出雲王家の谷 西谷古墳群の四隅突出墳丘墓とその埋葬品 2014年6月20日
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西谷遺跡群はパンフレットや看板には「にしだに」と振り仮名がふってあるが、土地の古老は「もともとこの地は 出雲王家が幸の神(さいのかみ)のおわす、鼻高山(はなたかせんー出雲北山の最高峰の山)を遥拝した土地なので「斎谷」 もしくは「幸谷」と書き「さいだに」と読むのが正しい」とおっしゃっている。
ともあれここには沢山の四隅突出墳丘墓があり、代々の出雲の王が埋葬された場所なのだ。その副葬品がとてもすばらしく、まさに「出雲の王」と呼ぶのにふさわしいということだ。
発掘された埋葬品が展示してある 「出雲弥生の森博物館」に出かけた。
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これが出雲の王だ。馬具や太刀、王冠、装飾品はすべて発掘された埋葬品だ。
※発掘された埋葬品を復元模型にしたもの。
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発掘された王冠は金色に輝いていて、ガラスやメノウのブレスレット、ネックレスがまばゆい光を放つ。
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王の太刀はもちろん 出雲王国の砂鉄で作った鉄剣であり、金箔が施されている。すばらしい剣だ。
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馬の鞍にも金箔が貼り付けられて 豪華だ。
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沢山の馬具や馬具装飾品も金色で、凄く豪勢だ。さすが王の馬。
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ブルーの輪は お妃の棺に入れられていたガラス管を繋げたブレスレットだ。
この時代にガラス細工など どうして手に入れたのだろう。支那大陸で作られたらしいという解説があるのだが。
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博物館の中には四隅突出墳丘墓の模型も展示してある。
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墳丘墓の頂上では、王の葬儀が行われている。右のお二方は新しい王で亡くなられた王との、引継ぎ式をかねた葬儀らしい。
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新しい王の後ろから見た葬儀のようす。棺が運ばれている。
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墳丘墓の上に、御柱を立てるようす。殯の宮なのか はたまた神殿なのか。
こういう巨大柱の立柱文化を信州諏訪に伝えて「御柱祭り」となったのは、出雲王国第8代副王の事代主が徐福(スサノオ)やその部下、穂日に幽閉殺害された後 母親の「沼川姫」とともに 出雲を離れ沼川姫の実家のある越の国から諏訪へ移住した事代主の息子「タテミナカタ」の尊である。
ちなみに穂日の子孫の家系が物部王朝成立後、「出雲国造(くにのみやつこ)」にしてもらい、その子孫家系が出雲大社の今の宮司である。
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博物館のまわりには 30いくつの墳丘墓があり、そのなかのいくつかの「四隅突出墳丘墓」が復元されて公園になっている。この写真は3号墓の上から隣の2号墓を見たところである。
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2号墓の四隅突出した「足」の部分の写真である。
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2号墓は中が展示室になっていて、説明パネルが置いてある。
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これらの墳丘墓が盛んに作られた頃の出雲の村の地図も展示してある。
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これらの墳丘墓からは 出雲王朝時代の聖なる山で、サルタ彦が鎮座される「鼻高山(はなたかせん)」がよく見える。逆に言うと、鼻高山に見守られるように 墳丘墓が配置されたらしい。
サルタ彦は記紀では猿田彦と書かれているが、サルタとは南インドのドラビダ種族の言葉で「鼻が長い、または大きい」と言う意味で つまりヒンドゥーの神の一人「象神のガネーシャ」のことである。それゆえサルタ彦がおわす聖なる山を「鼻高山」というのである。
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2千年の時の流れの間には、さまざまな出来事があり、鎌倉時代に 9号墳丘墓の上に神社を建ててしまったような罰当たりもいらっしゃる。中で眠っていらっしゃる出雲の王様もびっくりだ。
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この王家の谷の「四隅突出墳丘墓」は紀元後2世紀中ごろから作られ始めて、3世紀中ごろに作られなくなったという。
この時代は ヤマトでは「天の村雲」に始まる海部王朝が5代カエシネ(孝昭)、6代国押人(孝安ー自ら後漢に出向き 後漢の属国となる代わり、和国の王と認めてもらった)、7代フトニ(孝霊)の時代で 九州物部王国が第一次東征を開始し、熊野に上陸後 ヤタガラス(出雲王家の分家でヤマトの登美家の加茂建津之身)の先導で大和入りし、フトニ大王が吉備へ逃げ出したころである。
また四隅突出墳丘墓が作られなくなった3世紀中ごろは ちょうど九州物部王国と宇佐の豊王国連合軍が 第2次東征を開始して、別動隊が日本海を北上し東西出雲王家の宮殿をそれぞれ破壊して、 17代続いた出雲王朝を終焉させた時期である。
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西谷遺跡群はパンフレットや看板には「にしだに」と振り仮名がふってあるが、土地の古老は「もともとこの地は 出雲王家が幸の神(さいのかみ)のおわす、鼻高山(はなたかせんー出雲北山の最高峰の山)を遥拝した土地なので「斎谷」 もしくは「幸谷」と書き「さいだに」と読むのが正しい」とおっしゃっている。
ともあれここには沢山の四隅突出墳丘墓があり、代々の出雲の王が埋葬された場所なのだ。その副葬品がとてもすばらしく、まさに「出雲の王」と呼ぶのにふさわしいということだ。
発掘された埋葬品が展示してある 「出雲弥生の森博物館」に出かけた。
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これが出雲の王だ。馬具や太刀、王冠、装飾品はすべて発掘された埋葬品だ。
※発掘された埋葬品を復元模型にしたもの。
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発掘された王冠は金色に輝いていて、ガラスやメノウのブレスレット、ネックレスがまばゆい光を放つ。
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王の太刀はもちろん 出雲王国の砂鉄で作った鉄剣であり、金箔が施されている。すばらしい剣だ。
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馬の鞍にも金箔が貼り付けられて 豪華だ。
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沢山の馬具や馬具装飾品も金色で、凄く豪勢だ。さすが王の馬。
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ブルーの輪は お妃の棺に入れられていたガラス管を繋げたブレスレットだ。
この時代にガラス細工など どうして手に入れたのだろう。支那大陸で作られたらしいという解説があるのだが。
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博物館の中には四隅突出墳丘墓の模型も展示してある。
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墳丘墓の頂上では、王の葬儀が行われている。右のお二方は新しい王で亡くなられた王との、引継ぎ式をかねた葬儀らしい。
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新しい王の後ろから見た葬儀のようす。棺が運ばれている。
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墳丘墓の上に、御柱を立てるようす。殯の宮なのか はたまた神殿なのか。
こういう巨大柱の立柱文化を信州諏訪に伝えて「御柱祭り」となったのは、出雲王国第8代副王の事代主が徐福(スサノオ)やその部下、穂日に幽閉殺害された後 母親の「沼川姫」とともに 出雲を離れ沼川姫の実家のある越の国から諏訪へ移住した事代主の息子「タテミナカタ」の尊である。
ちなみに穂日の子孫の家系が物部王朝成立後、「出雲国造(くにのみやつこ)」にしてもらい、その子孫家系が出雲大社の今の宮司である。
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博物館のまわりには 30いくつの墳丘墓があり、そのなかのいくつかの「四隅突出墳丘墓」が復元されて公園になっている。この写真は3号墓の上から隣の2号墓を見たところである。
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2号墓の四隅突出した「足」の部分の写真である。
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2号墓は中が展示室になっていて、説明パネルが置いてある。
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これらの墳丘墓が盛んに作られた頃の出雲の村の地図も展示してある。
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これらの墳丘墓からは 出雲王朝時代の聖なる山で、サルタ彦が鎮座される「鼻高山(はなたかせん)」がよく見える。逆に言うと、鼻高山に見守られるように 墳丘墓が配置されたらしい。
サルタ彦は記紀では猿田彦と書かれているが、サルタとは南インドのドラビダ種族の言葉で「鼻が長い、または大きい」と言う意味で つまりヒンドゥーの神の一人「象神のガネーシャ」のことである。それゆえサルタ彦がおわす聖なる山を「鼻高山」というのである。
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2千年の時の流れの間には、さまざまな出来事があり、鎌倉時代に 9号墳丘墓の上に神社を建ててしまったような罰当たりもいらっしゃる。中で眠っていらっしゃる出雲の王様もびっくりだ。
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この王家の谷の「四隅突出墳丘墓」は紀元後2世紀中ごろから作られ始めて、3世紀中ごろに作られなくなったという。
この時代は ヤマトでは「天の村雲」に始まる海部王朝が5代カエシネ(孝昭)、6代国押人(孝安ー自ら後漢に出向き 後漢の属国となる代わり、和国の王と認めてもらった)、7代フトニ(孝霊)の時代で 九州物部王国が第一次東征を開始し、熊野に上陸後 ヤタガラス(出雲王家の分家でヤマトの登美家の加茂建津之身)の先導で大和入りし、フトニ大王が吉備へ逃げ出したころである。
また四隅突出墳丘墓が作られなくなった3世紀中ごろは ちょうど九州物部王国と宇佐の豊王国連合軍が 第2次東征を開始して、別動隊が日本海を北上し東西出雲王家の宮殿をそれぞれ破壊して、 17代続いた出雲王朝を終焉させた時期である。
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