ドイツ日記 Les plaisirs et les jours

ドイツに滞在して26年経過。2年後に日本へ本帰国予定。ゴルフを始めて4年半ですが相変わらず下手な初心者ゴルファーです。

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2006年04月06日 | My back pages
sariさんと私はネットの中で出会った昔の会社の同僚。当時は働いていた部署も違ったのでお互いに社内ですれ違ったことすらなかったかもしれない。こんな2人がおよそ30年の時を経てブログを通じてネットの世界で出会ったのだから面白いものだ。

そのsariさんから我々が勤めていた「A産業のことをブログに書いたので読みに来てね。」とのお誘いがあったのでさっそく読みに行ってきた。なつかしいな~。あれから30年余りが過ぎたのだ。

sariさんにもあれからいろいろなことがあったのだろうけど、私にもいろいろあった。・・・と言うか、あのA産業で働くようになる前から結構いろいろあったのだった。

ちょうどいい、これから益々ボケて来て完全に忘れてしまわないうちに、ここらで、あの頃のことを書き留めておこう。で、ずっと年を取ってこの記録を読んでひとりで思い出し笑いなんぞをするのだ。いや~、昔はいろいろあったわ、おもしろかったな~ってね。

A産業でのことにたどり着く前に書いて置かなくてはいけないことがある。

何を隠そう!私は大学4年の時に結婚しちゃったのだった。2人のアパートを行ったり来たりするのが面倒なので一緒に住もうということになったのだが、その同居生活(当時も今もこれを同棲というが、この言葉は何か好きじゃないなぁ)が親にばれてしまったわけですね。今と違って30年以上も前の話で両親のショックは大きく、結婚もしてない男女が一緒に住むとは何事か・・と言われ、じゃ、結婚しましょう・・ということになり一応彼を連れて実家に行き親に会わせた後、2人で届けだけを出したってわけでして・・。

うちの両親は面と向かって反対はしなかったが、カンカンに怒ってはいるわけで、即勘当、仕送りストップとなってしまったのでした。ま、彼は私より3歳年上ですでに働いていたので急遽生活に困るというわけではありませんでしたが、親にショックを与えたという罪悪感に消沈もしていたっけ。母親の私への贈る言葉は「あんたたち、どうせ長くは続かないんだから絶対子供だけは作らないようにね。」であった。当然、親類一同には極秘、結婚式なんて当然なし。多分私の弟たちもこの事実をちゃんと知らないかも。

ところで、私の大学生活の最初の3年間は、今から思えば何してたんでしょ・・・というくらい勉強した記憶がない。思い出す事と言えば時代が時代だったこともあり、演劇部の部室を占拠してマルクスとかレーニンとかの読書会なんかやったりしたこととか(といっても私は学生運動には懐疑派で、宗教のひとつくらいにしか思っていなかったが)、そう言えばある授業の最初の日に先生がいきなりマルクスの「ドイッチェ・イデオロギー」を読むようにと言ったっけ。そういう時代だったのよね。今じゃまさかそんなこと言う先生はいないでしょうね。それからジャズ喫茶でバイトしつつ朝から晩までジャズを聴いていたこととか、女ばかりで徹夜麻雀した挙句試験に行けずに単位を落としたとか、学校に行かずに井の頭公園でボート漕いでたとか、学校に行っても授業に出ずに学食にたむろしてたとか・・固くて真面目でお勉強大好きな人たちばかりの大学で一際遊びに精出していたような・・

そういうわけで、大学4年になるとそれまで遊んでいたツケが回ってきて卒業に必要な単位を取るため月曜から金曜まで朝から晩までびっしりと授業を取ることになってしまった上に卒業論文の執筆(権力論のゼミにいたんだった)もあり、秋には極秘結婚というイベントまであったりして、大変な一年だった。当然就職活動などする余裕はなし。・・というか、遊んでいたおかげで成績はしれているし、上等なコネもないし、こんな私を採用するような酔狂な会社もなかっただろう。それに内心、私はまだ社会に出たくなかったのだ。このままモラトリアム状態を続けたかった私は、結婚という道に逃げたのだね。今の私からは想像できないくらい幼くてアホな私であった。今でも同じくアホだという声もあるが・・

ともかくこの忙しい大学4年目を何とかクリアして留年することなくどうやらこうやら卒業にこぎつけたのだった。

で、勘当・仕送りストップだったのに、何故か卒業式の日には父親が弟と状況して来たのだった。あ~あ、それなのに、卒業式の当日はお日柄もよろしい桜満開の日だったのだ・・・と思う。おっと、待てよ。弟も来てたということは彼にも私の極秘結婚はバレていたのだろうか?もはや不明。

で、父親が私に聞いた。「卒業式に行きたい?」なんて事を聞く親だ!その為に上京して来たんじゃないの?私の卒業式は口実だったわけ?・・・そういうわけで、結局私達は卒業式には出席せずに、新宿御苑に遊びに行ったのだった。

後日私はひとりで大学に行き卒業証書を受け取った。

それから半年くらいの間は、たまにバイトしたり週末は大学時代の友人と遠出のドライブなどをしたりとのんびりとした主婦生活をおくっていたが、少しずつ退屈と不安が押し寄せてきたのだった。

・・・こんな結婚生活がずっと続き、そのうち子供作って母親になって私の人生は終っていくわけ?・・・と考えはじめたわけですね。

で、子供の頃の夢を思い出したってわけでして・・。

つまり、私は子供の頃からずっと「好きなときに好きなことが自由気ままに出来るような人になりたい。」と思っていたのだった。格別親が厳しくていろいろ禁じられていたわけでもなかったが、変わり者でわがままな父親がうざいというのがあった。その手始めにともかく親元から離れたくって東京にやって来たのじゃなかったっけ?それなのに、何でまた結婚して不自由な生活してるわけよ?・・と思ったんですね。

それと、高校生の頃には、母親や祖母の世代の女とは一味違った生き方をしたいと思っていたんじゃなかったっけ?結婚こそが女の幸せの道と思う以外にあまり選択の余地のなかった昔の女と比べていろいろ可能性があるはずなのに、何もしないでボーっと暮らしていて結局昔の女と同じじゃないの・・と反省とあせりを感じ始めてもいたのだった。

因みに私の母親は小学校の教師を最後まで務めた人で決して専業主婦ではなかったのだけど、最初の夫は結婚1年ちょっとで病死、2番目の夫は働くのがきらいな人で、彼女自身が望んでいた優雅な専業主婦になりそこなった人でもあったのだけど、その影響もあり、私は男に左右されるような人生は送るまいと思っていたはずだったのに・・・。

もうそろそろ社会にちゃんと出てもいいんじゃないの?

で、いろいろ探しているうちに一流商社専門の派遣会社というのを見つけ、結局そこへ入社したというわけだった。この会社は現在のような派遣会社ではなく、正社員を商社へ出向させるという形を取っていて、私は年も押し迫ってA産業の鉄鋼輸出課へ派遣され輸出業務をするようになったのだった。

今から思えば、大学を卒業してA産業で働くようになるまでの時期が一番精神的につらい時期だったかもしれない。こんな人生は私の望んでいたものじゃなかったはず・・と思っていたのだった。結婚はしたけれど、すでにその頃には相手の男には少々飽きがきてもいたのだった。とっても寛容な人で決して嫌いなわけじゃなかったんだけど、なんか間違った方向に進んでない?・・と悶々としていたのだった。

・・・で、いよいよA産業でのお話です。チャンチャン!・・・続く