怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

総合的な学習の時間とゆとり

2005-06-26 10:09:19 | 教育
福島日報の記事から「学校現場「ゆとり」生む工夫を」ちょいと考えてみた。
(まとまりそうにない予感)

まあ、この記事自体は、ちょっと現状把握できていないというか、思い込みとまではいかないが、偏りを感じるものだ。
(例えば「ゆとり」と「学力」の二項対立で論じている点など)
少し引用するが、

>だが、だからといって総合学習をなくしていいとは思わない。
>児童・生徒は地域や自然の中で、教室だけでは決してできない体験をしている。
>田植えや伝統芸能の継承、川の調査、お年寄りとのふれあい、職場体験、ボランティア活動…。
>ある意味で学力とは対極にある「心」を育て、その経験はやがて大人になった時の生き方に向かっていると思う。


に見られるように、「総合」を体験学習と位置づけ、「学力」と「心」を対立させている観がある。
これはこれで、その記者のイメージとして解釈すればいいのだろうが、現場での苦労の解消方法を、

>地域の協力が総合学習を支えている。積極的に参加している保護者もいる。
>だが、それでも教員が重荷に感じている現状ならば、地域や保護者は学校活動に今よりもう少し深く入り込み、少しでも教員の負担を取り除く方策は取れないか。
>学校側も地域、保護者と緊密に連携を取り、後押しを得ながら進めれば、教員の悩みは軽減すると考える。


と考えてしまうようになるとこれは話が別だ。
私は、「総合」、地域に応じてその内容が異なり、その成果の程度も異なると考えている。
つまり、「総合」で身に付く力は多様で、レベルの格差があることは避けられないという認識がなければならないと考えている。

一方、教員は一律のレベルで指導する事を望まれているという観念から抜け出す事は困難で、そういった「総合」の見切りができない状況というのも、教師の苦しみの一つだと思う。
時数が一律105時間なんてものに苦しむのはそのいい例である。

そう考えて行くと、「協力しますよ」と良心的に地域から求められても、現状では、逆に教員の負担を増やして行くことにしかならないのである。
(もちろん、現状で地域協力をするなといっているのでも、協力の拡充を図らなくてもいいと言っているのではない。良心は良心として受け止めることはできる。)
え?来るの?聞いてないよ?カリキュラムどうすんの?この先何年同じ事ができんの?多学年との系統は大丈夫?と、ドタバタにならない方法を臨みたいものではあるが・・・。

教育活動であるからには、「体験」一つとっても、なんらかの「ねらい」があり、「総合」であるから「発展」があり、(なんらかの)力を身に付けさせ、評価をくださなければならない。
「総合」こそ、カリキュラムのプロである教師の腕の見せ所であるのに、実際には縛りが多すぎてつまらない実践が繰り返されている。
(これでは「学力」につながるわけがない。)

「総合」を真に生かし、「ゆとり」を生むのは、地域の協力も大切だが、学校や教師にもっとカリキュラム上の「ゆとり」を認め、積極的に地域からの(外部評価ではない)当事者評価を受け、それを重視しながら次につなげる活動をしていくことであるのではないだろうか。

「総合」の取り組みが、今、問題になりつつあるのは、まるで「学力」とかけ離れていると考えられている「イメージ」のせいではなかと考える。
単なる消化試合の「総合」から、真の学びを獲得するきっかけとしての「総合」へ引き戻すには、子どもの「ゆとり」=「余暇」が必要なのではなく、大人(地域、教師)の「ゆとり」=「制約からの解放」が必要なのではないだろうか。
教師はそのためには忙しくても根はあげないだろう。
子どもの学習活動に関わって行く事をのぞんでこの職についたのだから。

>福島市内の中学校の校長に話を聞いたとき、校長は今の教員を「忙しくて、なかなかゆっくり考える暇がないようだ」と分析し、家庭については「学校教育にも限界がある。すべて学校任せでなく、(しつけなど子育ては)家庭でしっかりとやってもらいたい」と求めた。

こういう認識の校長がいることが困る。
子どものせいで忙しいのではなく、他のこと(あるいは他のせい)で忙しいといっているのだ。
家庭とは対立関係には元々ないのだ。
地域から、保護者から、子どもから引きはがされる状況をどうにかしなければならないのだ。
これは管理職にも大きな責任があると思う。

この記事を書いてすぐに、先の中山文科大臣発言を受けてのコメントで、大変わかりやすいものを見つけた。
ぺろりんさんブログ「ぺろりん物語」「たまにはいいこという」
>カリキュラム開発に関する一定の知識と経験をもち、教師集団のなかでコーディネーターの役割を果たすことのできる専門的教師が必要なのだ。
は最高に的確である。