怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

あの戦争は何だったのか(新潮新書)保坂正康

2005-11-13 00:43:17 | 教育書
当然、あの戦争とは太平洋戦争(第二次世界対戦)のことである。
イデオロギーによらず、戦争に至った経緯や戦線の状況変化を丁寧に時系列で追っていっている。
あの戦争を知り、考え始めるための最良の書と思った。

あとがきを引用したい。
(以下引用:P239)
私の”太平洋戦争批判”の主要な点は二点にしぼられる。
第一点が、なぜあのような「目的も曖昧な戦争」を「三年八か月も続けたのか」の「(当時の指導者達によるものも、戦後の政治責任者によるものも)説明責任が果たされていない」こと。
第二点が、戦争指導にあたって「政治、軍事指導者には同時代から権力を賦与されたろう」が、祖先、児孫を含めてこの国の「歴史上において権限は与えられていなかった」こと。(つまりは、見通しのない戦争へ向っていった当時の権力者達への批判と、その指導のもとに一丸となって戦争へ突き進んでいった日本の社会的な体質への歴史的批判のことだろうと思う)
この二点である。
(引用終わり:「」の付与と()内の文はyoによる補足)


このあとがきを読んで購入したのだが、個人的には時系列で抜けている部分が無理なく繋がり、とかくクローズアップされがちな事項、省略されがちな事項を一連の流れの中で見直すことができ、有意義であった。
「大人のための歴史教科書」という副題がつけられているが、いわゆる「つくる会」歴史教科書や既存のその他の歴史教科書の記述と合わせて、中・高校などの資料として用いてほしいものだと思う。

誤解を恐れずに個人的な意見を一つ。
やはり天皇に関する記述は気になった。

(再び引用P158、P159:昭和18年について、注視した後の記述)
ここ(昭和18年まで)に至る状況に、そしてまた次ぎに来る(終戦までの)”半狂乱”化した状況へ導いたのは、誰に責任があったからなのか。
果たしてそれを、一概に「東城(英機)が悪い」、「軍部が悪い」で片づけてしまっていいかというと、私は、そうは言い切れないと思うのだ。
この戦争の”突破口”を開いた責任は、確かに海軍にあったと思う。「ミッドウェー海戦」での情報隠蔽などということもあった。しかし、かといって、昭和十八年に至る状況を「海軍が悪い」だけですませてしまうことはできない。
さらに「昭和天皇に責任はない」とも言い切れないだろう。だが、「天皇の責任だ」といった瞬間に、それは”逃げ”になってしまう。その責任は綿密に多様化しながら考えるべきことだろう。
また反面、この時代ほど、日本国民が”総力を結集した”ことはなかったのも事実だ。
(引用終わり()内の文はyoの補足)


あえてイデオロギッシュな発言をすると、よく右翼側の述べる「大東亜共栄圏」の幻想は、いいようにこの「総力」への理由づけ、動機付けになっていたし、この本の流れの中で、やはりキーパーソンとして天皇ヒロヒトの存在責任は大きいことを否定する文脈はないのであって、太平洋戦争を総括し、平和を語る時、この二の轍を踏まない断固とした態度が今の日本には必要であることは明らかだと思う。
まして、「総力」への絶え間ない動機付けとして機能してきた靖国神社が主張も転換せずに現存し、そこに参拝を繰り返す首相は、対外的に信用を得られるというのは甘い幻想というだけでなく、こうした歴史を顧みない不遜な態度と言わざるを得ない。

フジテレビ「たけしの日本教育白書」

2005-11-13 00:42:51 | 教育
構想3年とうそぶいた発言もあったが、民放らしいとっちらかった内容。
いろいろあったが、「頭がいい」がキーワードだったように思う。
結局、エリート教育に繋がるイメージを振りまいて終わったように思う。

私も教育的な語義の少ない輩の1人だから、これだけの情報をまとめて、エンタメとしてそろえた企画には敬意を払うが、もう少しアカデミックにせまれなかったのかなとは思っている。

冒頭のいわゆる「学力低下」に関わるテロップチックな言葉や、「学校問題」「教師の資質問題」などの言葉も、投げ捨てられて終わり。
淡白なものだが、物事の本質をゆがめて伝え、イメージの固定化に繋がりはしないかと思う。
私は、民放は無責任な教育放談が多い印象をさらに強くしたと思っている。

アメリカなどの飛び級制度が紹介されていたが、一方でMENSAのアメリカ支部の会合の様子が紹介され、その中のメンバーが自分が浮いた存在として扱われてきたと発言していた。
教育の手当が一様でない矛盾点をみたような気がした。

「3年にわたって豚を育てる命の授業」が紹介されていたが、実践的には成功している例なのだと理解した。
しかし、その独自性を支えるものはなんだったのか、保護者、地域、学校、同僚、その他にもいろいろ十分条件を整備していかなければならないことは容易に想像できる。
これこそ教育の実践は1人教師の力で成り立たないものではないだろうか。
また、この子ども達は4年生の時点で「豚を育て、食べる」ということについて、主体的なモチベーションを持ち得ていたであろうことは卒業前の議論の様子で想像できる。
逆にいうと、「先生がつれてきた豚」というそっけない対象になってしまったらお寒い内容になってしまうに違いない。
これを単純に他の学校で「やろう」と当てはめれないハードルにもなっている点だろうと思う。
「命の授業」という点では、書籍だが、金森先生のモンシロチョウの実践などは今年度知ったもので、とても印象が深い。
この場合、児童の実態だけでなく、外的要因をよく考慮していろいろなバリエーションが考えられ、豊かな実践だなと思うと同時に、読み手にもよく伝わったと思う。
この「先生がつれてきた豚」は、実践的にはテレビメディアを使いながら、伝わるものは薄いと思った。
とってつけた算数の計算などの紹介は、ホント、蛇足だなぁと思う。
しかし、この実践の紹介は番組構成上「どういった意味があったのか」、いろいろな疑問を放り投げて、たいして印象深く語られることなく過ぎてしまう。

「小中学校では詰め込むものは詰め込む、高校は選択の幅を増やす」
そんな内容の発言を石原知事はしていたが、そういったイメージ先攻の施策を強要するから「命の授業」のようなものはなくなっていくことに対する批判はない。
そう、やはりこの番組はイメージの羅列で、なにか核心をついた内容にはなっていない。

明日から無味簡素な前頭葉トレーニングを繰り返す子どもが増えないことを祈る。
(トランプのババ抜きや神経衰弱でもできるトレーニングなのだから・・・)