双葉町から避難していた叔母が急死した。
脳梗塞だった。
叔母の避難先のアパートは、うちの近所だった。
倒れる数日前、クリニックの母の外来に来た。
血圧も高からず低からず、元気だった。
顔のシワ伸ばしの工夫してるんだ、なんて雑談を看護師としていたそうだ。
若い頃は美人な叔母だったから、年齢を経てもお洒落心を忘れていなかったのか、
あるいは、今の暮らしの中で、少しでも身綺麗にすることを心がけることで、
気持ちを前向きに保とうとしていたのか・・・、今となってはわからない。
私は、その日叔母が来ていたのは知りつつも、
自分の患者さんの診察に忙しく、挨拶をしないままだった・・・。
被災地から避難してきて亡くなった親戚は、叔母で3人目だ・・・。
叔母は、津島の実家から双葉町の旧家に嫁ぎ、種々の理由で夫と離別、
女手ひとつで嫁ぎ先の旧家を支え、二人の子どもを育て上げた。
旧家とはいえ、その後の暮らし向きは困難だったそうだ。
孫も結婚し、ひ孫も産まれた。
80歳もいくつか過ぎ、これから本当に自分だけのことを考えればいいという時に、
3月11日を迎えた。
叔母の菩提寺の住職さんは首都圏に避難しておられ、すぐにはおいでになれないとのこと。
同じ宗派の福島のお寺さんに連絡を取っていただき、こちらで葬儀を執り行うことになった。
参列した親戚・知人には、同じく避難してきている人たちも多い。
福島のお寺の住職さんの言葉には、心を打たれた。
はじめに、原発事故で思わぬ避難生活をされてきた故人や遺族へのねぎらいの言葉があった。
そして、このようにおっしゃった。
昭和20年8月15日を境に、日本の国の価値観が変わった。
この時期に、故人は丁度多感な年頃だった。
この時代の女性は、黙々と困難を耐え忍び、家庭を支えてきた。
戦後の復興は、この時代の女性の無言の支えがあってこそとも言える。
故人も、まさにこのような時代を生き抜いてこられた方なのだと思う・・。
そして住職さんは、こう言葉を続けた。
皆さん、お葬式を出せる幸せ、ということを考えたことがありますか?
・・・と。
わたしは、住まいとか、菩提寺とか、金銭的なことかな、と思って聴いていた。
でも、そういう意味ではなかった。
住職さんの講話は続いた。
避難してきた方の葬儀を菩提寺の代わりに執り行うのは、叔母で5人目だそうだ。
ボランティアで、被災地のご遺体の火葬に立ち会ったりもしたそうだ。
そこでは、身元不明のご遺体もまだまだ多いという。
それらのご遺体は、火葬後に役場に仮安置され、いずれDNA鑑定ができるようにしてあるとのこと。
身元がわからないご遺体は、正式に葬儀もできないのだそうだ。
このような事態にあうまで自分も、葬儀代がないなどの理由ではなく「葬儀もできない」
ということを考えたことがなかった、と住職さんはおっしゃった。
(震災や原発事故のことは本当に不幸な出来事だけれども)
こうして家族や親戚知人に見送られる、それは故人にとって幸せなことなのだと思います。
それまでうつむいて講話を聴いていたけれど、はっとしてわたしは顔を上げた。
そうなんだ・・。
「身元不明者」ではない叔母は、幸せな最期だったのだと思って見送るのが、残された者の務めだ。
そう思うしかない・・・。
住職さんの言葉のはしはしには、避難してきて亡くなった叔母のような立場の人たちだけではなく、
いまだ、身元不明のお骨になって仮安置されたままでいる方々や、
行方のわからない身内がいるであろうご家族の方々への、僧侶としての深い憐憫の情を感じた。
数日前、九州の玄海原発が再稼働した。
原爆による唯一の被爆をうけたこの国で、原発事故が起きた。
そしてそれは、まだ収束していない。
宮城や岩手の被災地とは異なり、身元不明者どころか、捜索さえもされないままの方々も、いるのだ。
原発事故による一般市民の健康被害は、おそらく出ないだろうとは、思う。
でも、それとこれとは、全く別の次元だ。
叔母のような家族は、おそらくたくさんいる。
この夏の猛暑で、電力消費が危ぶまれたけれど、何とかなったではないか。
この国に、この狭い国土に、本当に原発は必要なの?
この後に及んでもなお、原発を必要と「しようと」している、それが理解できない。
さらに、もっと許せないことがある。
声高に「原発反対」を叫ぶ一部の団体は、こともあろうに、
福島の子どもの「模擬葬列」なるものを行ったそうな。
ふざけるな。
人の「生き死に」をデモなんかで再現するな。
模擬葬列に参加した僧侶の方々は、被災地でボランティアをしたらいい。
「葬式ごっこ」で「反原発」を訴えるぐらいなら、
ランプでも何でもいいから電力を極力使わない生活法のアピールでもしてくれ。
国民全員が節電を心がけ、電力消費を押さえることが、原発撤廃の近道じゃないの?
まったくもって、やりきれない。
悔しい。
脳梗塞だった。
叔母の避難先のアパートは、うちの近所だった。
倒れる数日前、クリニックの母の外来に来た。
血圧も高からず低からず、元気だった。
顔のシワ伸ばしの工夫してるんだ、なんて雑談を看護師としていたそうだ。
若い頃は美人な叔母だったから、年齢を経てもお洒落心を忘れていなかったのか、
あるいは、今の暮らしの中で、少しでも身綺麗にすることを心がけることで、
気持ちを前向きに保とうとしていたのか・・・、今となってはわからない。
私は、その日叔母が来ていたのは知りつつも、
自分の患者さんの診察に忙しく、挨拶をしないままだった・・・。
被災地から避難してきて亡くなった親戚は、叔母で3人目だ・・・。
叔母は、津島の実家から双葉町の旧家に嫁ぎ、種々の理由で夫と離別、
女手ひとつで嫁ぎ先の旧家を支え、二人の子どもを育て上げた。
旧家とはいえ、その後の暮らし向きは困難だったそうだ。
孫も結婚し、ひ孫も産まれた。
80歳もいくつか過ぎ、これから本当に自分だけのことを考えればいいという時に、
3月11日を迎えた。
叔母の菩提寺の住職さんは首都圏に避難しておられ、すぐにはおいでになれないとのこと。
同じ宗派の福島のお寺さんに連絡を取っていただき、こちらで葬儀を執り行うことになった。
参列した親戚・知人には、同じく避難してきている人たちも多い。
福島のお寺の住職さんの言葉には、心を打たれた。
はじめに、原発事故で思わぬ避難生活をされてきた故人や遺族へのねぎらいの言葉があった。
そして、このようにおっしゃった。
昭和20年8月15日を境に、日本の国の価値観が変わった。
この時期に、故人は丁度多感な年頃だった。
この時代の女性は、黙々と困難を耐え忍び、家庭を支えてきた。
戦後の復興は、この時代の女性の無言の支えがあってこそとも言える。
故人も、まさにこのような時代を生き抜いてこられた方なのだと思う・・。
そして住職さんは、こう言葉を続けた。
皆さん、お葬式を出せる幸せ、ということを考えたことがありますか?
・・・と。
わたしは、住まいとか、菩提寺とか、金銭的なことかな、と思って聴いていた。
でも、そういう意味ではなかった。
住職さんの講話は続いた。
避難してきた方の葬儀を菩提寺の代わりに執り行うのは、叔母で5人目だそうだ。
ボランティアで、被災地のご遺体の火葬に立ち会ったりもしたそうだ。
そこでは、身元不明のご遺体もまだまだ多いという。
それらのご遺体は、火葬後に役場に仮安置され、いずれDNA鑑定ができるようにしてあるとのこと。
身元がわからないご遺体は、正式に葬儀もできないのだそうだ。
このような事態にあうまで自分も、葬儀代がないなどの理由ではなく「葬儀もできない」
ということを考えたことがなかった、と住職さんはおっしゃった。
(震災や原発事故のことは本当に不幸な出来事だけれども)
こうして家族や親戚知人に見送られる、それは故人にとって幸せなことなのだと思います。
それまでうつむいて講話を聴いていたけれど、はっとしてわたしは顔を上げた。
そうなんだ・・。
「身元不明者」ではない叔母は、幸せな最期だったのだと思って見送るのが、残された者の務めだ。
そう思うしかない・・・。
住職さんの言葉のはしはしには、避難してきて亡くなった叔母のような立場の人たちだけではなく、
いまだ、身元不明のお骨になって仮安置されたままでいる方々や、
行方のわからない身内がいるであろうご家族の方々への、僧侶としての深い憐憫の情を感じた。
数日前、九州の玄海原発が再稼働した。
原爆による唯一の被爆をうけたこの国で、原発事故が起きた。
そしてそれは、まだ収束していない。
宮城や岩手の被災地とは異なり、身元不明者どころか、捜索さえもされないままの方々も、いるのだ。
原発事故による一般市民の健康被害は、おそらく出ないだろうとは、思う。
でも、それとこれとは、全く別の次元だ。
叔母のような家族は、おそらくたくさんいる。
この夏の猛暑で、電力消費が危ぶまれたけれど、何とかなったではないか。
この国に、この狭い国土に、本当に原発は必要なの?
この後に及んでもなお、原発を必要と「しようと」している、それが理解できない。
さらに、もっと許せないことがある。
声高に「原発反対」を叫ぶ一部の団体は、こともあろうに、
福島の子どもの「模擬葬列」なるものを行ったそうな。
ふざけるな。
人の「生き死に」をデモなんかで再現するな。
模擬葬列に参加した僧侶の方々は、被災地でボランティアをしたらいい。
「葬式ごっこ」で「反原発」を訴えるぐらいなら、
ランプでも何でもいいから電力を極力使わない生活法のアピールでもしてくれ。
国民全員が節電を心がけ、電力消費を押さえることが、原発撤廃の近道じゃないの?
まったくもって、やりきれない。
悔しい。