怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

学校選択制について

2005-06-22 22:40:39 | 教育
私が自分の主張について考え、思考を深めるいいきっかけになっている「できるだけごまかさずに考えてみる」ブログで、「学力」についてコメントをしていましたが、あまりの長文かつ多岐に発想できてしまう内容に混乱しそうになっています。
ある程度くくって考えられるものを自分のブログにコメントすることで、その混乱を回避します。
以下はそのための文(議論のための引用文・その2)です。

「学校選択制について」
(>>引用はyo、>引用は白河氏)

>>総合の話をすれば、文科省大臣が「総合をやめる」などとつぶやけば、一斉に来年度計画への会議が停止するのです。
>>理念や必要な情報の説明も共有もなく、よかれという思いだけで動いている現場が現実の姿です。
>>これが短期的に(上層部の思惑・施策が)ぶれることの一例です。
>>それは民間でも同様なのではないでしょうか?

>私が小学校選択制の話を挙げたのは、私塾のように、生徒数や合格実績、成績上昇実績などの「結果を表す基準(結果基準)」を、学校教育ではどう設 定するのかが難しいなと思ったからです。
>学校選択制にすれば、動機はともかく、何らかの生徒数の変化が、その学校の取り組みを評価する「結果基準」になる かもしれない、と思ったのです。
(中略)
>この意味で、ショック療法ですが、学校選択制にす ることで学校ごとに競争をさせることで、各学校が生徒の変化により敏感になる習慣を身につけることは有益だと私は考えます。

公立学校の評価を具体的に考えるという試みは、いくつかの書物をひも解けば、今までに考えられ、いくつかは試みられてきたことがわかります。
結果的には、現在問題になっている世間一般的な課題への対応としての「学校評価」へは、有効な手段がなかなかないという状況のようです。
おそらく、白河さんがおっしゃっている「結果基準の設定」の難しさは同様のことをいっているのだと思います。

そういった中で、「学校選択制」を用い、自治体内の学校を(過当)競争へ持ち込むことで、学校の「結果基準」を出そうとする気持ちはわからないではないです。

今の学校選択制を「保護者からの学校評価」とのタイアップとしてとらえることを前提に考えると、学校評価の前提条件が「教師」「学校」に対する改革期待あるいは諸問題依存型であるところは否定しにくいと思います。
一面的な評価の軸を導入すると、それに対応した公立学校が出現せざるを得なくなります。
つまり、地域に対する諸問題請け負い所のような、学習よりも生活という学校を目指すか、生活部分を目にとめない、管理主義的な教育で効果を生む学校を目指すか、にならないでしょうか。

公立学校は地域に設立されたため、その地場で存在し教育活動をする意義を自ずと持っています。
社会的要請もそうですが、地域を成熟させるのは学校ではないし、保護者に対して啓蒙的な立場をとるのは一部は仕方が無いけれども、民生員のような活動ばかりを押し付けられても困るのです。
地域が向上・成熟せずに、学校への依存度を高め、マイナス思考の批判を受け入れる土壌作りをされても、私は困ります、というより嫌です。

一方、最近の傾向では均質な教員を求める声が多いように思いますが、実際には無理な話で、性別年齢多種多様です。
国立小学校の様に、バリバリの人が集められた学校も存在しますが、私立の選択と同様で、公立小学校を基準とした議論の中で、そのファクターを無視することは不適当だと考えています。
(極論では、野球選手の様に年俸制を用い、定年など存在しなければ解消できる問題でしょうが。)
人に応じて指導方法も異なりますし、連携することで様々な成果(善し悪しは当然あるが)が生まれ得ます。
最近、異常に定年前退職者が増える傾向があり、指導法だけでなく、様々な諸問題に応える経験者が少なくなりつつあります。
私の知り合いにもそういった惜しい人がいます。
「なぜ?」と聞けば、「居心地が悪くなるものだ。」との答え。
管理職にならなかったためであったり、体育指導軽減の人員をさいたためであったり、異常に増えた定年前退職希望募集の書類であったり、もちろん、最近の教育方策の異常さであったり、いろいろな理由を説明してくれました。
二番目のことなんて、まさにどうにでもなることだったのに・・・。

要するに、「公立」=「スタンダード」が私のイメージですが、「公立」=「多様化・特色化を目指す」のならば、人的、金銭的な支援の偏りを生み、果ては極端な淘汰さえ予想できます。
それは今まで築いてきた「公立」のイメージとはかけ離れるだけでなく、(ショック療法というより、)教育的財産を破壊しかねないことではないでしょうか?

教育施策や学校の方策の看板化によって、実践力が高まるわけではないし、その透明性が高まるわけではないと思います。
(見てくれが良いだけの私立学校なんて、結構あるようですしね。同じになってしまいます。)
もちろん閉じられた部分を公開して行くことは大切ですが、小学生のように、何か具体的な見通し(リアルな将来像)をもって学校に通っていない子どもを相手にしているとき、無理な社会要請を受けたり、トップダウンのハードを受け入れたりすると、あまりのリアリティの無さと、子どもの置かれた状況とのギャップに、教師も子どもも愕然とすることになりはしませんか。
いや、現実にはすでにそんなもの(無理な社会要請)を引き受けながら、ああでもないこうでもないとカリキュラム作りに精を出し、児童を引き受け、教育活動を行っているのが公立だと思います。

「特色ある学校づくり」がトップダウンしてきて久しいですが、ここでいう特色とはなんでしょうか。
どこの学校でも学力アップに励み、徳育に励み、体力向上に励んでいなければならない指導要領上の必須レトリックがあります。
「公立はスタンダード」だとおっしゃった人がいますが、私もそうだと思います。
そう考えてみると、地域に密着した小学校において、地域以上の特色はありえず、そういった無理矢理捻出された異形の特色はそぐわないことになると思います。
地域に外国人が多く住んでいれば、地域と密着型の国際理解教育もできるでしょう。
(実際に外国人のボランティアがたくさんいる地域があり、実践事例もあがってきています。)
地域に大手のコンピュータ会社があれば、容易に連携を申し込むこともできるでしょう。
(MS社がXBOX貸し出しなんてのも出ましたね。)
しかし、実際には、「特色」に固執するあまり、無理矢理遠方から講師を召還し、地域性等顧みないことも少なくないのです。
乏しい地域資産を生かすのは苦行ですし、効率的ではありませんし、児童の実態を顧みないことは教育的背信行為だと思います。
だけれども、実際に行われていることは地域への無理強いや児童への無理強いとはいえないでしょうか。
特色が「アットホームな小さいながらよく目の行き届いた学校」ではいけないのでしょうか?
「大規模校だから、行事が盛り上がり、大勢の先生に触れられる学校」ではダメなのでしょうか?
「特別活動が子どもの自主性を育て、教科学習にもその実態が生きる」では特色にならないのでしょうか?
中学の部活的ではあるけれども「鼓笛隊の実力がすばらしく、地域・全校挙げて取り組んでいる学校」でも「学力」について特色をだし、学校選択制にして競争力をあげなければならないのでしょうか?

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