後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールと日本人女性との恋物語」

2021年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンは1529年以来約300年間スペインの植民地でした。そして1901年にアメリカの植民地になったのです。1941年の日本軍の占領を経て完全な独立国になったのは第二次世界大戦後でした。
まずこのフィリピンの美しい風景写真を2枚ご覧下さい。
1番目の写真は美しいフィリピンの島の浜辺の風景です。

2番目の写真は首都マニラの高層ビル群です。
この美しい国がスペインやアメリカの植民地だった時代に数多くの独立運動が起きました。
その紆余曲折、複雑な独立運動の中で有名になったのがホセ・リサールでした。彼はフィリピン独立の国民的英雄です。現在ホセ・リサールの銅像はフィリピンの国中に建っています。
1861年生まれのホセ・リサールはフィリピンの革命家として独立運動をしました。しかし1896年スペイン官憲に逮捕されます。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月に銃殺刑になりました。リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺されたのです。
ホセ・リサールの死後フィリピンでは多くの独立運動や独立戦争が続きます。こうしてホセ・リサールはフィリピン独立の国民的英雄になったのです。
彼が1888年に日本を訪問します。その時偶然出会った臼井勢似子(1866-1947)と激しい恋をします。その経緯は以下の通りです。
(https://www.tecdia.com/jp/jobs/blog/?p=322 )
ホセ・リサールは1888年2月28日に横浜に到着しました。そして日比谷公園に当時あった東京ホテルに2か月間滞在します
この時出会ったのが元旗本で貿易商の娘、臼井勢似子だったのです。
勢似子とリサールは激しい恋に落ちます。二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留したのです。時にホセ27歳、勢似子22歳でした。
リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったためフィリプンでは誰も知らなかったのです。没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見されます。
日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていたのです。 勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る物もほとんど無くなりました。
3番目の写真はホセ・リサールです。
4番目の写真は臼井勢似子です。
この恋の後、ホセ・リサールは1896年マニラで銃殺されます。
リサールの死は日本でも多く報道さました。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚します。彼女は1947年(昭和22年)に80歳で亡くなります。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子とアルフレッドの墓があり毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられているそうです。
5番目の写真は現在日比谷公園にあるホセ・リサールの銅像です。

今日はフィリピン独立の国民的英雄ホセ・リサールと日本人女性、臼井勢似子との恋物語をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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