余りの後、柏原に大火発生時、一茶の家も焼け、焼け残りの土蔵で暮らすうちに、その年の11月19日脳溢血で死亡している。日本の俳句の中でも、このような不遇の中から、かざりけのない「人間」のすがたをありのままによんだところに、一茶の俳句の生命があるといえるだろう。
参考:
一茶記念館
http://park3.wakwak.com/~issakinenkan/
長野郷土史研究会の一茶の句碑一覧
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/kuhi.htm
一茶発句全集
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/issaku.htm
SimGさんの草庵 /小林一茶の俳句や国文学情報をGIFアニメやVBScriptアニメ等で紹介。
http://www2j.biglobe.ne.jp/~sim_g/