ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

恩師のこと(1)

2009年08月09日 | 日々のつぶやき
日頃わたしが恩師と尊敬する方々はたくさんいます。
怠け者のわたしにとっては、
これまで出会った諸先輩方の全てが恩師と言っても過言ではありません。

でも、あえてしぼるとすれば3人。

そのうちのひとりめは、
小学校の担任、K先生です。

わたしが小学1年の途中から小学6年の秋まで通った小学校は、1学年わずか13人。
全校生徒が80人そこそこの、ちいさな学校でした。
母の診療所開業に伴い、1年生の1学期の終わりにそこに転校しました。
ダム建設に伴い廃校になり、今はもう、校庭も湖底に沈んでいます。
  (コウテイもコテイに・・おやじギャグじゃないけど σ(^◇^;) )
当時、街から転校してきたということで、上級生の男の子にはいじめられました。
でも、そんなことでひるむわたしではありません。
大人への人見知りは強かったけど、子ども同士では活発でした。
運動はできなかったけど、勉強はできたし、村では誰も習ってないピアノも弾けたので、
当時の担任の先生からは贔屓された記憶があります。
村の人たちも、診療所の一人娘ということで、特別扱いだったと思います。
子どもって、こういう時、残酷なほど得意になります。
 
当時のわたしは、わがままお嬢といってもいい振る舞いだったと思います。

K先生は、3年生の時に赴任してきて5年生までの3年間を受け持っていただきました。
大学出たてで、新任の挨拶の時にはまだ学生服を着ておられました。
先生は、新学期で学級委員長を選ぶ時に、
「成績などではなく、みんなが好きな人を選んで下さい」
とおっしゃいました。
その当時は、慣習的に、勉強の出来る子が学級委員長に選ばれるのが普通だったのです。
今は学級委員長になりたい子どもなんてあまりいないかも知れませんが、
当時は、選ばれることは子ども社会でも名誉なことだったのです。
それまでの学級委員は、わたしか、もうひとりの勉強の出来る子のどちらかでした。
でも、K先生の提案でみんなが選んだのは、わたしではありませんでした。
その後6年生で他の学校に再度転校するまで、わたしが選ばれることはありませんでした。

小学校4年生のある放課後、女の子数名が残って、K先生の手伝いをしていました。
先生は、宿題や自主勉強の採点をなさっていたと思います。
ある生徒が、他の子よりもたくさん課題をやってきていたのを、先生が賞めました。
その子は普段はあまり勉強ができる子ではありませんでした。
わたしは、
「でも○○くんは、その割に勉強はできないよねぇ。」
何気なくこう言ってしまったのです。
先生が賞めたから悔しくてでも何でもなく、つい思ったことを言ってしまったのです。
先生はそれには答えず、すぐにほかの話題にうつりました。
一緒にいた女の子たちも、聞いていたのかいなかったのか、そのことには触れませんでした。

それから数日後の道徳の時間。
人としての大事なこと、などのお話だったと思います。

人として大切なことは、勉強ができるとか、1等賞とか、そんなことではありません。
一生懸命努力すること、頑張ること、思いやる心をもつことが、とても大切なことです。
一生懸命頑張っているともだちを馬鹿にする人は、先生は嫌いです。

こうおっしゃったのです。

わたしは、はっ としました。
先生は、数日前のわたしのことをおっしゃっているのだ。
生まれて初めて、人として自分がどんなに恥ずかしい奴だったかを知った瞬間でした。

その年のある雪の降る夜。
わたしは家庭内のいろいろなことで、いたたまれなくなって、家出をしました。
自分なんか、生まれてこなけりゃ良かったんだ・・・。
子ども心に、寒さにこごえて死んでしまってもいいと思っていました。
といっても子どものこと、遠くに行けるはずもありません。
幸か不幸か、たまたまその晩の当直はK先生でした。
親が学校に連絡したのでしょう、雪の畑の中をうろうろしていたわたしは、
あっけなくK先生に見つかってしまいました。
先生は当直室でしばらくわたしを預かり、ココアを飲ませて下さいました。

「どうしで家出したのかな?」

ずっとそっぽを向いて黙ったままのわたしに、
叱るでもなく、問い詰めるでもなく、世間話のような口調で、K先生が尋ねました。
わたしはついに、それまでのいろいろな自分の思いを、泣きながら話しました。
わたしの両親は、仲が悪かったのです。
 
黙ってわたしの話を聴いていたK先生は、ぽつりとこうおっしゃいました。
「ひまわりちゃんは、ほんとうはやさしいんだね・・・。」

  やさしい ?
  わたしが ?

それまで、わがままだとか、内弁慶だとか、可愛げがないとか、一人娘だからとか、
親からも誰からも、何かが上手にできたこと以外は否定されたことしかないわたしにとって、
これも初めてのことでした。

その夜遅くに、わたしはK先生に送られて家に帰りました。
翌日は、何事もなかったようにいつも通りにK先生は授業をなさいました。
放課後に残されて再び話を聴き出すでもなく、本当に何事もなかったかのように。
これは、わたしにとってもありがたいことでした。

その後、転校するまで、女の子同士の小さないじめはあったけれど、
13人のクラスメートがともかくも仲良く過ごせたのは、K先生のおかげです。
山の中のあの小さな小学校での暮らしは、わたしの原点ともいえます。

小児科医になって、お子さんたちの心の問題に触れることがあるたびに、
あの雪の降る夜に家出をしたこと、
そして、K先生の言葉と、温かいココアの記憶がよみがえります。

家庭にも学校にも居場所がないような気持ちになっても、
たったひとりでも理解者がいれば、子どもは生きていけるのだと思います。