私は太宰治が死んで深く悲しんだ5人の人々のことを考えています。
井伏鱒二と、兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そしてもちろん妻の美知子と3人の子供、愛人の太田静子と子供のことです。
昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について書いています。
・・・・少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう。・・・
太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んでくれ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのが井伏鱒二だったのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
大学を退学になり行きづまった太宰を郷里へ連れ帰ろうとした兄の文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。それは太宰にしばしの幸せな家庭生活を経験させたのです。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
以下はその太宰の遺書です。
======妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」
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末尾の・・・井伏さんは悪人です。・・・というくだりに太宰の屈折した性格が表れています。これはさんざんお世話になった井伏鱒二へ甘えた最後の態度です。こんな形でしか井伏さんへの感謝の気持ちが伝えられなかった太宰の性格を、私は悲しく思います。
ついでに一緒に心中した山崎富栄の遺書を示します。
======富栄の公式遺書============
「私ばかり幸せな死にかたをしてすみません。
奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずに
すんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
奥名(※4年前に戦場で行方不明。新婚生活は12日間しかなかった)と少し長い生活ができて、愛情でも増えてきましたらこんな結果ともならずに
すんだかもわかりません。
山崎の姓に返ってから(※まだ奥名籍だった)死にたいと願っていましたが・・・
骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。
太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話しを伺っております時に私の心にピンピン触れるものがありました。
奥名以上の愛情を感じてしまいました。
御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。
あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。
愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。
せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこまでも歩みとうございますもの。
ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。」
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帯で固く結び合わさった二人の遺体が見つかったのは6日後でした。
太宰治の遺体はすぐに白木の棺へ入れて運び去られましたが、山崎富栄の遺体は父が駆けつける夕方まで玉川上水の堤に上に蓆をかけて放置されたままです。遺体を見下ろしながら父は長い間絶句していたといいます。
以下に関連の写真をしめします。
勿論、「山椒魚」は名作ですが、趣味の渓流釣りに関する随筆を、私は好きです。
上の写真は太宰のことでも思い出したのか、何か悲しそうにしています。
この続きは明日掲載する予定です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)