怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

総合的な学習の時間の利用について

2005-06-21 22:38:15 | 教育
私が自分の主張について考え、思考を深めるいいきっかけになっている「できるだけごまかさずに考えてみる」ブログで、「学力」についてコメントをしていましたが、あまりの長文かつ多岐に発想できてしまう内容に混乱しそうになっています。
ある程度くくって考えられるものを自分のブログにコメントすることで、その混乱を回避します。
以下はそのための文(議論のための引用文・その1)です。

「総合的な学習の時間の利用について。」

例えば、教師間のやり取りとして、
「基礎基本を鑑み、「総合」で「表現力」というテーマを設定し、子ども達に基礎から発展・応用までの力をつけさせる。」というのは教育的な意味があるだけでなく、「総合」の内容にもあっており、実践的に可能で、効果もあがるのではないだろうか。
と提案したとします。

国語では「話す・聞く」の分野を重視し、総合における発展学習との相乗効果を試みる。
低学年を中心に話型を指導の重点とし、接続詞をキーに話題の切り替えや効果的な伝え方を系統的なカリキュラムの中で教えてみる。
現行カリキュラムにも含まれている内容だけれども、さらに徹底して指導でき、総合の時間や枠組みの自由度を利用して、場面設定などを多様化し、教科書を離れていろいろなところに「話す・聞く」で身につけた力を試すことができる。
算数では「考え方」という評価項目に着目し、どんな「足場、手がかり」を用い、子ども達が問題・課題解明の説明をしていくかや、考えの提示の仕方、表現の仕方(グラフなのか、図なのか、具体物なのか等)を教えてみる。広く統計データや身近な図形に親しむなど、発展を試みる。
理科でも社会でも、はたまた図工や音楽でも「総合」の枠組みを計画的に利用し、現行教科の枠組みを広げるような豊かな学習が予想できる。
一番いいのは、時数・単元の枠を系統制や妥当性をはっきり理解しないとできないため、根の持った教師側の発想が生きるカリキュラムの設定ができるということです。
つまり実効性が高い可能性があり、その効果も期待できそうだということです。(「やってやれそうだ」ということ)

しかし、実際にはこんな提案は(管理職を中心に)受け入れられません。

一言で言うと「地味」なのです。
パソコンや英語を使った方が親受け的にいいということになるのです。
(今や福祉も地味扱いされるところもあります。)
管理職的に言えば、「なぜ、現在広くなされている実践が、うちの学校ではできないのか?」や「せっかくパソコンなど設備を(目的を設定せずに)整えたのに、なぜ利用する方向でカリキュラムを組まないのか?」、「もっと社会的な要請に応える(ようにみえる)形でやれないのか?」などの反ばくに遭うのです。
ましてや「表現力」については教科の国語などで、大枠のカリキュラム上、力をつけることになっており、「総合」に頼るような形になることを望まない人(管理職)もいるのです。(ちゃんと国語でやれ!ということ)

また、教科について深く考えている方にとってみても、「総合」で発展的な部分を補うというやり方は、教科の枠組みを理解する観点から煩雑な感触を免れ得ないため、二の足を踏むことは容易に想像できます。
私自身も、「総合」が生まれた経緯(教科の枠に捕われない取り組みを保証すること)を考えると、時数の設定が恣意的になるのは(現状でもそうなのだが、枠が強制されている分、評価はしやすいので)さけられず、「総合」がいい形で成熟する前にダウンする可能性を否定できないのです。

また一方で、私は教科を補強・発展させることも「総合」のねらいの一つであったのに、そういった点に関して具体的でなかったため、様々な影響を受けて、無駄が多く、重たすぎる時数の今日の形になっているのだとも思います。
そういった意味で「「総合」をやるくらいなら」と、教科に裏で振り替えてやろうとする人が後を絶たないのは理解できることなのです。

もちろん、学校の取り組みとして「クラス総合」と呼べばいいような、学級担任や学年で自由にできる時間を設定し、国語の発展的な学習部分を実施している学校や、それに対応した教科書もあるのですが、系統的に計画的に実施されているかという点では、あまりオープンでないようです。

「総合」は学校の特色を大いに表現できる領域です。
それは確かですが、公立学校のように、人員が流動的で、地域の変化の影響も受ける環境では困難を抱えざるを得ない要因はたくさん生まれ得ると考えています。
私立ならば、そういった意味では、いろいろユニークな取り組みがしやすかろうと思います。
(勘違いだったらすいません。私立和光学園などの実践がモデルケースとして導入・発展してきた流れもあったように思います。)

さて、最後に、最近のニュースから。
中学校の先生の間では「総合」への取り組みは否定的な意見が多数を占め、一方、中学に限定しない数字で、保護者の方は「総合」への取り組みを評価している人が過半数以上になっているとのこと。
いろいろな論議があるが、私の所感を述べておきます。

まず、中学校側に対する想像。
学級担任制でない中学での総合の取り組みは、小学校のそれよりも困難を極めることは容易です。
教科担任制が基本の中学では、教科の枠組みを超えてのカリキュラム設定は新教科をやるに等しい感覚であるし、教科に引き寄せて考えても、全校を揚げてカリキュラムを立ち上げ、運用、継続していくことは、ただでさえも生活指導や、部活で殺人的な業務をこなしているであろう現場を苦しめていることは想像に難くない。

次に、保護者側に対する想像。
「総合」のなんたるかが、教員が理解するにかかった時間以上に理解に時間がかかるだけでなく、誤解も多く生まれている。
(これは私の小学校の経験から)
また、親のニーズは、(一例だが)「国際理解」ではなく「英会話」であり、「情報教育」でなく「パソコンスキル」なのだ。
そういった意味で、そのニーズに近いであろう「総合」は辞めて欲しくない不詳の対象なのではないだろうか。
もっといえば、「国際理解」を学校の特色とうたい、英会話学校から派遣された講師を利用した「英会話」が時間として設定されていればとびつく保護者は多いであろう。
前述した「表現」なんてものに、とびつく親がどこにいるのだろう。

学校選択制と併せて、「学校の特色の設定」に関わる問題は、その裏に戦慄するような事実が隠れているように思えるのは私だけなのだろうか。
教育が「スキル」であり、「育み」でないという風潮がかいま見れるといえばわかるのだろうか。
日本の趨勢がそんなものになったときに、日本の将来像は暗くならないだろうか。