アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて 57.和国大乱の舞台 伯耆の国 楽楽福(ささふく)神社界隈を歩く 2017年3月29日 その2

2017-04-26 22:19:50 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて
和国大乱の舞台 伯耆の国 楽楽福(ささふく)神社界隈を歩く 2017年3月29日 その2
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楽楽福神社に引き続き 私は船通山へ向いました。
湖の付近の方に道を聞くと「ダメダメ、雪が深くて あんなところへはまだまだ行けないよ」
と猛反対されたのですが、一応行ってみます。
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楽楽福神社から国道183号線を南へ行くと 島根県奥出雲町横田へ行く道があります。
フトニ王の吉備王国軍は この道を奥出雲へ怒涛のように侵入したといわれます。
私はその県道15号線に入ります。
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ここで県道を分岐して林道へ向います。

このまま進むと奥出雲、横田、三成、木次などタタラ製鉄の中心部です。そこから更にもう少し行くと
出雲南部に出て 西出雲王家神門臣家、東出雲王家向家の心臓部です。

出雲軍が必死に反撃に出たのも分かります。このあたりで死闘が繰り広げられて双方に沢山の死者が
出たと伝えられます。
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ここが林道入口です。
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林道にはまだまだ雪が多く 進むのに難儀します。
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このあたりまでは スコップで除雪しながらなんとか進みましたが
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進むに連れて 雪は深く 倒木、倒竹が道を塞ぎお手上げになり 引き返しました。

素戔嗚(すさのおー徐福のこと)は天の国からこの山に下りてきたと出雲風土記に書かれました。
徐福が石見海岸の五十猛海岸に着いて、出雲王国内で大暴れした事は 出雲の民や王族は皆知っています。

とんでもない事が風土記に書かれたのは 徐福の部下の穂日の子孫の韓日佐達が、第二次出雲戦争で
出雲がイクメ軍に降伏した後 イクメ王に 出雲を降伏させたのは自分達が物部軍をひそかに導いたからで、
出雲国造にふさわしいのは自分達穂日の子孫だと強引に頼み込み、既に決まっていた 進駐軍司令官の 物部十千根から
出雲国造を変更させたからといわれています。

穂日の子孫達は 徐福のことを少しでも神に近づけたかったのでしょう。

風土記を見た出雲の人たちは
「ほなら、何かい、徐福達は船に乗って 五十猛海岸にではなく、この山に着いたのかい」
と笑い出して この山を船が着いた山ー船通山と名づけたそうです。

時の最高権力者 右大臣の藤原不比等に表立って反抗する事はできませんからねえ。

ちなみに徐福の忠実な部下の 穂日の子孫が 今の出雲大社の宮司さんです。
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船通山から引き返して楽楽福神社まで戻ると 人者入口からは 昨日私が郡の急斜面で滑落しそうになり
もう少しで死ぬところだった 大山の郡の稜線が 昨日はホワイトアウト立ったのに今日ははっきり見えていました。
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ここでヒミコに付いてもう少し詳しく 述べさせていただきます。
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ヒミコつまり姫皇女(ヒメミコ)を一覧表にまとめました。
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※ちなみに2番目のヒミコは宇佐豊玉姫でこのお方はイ二エ王が日向西都原で亡くなられた後当時和国で尤も強大な王国
である物部宇佐連合王国の名実共に女王(皇后)で、魏の和国駐在武官テイシュンから直接和国印をもらい 
肩に直接錦帯を架けてもらいました。そのお姿は非常に威厳があったと書かれています。

魏の役人が直接会った唯一のお方(ヒメミコ)です。その他のヒメミコ方の話はすべて伝聞と書簡の話です。
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3番目のヒミコは大日霊女貴(おおひるめむち)と呼ばれたサホ姫(第10代大王彦坐の皇女)で
このお方は最初大和入りしたイクメ王と組み 三輪山で日霊女貴(太陽の女神ひるめむち)を崇拝し人気を得ますが、
遅れて大和入りした豊国軍に追われ 兄皇子のサホ彦と共に敗走されます。近江から尾張へ さらに
日下部の連と名を変えて甲斐の国に隠れ住んだといわれます。

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4番目が豊玉姫の娘豊姫(魏書では台与トヨと書かれ、記紀では豊来入姫とか豊鍬入り比売と書かれた)で、
イクメ王の侵入で大和が 戦乱状態に陥ったときに 当時伊都国に駐在していた魏の駐在武官 張政により
豊玉姫の後継者に指名されて 大和入りし 一時的に戦乱が納まりました。

豊来入姫は大和笠縫村檜原神社で月読みの神を奉じて 若日霊女貴とよばれました。しかし豊国軍の強大化と豊来入姫の
人気に 自分が追い出されるのを恐れたイクメ王が出雲系の加茂田田彦に 助けを求め、田田彦は三輪山や 
豊国軍に奪われた領地を回復すべく 出雲から援軍を得て 豊国軍を追い出すのに成功します。

豊国勢は大和を追われ、尾張方面へ闘争します。愛知県に数ある豊のつく地名はその名残です。
豊来入姫は 丹波、伊根と逃れて最終的に伊勢の出雲系の椿大神社(サルタ彦を祀る)
で保護されて 余生を送ったがイクメ大王が放った刺客に倒されて亡くなり遺体は大和へ運ばれて
ホケノ山古墳に葬られました。姫は最初宇佐から来られたので 「宇佐女の命」と呼ばれましたが
織ってを避けるため 「ウズメの命」と呼ばれるようになりました。現在 椿岸神社では
「ウズメノ命」として祀られて居ます。

※椿大神社(つばきおおかみやしろ)、椿岸神社訪問記は2015年10月7日です。
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5番目のヒミコはヒバス姫です。イクメ大王に終に倒された約300年続いた磯城王朝最後の大王、道主大王の
娘皇女がヒバス姫です。

イクメ王に丹波まで追い詰められて降伏した道主大王は彦タツヒコと名前を幼名に戻して 因幡国造として
因幡に住みます。

ヒバス姫は一時因幡にも住んだので 中国山地の比婆山にほうむられたとか 神話が多く作られましたが
彼女の御陵は奈良市山稜町にあります。

また 彼女は西暦265年に晋へ使者を送り献朝し ヒミコとして記録が残されています。
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6番目のヒミコがヒバス姫とイクメ大王との娘皇女 大和姫です。彼女は丹波の竹野郡で生まれ、宇良神社で
月読みの神とともに 太陽の女神の日霊女貴も奉じました。

そしてさらに志摩の国へ行き、そこで出雲系の井澤登美の命の保護を受け五十鈴川のほとりに内宮を建て
最初の伊勢斎宮として太陽の女神を祀ります。
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