できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

yoさんとの「学力低下論争」その2

2005-06-13 10:03:16 | Weblog

 丁寧なコメントをありがとうございました。yoさんのご意見がより明確に理解できました。

(経過を知りたい方は、

やはり学力低下は「している」と言わざるを得ない  と

yoさんとの「学力低下論争」 の記事を参照のこと。)

>私の立場を先に示すと、「総合的な学習の時間」を無くすか、極めて時数を削減し、効果不定の英会話だとか、いつでもできるパソコン体験だとか、場 面設定やガイダンスや環境の設定が難しい場合もある福祉教育だとかをやめ、不足を指摘されている教科に力を注ぐべきだと思っています。
>そういった意味では、「国語を10時間にせよ」という主張は同意します。

>私のブログのどこかに書いたのですが、ある管理職から「英会話が学校の特色だ!といえば児童が越境してでも集まる」という発言を聞いたことがあります。
>世間的な「総合」のイメージなんてそんなものなのか?と、思っていたら、実際にそんな数字(児童数増加)があり、がっくりした覚えがあります。

 同感です。幼児期から英語などの外国語教育を導入することの是非はともかく、ある小中学校が「うちは外国語教育が特色だ!」と叫びさえすれば、志 願者がどっと増える条件反射的な動き方には大いに疑問を持っています。テレビの取材でも、多くの父母は「日本語は家庭でできるから、子どもには武器として 外国語を身につけさせたい」と無責任に言う姿が頻繁に見えますから。そういう父母にこそ、今回の語彙力テストの結果を真正面から受け止めてほしいとさえ思 います。法的には学校と認められていないインターナショナルスクールの競争倍率が大幅に上がっている状態など、子どもの成長にどういう責任を取るつもりな のか私は怒りを禁じ得ません。まあこれは私情ですが(汗)。

>国語力の低下はそんなものにも支えられていると思っています。
だから、中身を期待する「総合」の視点がない、今の「総合」はダメだと思っています。
>ましてや教科を軽んじるような結果を招いていることも大問題です。

 これも同じ意見です。

>国際的にも日本の学校教育の総時数は平均より少ないのですから、OECDの数値などでは健闘しているとみることもできます。

 しっかりとした時間数の計算をありがとうございました。恐縮しています。ただ、それでも 「日本の学校教育の総時数は平均より少ない」のは、逆に言えば、他国は学校教育の総時数が日本より多い、ということですよね?

 ということは、週五日制の国では、少なくとも高学年では毎日6時間やっているという可能性もあると思います。実技が4科目、その他に特別活動(学 級会など)があるのだから、全ての曜日に実技か特別活動のいずれかを入れれば、一日6時間でも、実技や特別活動を除いた時間は4時間なので、高学年であれ ば1日6時間は不可能ではないかも知れません。あとは教師の工夫、とも言えるかも知れません(私は学校の教員ではないので「かも」という言い方にならざる を得ないのですが)。

>総合の話をすれば、文科省大臣が「総合をやめる」などとつぶやけば、一斉に来年度計画への会議が停止するのです。
>理念や必要な情報の説明も共有もなく、よかれという思いだけで動いている現場が現実の姿です。
>これが短期的にぶれることの一例です。
>それは民間でも同様なのではないでしょうか?

 私が小学校選択制の話を挙げたのは、私塾のように、生徒数や合格実績、成績上昇実績などの「結果を表す基準(結果基準)」を、学校教育ではどう設 定するのかが難しいなと思ったからです。学校選択制にすれば、動機はともかく、何らかの生徒数の変化が、その学校の取り組みを評価する「結果基準」になる かもしれない、と思ったのです。この引用部を読むと、学校教育では、何を目標とするのかが定まっていないせいで、きわめて曖昧な情報共有しか行われていな いことが推測できるのです。例えば、

> 「指導」と「支援」の混乱なんてのは現場で有名なものですが、考えてみて下さい。
>教師に対して強烈な指導的立場である指導主事から、研究授業をやるたび、「指導」ではなく「支援」をしなさいといわれ続けることを。

こういう部分でも、学校教員側としては、

① 指導と支援は何がどう違うのか。
② 指導より支援の方が、どういう目的に照らして、なぜ、どのように優れているのか。 

についての共有ができていないように思えます。特に、指導ではなく支援をすることで、子どもたちの「何」が「どのように」変わるのかが、単に「思考 力を持つ子供が増える」レベルの、極めて抽象的なもの以上のものになっていないことが問題だと思います。この意味で、ショック療法ですが、学校選択制にす ることで学校ごとに競争をさせることで、各学校が生徒の変化により敏感になる習慣を身につけることは有益だと私は考えます。

 学校選択制の是非よりも、前述の①②について、教員間でどれだけ具体的に情報共有ができているかを伺いたいです。そちらの方が重要だと思うので。

 次に、日教組とゆとり教育について。

>(だいたい日教組の発言で、有用なものがどれだけあるか。はっきりいって現場サイド的には邪魔なものばかりですよ。)
>私的には現行の学校教育の状況や、将来的なものを見据えても、無視して差し支えないレベルだと考えています。
>どちらかというとこれから先の教育改革を進める立場にある人たちの動向の方が議論されるべきだと思います。
> (私が教職についた時点でも日教組の「に」の字もない職場でしたし、もし「ゆとり路線」について、日教組を批判して現場の状況をどうこうなんてのは、へん ないい方ですが、実用的でなかったと思います。上がどういう態度であろうと、現場は目の前の子どものことしか見ていませんしね。意外かもしれませんが、 23区内では、労組に対してはシニカルな職場が多いと思いますよ。)

 けっこう意外でした。なるほどという思いもあるのですが、ネットで調べると、愛知県など、地域によってはかなり頑強に「教員間のトップダウン的な組織変革」に反対しているところもあるようです。

 私が日教組にこだわっているのは、彼らが単にゆとり推進派に一枚噛んでいただけでなく、共産主義への無根拠なあこがれから、「教員組織はできるだ けフラットな方がいい(だから、主任制など、「ヒエラルキー的組織」を作ることには徹底的に抵抗する)」という動きを繰り返しているからです。そういう動 きを繰り返しているクセに、「教員は毎日忙しいんだ!」とキレるのだけは一人前。「そりゃ君たちの組織が未熟だからだよ」と言いたくなるだけで、日教組を 中心とした教員組織は、組織としての「効率化努力」を放棄しているようにも見えるのです。前の記事に書いた「サボタージュうんぬん」という言葉は、そうい う文脈で考えて頂けると、よりわかりやすいかと思います。

 日教組とは政治思想的にもかなり私とは噛み合わないのですが、それは学力低下とはいったん分けて、機会があれば別に論じたいと思います。

 

 最後に、学力低下を測る基準について。

>学校教育が「学力低下」を生んでいるというデータをとりだすことは困難であるはずなのだが、「語彙テスト」を用いてのみ議論するのはおかしい。
>OECDのデータが公表されたときもそうですが、数値の端々をとって、社会現象や社会問題、教育問題を単純に説明するのに用いるようなことはおかしい。

>現場が広く調査できないから国立教育政策研究所等が調査をするのでしょう。
>例えば、算数等の少人数制導入においては、質問項目からも都の施策の影響を受けた作為を感じますし、統計上、とうてい優位でない数値さえ有効として説明されています。

 ここは、yoさんの方に混乱を感じます。統計上「有意」でない数値があるのであれば、現場ではその部分だけを捨てて解釈することは十分に可能なは ずです。「現場が広く調査できないから」という立場なのであれば、国立教育政策研究所などの、さまざまな調査機関が行う調査結果を、少なくとも統計上有意 な範囲内においては受け入れるべきだと思います。

 yoさんがそういうことが理解できていないというより、むしろ

>果ては、私等は授業研究の際、指導主事に「「国立教育政策研究所」の説明をみれば、今の算数等の習熟度別少人数制がいかに素晴らしいかわかる!」と断じられ、質問に自ら応えてくれませんでした。
>(そんなもんなんだと、聞いても無駄だと、「またか」と、その場を立ち去るシニカルな教員も数名いた。)

こういう、「現場での『データの採りあげ方』」に大いなる混乱と恣意性を感じてらっしゃっており、そのせいで、マスコミが伝える様々な学力調査に対しても、無意識のうちに斜に構える(失礼)姿勢ができているように感じます。

 だとすると、現場にとっては、これは大いなる損ですよ。

 指導主事もピンキリでしょうから、アホな指導主事は従来通り、適当にあしらっておいて、冷静に学力低下と受け止められるデータに関しては、大いに 現場に生かしていく、という「是々非々」の立場をとるには、現場はあまりにも疲れすぎているのでしょうか。そのあたりがポイントであるように思います。

>私は一人で、学校ではありませんから、自分のおかれた状況を良くしたいのです。
>私は、裏の手を使っても、子どもに学力向上のための方策を講じています。

 このへんは、私塾の人たちとも志を一にしている部分なので、もったいないです。もちろん私塾界にも、テキトーにやってるフリーライダーが一定割合いるにはいますが、彼らはかろうじて少数派です。

  陰山システム(こちらの漢字ですね)などは行き過ぎの感もあるのですが、ある程度公文式のように、「パズルやゲームのように読み書き計算」をとらえていく」というシステムは、全国的には難しいのですかね。

 このシステムの導入を考えると、必然的に小学校でも習熟度別授業を取り入れることにつながりますね(児童によって、少なくとも短期的には吸収率が 異なるでしょうから)。習熟度別授業は、国語・算数については、全国的に導入されつつあるのでしょうか。このあたりも伺いたいです。

 

 総じて、なぜyoさんが世論調査の結果を受け入れたがらないのかがよくわかりました。給料泥棒的な指導主事などがいるわけですね(笑)。それは問題だ。これが頂いたコメントの中での最大の収穫です。

 お手すきな時に、またお答え頂けるとありがたいです。では。


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2 コメント

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なんとか書いてみました (yo)
2005-06-23 22:54:55
>お手すきな時に、またお答え頂けるとありがたいです。では。

いろいろやっている間に新しい情報が飛び込み飛び込みで、文章が大きく変わってしまいました。

いつも時間がかかっての返事になり、恐縮です。

自分のブログへの文章も頓挫していました。



・・・「国語」の時間数確保について・・・



教科「国語」の時間増については一定の共通理解を得たと思います。

そして、そのためには、「総合」の時間を削減するか、週6日制にするかが必要であることも異論はなかったと思います。



>それでも?「日本の学校教育の総時数は平均より少ない」のは、逆に言えば、他国は学校教育の総時数が日本より多い、ということですよね?



週六日と週五日の視点を考える時に、総時数は大切な議論ですものね。



総時間数については、もう少し他の要因もあるようです。

例えば、クラブ・委員会と学級会のような特別活動の時間2時間分は、外国で用いていないことが多いようですし、調査の実数に入れていないところもあるようです。徳育(宗教・道徳)もそうですね。

総時数には無関係ですが、公教育で体育をやらず、民間(個人の習い事)にまかせるところもあるそうです。

ま、以上は比較時の単純な注意点でしょう。

一方、一番効いているのは祝日や長期の休みのような気がします。(国によって違いますものね)



それをさっ引いても、週六日と週五日では差があることが、日本の授業時数の対外国比が少ない直接的な原因だとは思います。





・・・さすがに長文で、一括に扱えなくなってきましたので・・・



さて、「総合」と「学校選択制」については私のブログに具体的な意見・所感を述べさせていただきます。

御覧下さい。



ーーーーーーーーーーーーーー

・・・情報共有について・・・

(引用文略)

>この引用部を読むと、学校教育では、何を目標とするのかが定まっていないせいで、きわめて曖昧な情報共有しか行われていな いことが推測できるのです。

(中略)

>特に、指導ではなく支援をすることで、子どもたちの「何」が「どのように」変わるのかが、単に「思考 力を持つ子供が増える」レベルの、極めて抽象的なもの以上のものになっていないことが問題だと思います。



>学校選択制の是非よりも、前述のについて、教員間でどれだけ具体的に情報共有ができているかを伺いたいです。そちらの方が重要だと思うので。



「抽象的なもの以上になっていない」とおっしゃいますが、それは実際に曖昧で、具体的におりてこない情報だからです。

指導主事は上からの情報としておろすのみです。(字面以上の解釈はあまりないです)

具体化(実践による確認)は現場に丸なげです。



もちろん研究校などでの事前実施はあり、その具体的な成果は書面でみることができます。

しかし、内部的には常識的な話なのですが、研究校におりてくる段階で、すでに研究校では成果を期待されているわけです。

つまり、研究校で失敗はないのです。

(膨大な予算や人員と、無理な時数、そして場合によっては徹夜の連続で無理でも研究に成果をつける努力をする教諭を使いながらも、あたかも余裕でできますという成果をあげるのです。)



そうなると、現場におりてきた時点ではマイナス要因は自分で探るしか無いのです。

総合等はあまりに混乱をきたしたため、文科省は不本意といいながら、後年「国際理解」「情報教育」「福祉」「環境」の4分野を具体的例として示したのです。

そのくらいになって、初めて、指導主事も「「支援」ていうのはこういう実践になるんだよ」と言い出すくらいのタイムラグがあるのです。

質問したって、そうそう使える答えがいつも返ってくるわけではないです。



また、その共有する過程でも教員間では熱が違うのです。

出世街道まっしぐらの人や、なんでも人に押し付けてしまう要領のいい人はどこにでもいます。

ましてや管理職はトップダウン。

「できない」なんて言える状況ではないのですから、情報共有は各学校のレベルや人員の個性に大いに左右されてしまいます。

これは、教員の意識の問題ととれば「教員の資質」問題であるけれども、そういった教員を生み出し続ける必然的な(システマティックな)問題を解消しない限りだめな問題であるととらえる方が、現状の人的資産を生かす有効な方法だと、私には思えます。

企業もネットワークで情報共有して効率化を図ったわけでしょう。

ゴーン社長も首切りや中小企業を切り捨てたけれども、内部において、人材の登用、育成方法、情報交流には気を遣っていたようではないですか。

そして、自分にもストイックな課題を課していたのではないですか。



下の「支援」教育の話題に入る前に、私はこう主張したいのです。

現都教委の体制などは、ネットワークが切れている状況で、情報の共有化を厳正化、適正化しようとしている状況だと思います。

ましてやその責任をとらずに、下の人の対応のせいだけにしようなんておかしな話です。

私たちは、降りてくる事の「是々非々」を判断する(ことを認められている)立場になく、一生懸命になんとかしようとしているのです。

(私はこれを「バカ正直」と呼んでいます。)



>>例えば、

>?>「指導」と「支援」の混乱なんてのは現場で有名なものですが、考えてみて下さい。

>>教師に対して強烈な指導的立場である指導主事から、研究授業をやるたび、「指導」ではなく「支援」をしなさいといわれ続けることを。



>こういう部分でも、学校教員側としては、

> 指導と支援は何がどう違うのか。

> 指導より支援の方が、どういう目的に照らして、なぜ、どのように優れているのか。?

>についての共有ができていないように思えます。



「指導」教師(主体)の指導・指示に基づいた学習活動。

「支援」児童(主体)の学習活動を教師がサポートすること。

のような説明がなされます。

(ちなみに、これ以外に学習をスムースに進める上で、教師側の「学習に対する配慮」と呼ばれている項目も以前から存在しています。)

「支援」型の学習では、児童の主体性を興味・関心・その態度を「支援的声かけ」によって引き出し、学習活動させる場を提供していくということです。

「主体的に活動できる児童を育むことができる」これが「支援」教育の優れている点(売り)だったはずです。

教師は支援者として関わり、学習のねらいを児童から引き出し(この時点で無理でしょう)、学習が効率良く進むような環境をつくることに腐心します。

オープンスペースなどのハード環境もここに生かされています。

が、実際問題、これらを授業の中で厳密に分ける必要等ないことや、「指導」と「支援」、「支援」と「配慮」の混同が生まれることは、指導案を作ってみたり、行った授業を振り返ってみればわかることなのです。

そして、現在では、「指導」「支援」の分け方は恣意的にならざるを得ない状況を生む一方、境界線にあるような文言をさけるようになっています。

また、「支援」型教育が時数上の困難を生みやすいだけでなく、「指導」を排除する傾向を生み出してしまったため、学級崩壊を生み出す要因の一つになっていったことも明らかにされています。

なぜ「学級崩壊」までと言われれば、「児童主体」を目指すが故、言葉かけに「・・・すべきこと」が入らず、児童の学習過程上での単純な迷走を許し、最終的に混乱させてしまっていたからです。

(「指導力不足教員」という言葉はでても、「支援力不足教員」という言葉が見られないのはこういう意味もあるのかと勘ぐっています。)

とにかく、今や「支援」という言葉が指導主事からも使われない傾向に(暗黙の了解)になりつつあり、現場はほっと胸を撫で下ろしているところだと思います。

(この流れの理由は「基礎基本の定着」の一言でしょう。これには「指導」を入れざるを得ないのですから。)



ーーーーーーーーーーーーーー

フラットな組織について



反ばくするわけではないですが、私の個人的な主張も「現状ではフラットな組織(鍋ぶた)がのぞましい」です。

別にピラミッド構造ができてもうまくいくのでしょうが、ステップをもうけても、あまり実用的でないなという感じがします。

あってもいいのですが、複雑かつ雑務の多い副校長(教頭)や校長の仕事のある程度の分掌役となる者を作る前に、他の合理化も必要であるとも思います。



私自身の所感は、指導レベルも実務レベルもこれほど(児童や地域の実態の)波が大きいと、へたに主任になって自分をすり減らすってのは危険過ぎていやだなと思っています。

(ここを「使命感が無い」にすりかえられると困るのです。教職に就くもの全てが出世を目指すためになったわけではないからです。)

それに、単級学年ならまだしも、複級学年が当たり前だとすると、意外に老いも若いも持ちつ持たれつでないと、正直もたないです。

(まあ、単級も学校全体で支えあわないとまずいのですがね。)



長が必要なものだけで、教務、生活指導、研究推進、体育、管理危機の多い分野(理科、視聴覚、コンピュータ)、保健、運動会、学芸会、卒業式、入学式、まだまだあります。

全部に長をつけて、差を付けるだけの意味はないです。(実際には分掌上の責任者はいますが。)

いわゆる三役「教務主任」「生活指導主任」「研究推進主任」を「主幹」にすえたところで、今まで雑務に追われてできなかった「副校長」の仕事を分担するだけで、何か構造的な影響を組織改革にいかせるわけではないと思います。

そこいらへんをどういじくっても、「できない仕事」は「できない」で終わってしまうのです。



さらに言えば、教務の主任なんて激務ですし、ある程度キャリアがあり、人望がある人が輪番的にやってくれないとまわりません。

今さらへたに主幹なんて差をつけるから、あごを出せない人が増えているようにも思えます。

これは大きい負担を生む可能性があるなと感じます。

今、主幹職は、出世、退職以外ドロップアウトの道はないのも変な話です。

?唯一の逃げ道が、「激務であること」と「管理職であること」を理由に、担任学級を選択できることかな。

それだって主幹制度ができる以前からも実質上できたことです。

(あ、ちなみに東京都以外で言えば、教務主任は担任を持たないでもいい自治体もあります。)



話が横にそれましたが、同じ子どもを見ながら、一方で管理職意識を持ちながら同僚に接しなければならないなんて、あまり想像できない世界です。



横道ついでに、以下も付け加えます。

今、職場に「主幹」はいますが、下から見ても、同列で話ができなければ、やはりうまく学校はまわらないと思います。

裏話ですが、今の所属学校では、そう(高圧的に)なるであろう「主幹試験合格者」が、自校で「主幹」にならずに異動して(校長権限で、させられて)行きました。

異動先の学校で、真に指導的信頼を得られるのかは甚だ疑問です。

しかし、「主幹」は教師の評価の一つの結果です。

一を知って百を言っているように聞こえるでしょうが、今の制度はそんなものを支えるぐらいが関の山だと思います。

そんなことで組織改革となるのでしょうか?



学校の組織は「古く」見えるでしょうが、その実績を見ずに「民間なみ」とか「新しく」とかいわれてもみんなピンとこないです。

ましてや、現場に耳を傾けず、変なことばかり押し付けてくる教育委員会には、ほとほと疲れています。

真の合理化は、現場をよく知ってからやってほしいものだと思います。



ーーーーーーーーーーーーーーーー



最後に、学力低下を測る基準について。



>「現場での『データの採りあげ方』」に大いなる混乱と恣意性を感じてらっしゃっており、そのせいで、マスコミが伝える様々な学力調査に対しても、無意識のうちに斜に構える(失礼)姿勢ができているように感じます。



正直、現場においては、世間一般のマスコミが伝える情報程度のものしか理解されていないのです。

私のように様々なデータをネットでたどったり、その評価や、世の趨勢を語る書籍で情報を仕入れたりしている人はあまり出会ってことがありません。

(さすがにネット上で知り合った教師の中には私以上にそのような情報に長けている方もいらっしゃいます。)

私が斜に構え、混乱するのは、私の感じていること(危機感といいかえてもいいかもしれません)、が伝わらないことのためです。

この点では労組関係も同じです。



>ここは、yoさんの方に混乱を感じます。統計上「有意」でない数値があるのであれば、現場ではその部分だけを捨てて解釈することは十分に可能なは ずです。

>「現場が広く調査できないから」という立場なのであれば、国立教育政策研究所などの、さまざまな調査機関が行う調査結果を、少なくとも統計上有意 な範囲内においては受け入れるべきだと思います。



>yoさんがそういうことが理解できていないというより、むしろ



>>果ては、私等は授業研究の際、指導主事に「「国立教育政策研究所」の説明をみれば、今の算数等の習熟度別少人数制がいかに素晴らしいかわかる!」と断じられ、質問に自ら応えてくれませんでした。

>>(そんなもんなんだと、聞いても無駄だと、「またか」と、その場を立ち去るシニカルな教員も数名いた。)



>だとすると、現場にとっては、これは大いなる損ですよ。



>指導主事もピンキリでしょうから、アホな指導主事は従来通り、適当にあしらっておいて、冷静に学力低下と受け止められるデータに関しては、大いに 現場に生かしていく、という「是々非々」の立場をとるには、現場はあまりにも疲れすぎているのでしょうか。そのあたりがポイントであるように思います。



「是々非々」の立場をとるには条件が必要だと思います。

・現場の教育的な活動における独自性、独立性が(もちろん指導要領の範囲内で)認められていること。

・高圧的な態度をもって管理され、是々非々の非の部分についての仕事を積み上げてる義務・必要がないこと。(もちろん、トップダウンに対し、なんでも「非」の態度をとるということではないです。)

「現場にとって大いに損」だから、はやくこういったキテレツな評価主義や、改革先にありきの体制に大いに疑問符を投げ、過去の教育的遺産の再評価をせずに、上を向いていないで下を向いて施策を考えろと教育委員会にはいいたいのです。

現場だけで行動するのはできないシステムですから。

「アホな指導主事を従来通り・・・」といきたいですが、指導主事の肯定したものは、有無を言わさずトップダウンするのです。

校長が拍車をかけ、副校長もあきらめ顔で「しかたないじゃん」と言えば、主幹は「耳を傾けなければダメ」とくるのです。



最後に「・現場の声を伝える場が設けられ、情報を(すぐに実践できるくらいに)十分に共有する機会が与えられていること。」が是々非々の立場を生むのでしょう。



>>私は一人で、学校ではありませんから、自分のおかれた状況を良くしたいのです。

>>私は、裏の手を使っても、子どもに学力向上のための方策を講じています。



>このへんは、私塾の人たちとも志を一にしている部分なので、もったいないです。もちろん私塾界にも、テキトーにやってるフリーライダーが一定割合いるにはいますが、彼らはかろうじて少数派です。



>陰山システム(こちらの漢字ですね)などは行き過ぎの感もあるのですが、ある程度公文式のように、「パズルやゲームのように読み書き計算」をとらえていく」というシステムは、全国的には難しいのですかね。



>このシステムの導入を考えると、必然的に小学校でも習熟度別授業を取り入れることにつながりますね(児童によって、少なくとも短期的には吸収率が 異なるでしょうから)。習熟度別授業は、国語・算数については、全国的に導入されつつあるのでしょうか。このあたりも伺いたいです。



苅屋(東大)等が定義している「学力」=「ドリルチックなもので取得可能」となればその通りです。

また、東京と各地で丸なげされ、導入を強いられて仕方なく研究がされている「習熟度別学習」は、成果を含みながらも、やはり、習熟度が低レベルの子どもに対しては教え込みを強いる形を取らざるを得ず、本格的な個人対応には直結はしていません。

東京都は、30人学級過配傾向の他府県とは異なり、「少人数制」とセットで「習熟度別」がなされ、学習のみの対応であることのバランスの悪さも目立っています。

特に、家庭環境、地域環境などの影響、その他の理由で、学習活動に支障を来す傾向のある子どもに対しては、非常に酷な状況を生み出しています。

「上に厚く、下に薄い対応」とか、「エリート教育による不平等」とかいわれても仕方が無い側面を確かに抱えています。

ましてや、目の行き届かないと困る低学年の時期に、週に4時間もの専科授業を強いるのは、学級担任制の危機も生み出していると思います。

膨大な児童共通理解が必要であり、それに伴う時間は確保されないどころか、現状は削られる傾向になるのだから、どこも打ち合わせの時間に苦慮している声をあげています。

先鋭的な研究校にその点に関して質問すると、学校カリキュラム全体に関わっての時数改革や、少人数習熟度別学習への大々的な移行、実質(しょうがないので)会議増を提案してきます。



もし「学力」=「多面的な学びの成果」とするならば、習熟度別だけで解決できる問題は限定的になります。

(今、算数のカリキュラム全てを「少人数習熟度別」に変更する研究がなされているのですが・・・)

よく言われる4観点の評価「関心・意欲・態度」「技能」「思考」「知識」で考えるときにでさえ、それぞれの有機的な結びつきは話題になります。



陰山システムも、陰山氏自身、その点を意識して語られていると思います。(著作は近作以外は読んでいます)

「百ます計算」自体は岸本氏が小6の子どもが考えた物を利用した実践です。

一つの方法でしかないものがこれまで有名になったのは、それをきっかけに、組織的に地域ぐるみの学校改善に取り組めたからだと私は考えています。

田舎の学校だからできたことであるとも思います。



今、学校は上からの施策に悩まされています。

百ますのような取り組みを認める前に、「支援教育」しなさい、「少人数」を形にしなさい言ってきます。

バカ正直に答えるシステムが出来上がっているのが公立学校です。

東京都のような大都会が足周りの悪さを払拭することこそが組織の改善につながると思うのですが、いかがでしょうか。

そのきっかけができるのならば、学校選択制にする意義もあるかに思えます。

「総合」を丸なげにすることも意義があるかもしれません。

でも、繰り返しますが、公立ですが、狭量の独自性や独立性も今は認められていないのです。

「是々非々」ではなく、体育会系なのです。

「右向け左」でもやるのです。

品川の学校選択制の例では、やはり、東京都に区教委は逆らえていないではないですか。

私には、学校の有効な選択がなされているようにも見えません。



>総じて、なぜyoさんが世論調査の結果を受け入れたがらないのかがよくわかりました。

>給料泥棒的な指導主事などがいるわけですね(笑)。それは問題だ。これが頂いたコメントの中での最大の収穫です。



補足というか、援護もさせて下さい。

私の前任校の自治体では、5年間で指導主事が3人死んでいます。

過労死やそれに類する死に方です。

極端な例ですし、自治体にもよるのでしょうが、指導主事は校長以上のちょー激務であることを付け加えておきます。

指導主事は「教育委員会」に所属していますが、「教育委員」の人選によっては、指導主事になんのサポートも無い場合もあるのではないかなと疑ってしまう事例にも出くわしています。
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お返事が遅れまして・・・ (白河)
2005-07-01 06:28:02
コメントありがとうございました。

また稿を改めて意見を書かせて頂きます。

m(_ _)m
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