人生にはいろいろ悲しい出来事が起きるものです。例えば何十年と付き合ってきた近所の酒屋さんが廃業した時はショックを受けました。悲しい出来事でした。新婚以来、ずうっと花々を買って来た花栽培の店が突然、倒産しことも悲しい出来事でした。
そしてよく行った利根川上流の坂東簗が6年前に廃業した時もショックを受けました。あれから随分たちましたが坂東簗のことは忘れられません。
そこで今日は利根川上流の坂東簗にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
毎年、今頃になると坂東簗から、「今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しください」と案内状が来ていました。それが2015年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできた坂東簗が無くなるのです。悲しい出来事です。
簗で捕った鮎を見晴らしの良い川岸で食べるのは毎年の我が家の楽しい年中行事でした。それが消えてなくなるのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。
鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
この坂東簗が営業を止める理由はいろいろな事情があるのでしょうが、何と言っても近年、鮎そのものが不味くなり客足が途絶えがちなったためです。
美味しい鮎は果物のスイカのような高貴な香りがして、食べると適度に油ものっていて意外に芳醇な味がするのです。
その香りと味は鮎が川石に生えている苔を食べているからだと言われています。そのスイカのような香りのする苔が川の生態変化で無くなってしまったと言われています。
そして安価な養殖鮎がスーパーに並んでいます。坂東簗でも釣り師が持ち込む天然鮎を使っていたようですが、その天然鮎が不味くなってはどうしようもなかったのでしょう。数が足りなくて養殖物を使っていたのかもしれません。
私の家内が鮎が特に好きだったので毎年のように坂東簗に通いました。娘夫婦、息子夫婦孫と一緒に楽しんだものでした。しかし鮎の味が不味くなる一方で、客の数も減ってきました。
ある時、店のなかを見物してまわりました。料理場の外の廊下に古い写真が沢山飾ってあります。明治、大正時代に前橋の金持ちが人力車で乗り付けています。それには芸者さんの乗った人力車も続いているのです。栄枯盛衰は世のならいという言葉を思い出します。
鮎料理の衰退は、鮎が不味くなっただけが原因ではありません。街々に美味しい手軽なレストランや寿司の店が展開し、イタリアンでも中華でも何でも簡単に楽しめるようになったのも一つの大きな原因になっているのです。人々の食の好みが鮎や鯉などの川魚料理だけでなく多様になったのです。
坂東簗も店仕舞いしましたので、自分で撮った写真を掲載し、群馬県地方の一つの食文化の記録を残したいと思います。
1番目の写真は坂東簗です。関越高速道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。
2番目の写真は鮎の焼き場の写真です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。
鮎料理は塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。
3番目の写真は坂東簗の客席から見える利根川の川岸の風景です。客席に座ると木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。
4番目の写真は鮎を取る簗です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時間があります。写真のような簗に降りて水流を眺めます。簗の先端には時々、鮎の小さなものやハヤが上がってきます。拾って備え付けの木箱に入れて生かしておきます。子供が自由に持ち帰って良いのです。簗から上がってくると塩焼きが来ます。熱いうちに中骨を抜いて食べます。
5番目の写真は家内が鮎を食べているところです。昔、幼少の頃、多摩川の天然鮎を沢山食べたことを思い出すそうです。
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう無くなってしまったのです。
群馬県地方の一つの食文化の終焉です。群馬県の夏の風物詩が一つなくなったのです。ささやかながら記録を残したいと思います。
考えてみると日本の地方には特色ある食文化がありました。しかし時代とともに消えて行く運命にあるのではないでしょうか。淋しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そしてよく行った利根川上流の坂東簗が6年前に廃業した時もショックを受けました。あれから随分たちましたが坂東簗のことは忘れられません。
そこで今日は利根川上流の坂東簗にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
毎年、今頃になると坂東簗から、「今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しください」と案内状が来ていました。それが2015年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできた坂東簗が無くなるのです。悲しい出来事です。
簗で捕った鮎を見晴らしの良い川岸で食べるのは毎年の我が家の楽しい年中行事でした。それが消えてなくなるのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。
鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
この坂東簗が営業を止める理由はいろいろな事情があるのでしょうが、何と言っても近年、鮎そのものが不味くなり客足が途絶えがちなったためです。
美味しい鮎は果物のスイカのような高貴な香りがして、食べると適度に油ものっていて意外に芳醇な味がするのです。
その香りと味は鮎が川石に生えている苔を食べているからだと言われています。そのスイカのような香りのする苔が川の生態変化で無くなってしまったと言われています。
そして安価な養殖鮎がスーパーに並んでいます。坂東簗でも釣り師が持ち込む天然鮎を使っていたようですが、その天然鮎が不味くなってはどうしようもなかったのでしょう。数が足りなくて養殖物を使っていたのかもしれません。
私の家内が鮎が特に好きだったので毎年のように坂東簗に通いました。娘夫婦、息子夫婦孫と一緒に楽しんだものでした。しかし鮎の味が不味くなる一方で、客の数も減ってきました。
ある時、店のなかを見物してまわりました。料理場の外の廊下に古い写真が沢山飾ってあります。明治、大正時代に前橋の金持ちが人力車で乗り付けています。それには芸者さんの乗った人力車も続いているのです。栄枯盛衰は世のならいという言葉を思い出します。
鮎料理の衰退は、鮎が不味くなっただけが原因ではありません。街々に美味しい手軽なレストランや寿司の店が展開し、イタリアンでも中華でも何でも簡単に楽しめるようになったのも一つの大きな原因になっているのです。人々の食の好みが鮎や鯉などの川魚料理だけでなく多様になったのです。
坂東簗も店仕舞いしましたので、自分で撮った写真を掲載し、群馬県地方の一つの食文化の記録を残したいと思います。
1番目の写真は坂東簗です。関越高速道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。
2番目の写真は鮎の焼き場の写真です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。
鮎料理は塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。
3番目の写真は坂東簗の客席から見える利根川の川岸の風景です。客席に座ると木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。
4番目の写真は鮎を取る簗です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時間があります。写真のような簗に降りて水流を眺めます。簗の先端には時々、鮎の小さなものやハヤが上がってきます。拾って備え付けの木箱に入れて生かしておきます。子供が自由に持ち帰って良いのです。簗から上がってくると塩焼きが来ます。熱いうちに中骨を抜いて食べます。
5番目の写真は家内が鮎を食べているところです。昔、幼少の頃、多摩川の天然鮎を沢山食べたことを思い出すそうです。
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう無くなってしまったのです。
群馬県地方の一つの食文化の終焉です。群馬県の夏の風物詩が一つなくなったのです。ささやかながら記録を残したいと思います。
考えてみると日本の地方には特色ある食文化がありました。しかし時代とともに消えて行く運命にあるのではないでしょうか。淋しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)