スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(学者の限界)

2019-06-21 14:41:30 | 日記
6月21日(金)
 興味を持って続けてきた日本史のカルチャーセンターを一つ止めた。田遊びとか満願上人の実像とか、恐らく普通の日本史の授業では語られない生の歴史事実ともいう話が聞けて大変面白かったのだが、先生が時折語る左翼思想に愛想が尽きたのと、私のような初学者はやはりもっと概説的な話で例えば日本人の宗教意識とかの、ぼんやりでも全体像をつかみたいとの、思いがしてきたからだ。
 先生の左翼思想であるが、今は少し違うようだが、昔は仲間内で「天皇制反対」と言わなければ生きてゆけない雰囲気のものであったそうだ。親が創価学会員だから自分も自然とそうなったという人を知っているが、先生の左翼思想の発端はそんなものだったと思う。そこに学者という社会人としての限定的な生活を続けて、部分的だけの「正しい」知見が塗り重ねられていって、世の中を歪んで捉えるようになったのであろう。
 例えば先生は昭和36年の生まれらしいが、昭和36年などという年はないと言うのだ。つまり当時元号法がないから、その当時には昭和という年は正式にはないとの論だ。典型的な学者馬鹿というか学者の限界を示す見解だ。私も彼が真面目に言っているとは思わないが半分本気であろう。学者は観念は現実よりも小さいという真理を無視したがる。そしてそのうち、構築された観念が現実だと逆転させる。構築された観念なら良く知っているが現実は何も知らないから、人は知っている方に馴染むものだ。
 先生の観念は、戦前日本が分をわきまえず肥大化に走ったから、国を誤ったというものである。その点戦後の日本はじっと縮こまって良い時代だった。だからこれからも日本は小日本国で行けば良い、安倍は戦前に帰りたがっていると非難するのである。こういう人は本当に現実に無知だと思う。小日本にしても、彼らが思い描くのは、近代化した姿の日本であろう。まさか江戸時代の日本ではあるまい。ではひとたび近代化の方向を取ったなら、それを発展させずに、居られるものなのだろうか。小日本のままでいようとしたら、決して小日本は維持できず、貧か植民地日本になるのが落ちだろう。出発点が定まったらその後の軌跡も決まるのだ、途中で都合よく変えられたりするものではない、そこがどうしても分からないのだろう。何故分からないのか、学者の世界に閉じこもって世の中を知らないからである。
 

スケッチブック30(国立民主の大嘘)

2019-06-16 14:38:13 | 日記
6月16日(日)
 国立民主が揃って長子を皇位継承順位一位にする選挙公約を発表した。皇位の安定的継承の為とおためごかしを言うが、それは全くの嘘である。男系でも女系でもなく「愛子内親王家」という極めて限定された人々だけに皇位を継承させる、つまりは天皇位を絶滅危惧種にせんとする、大陰謀である。
 仮に数代経って愛子内親王の御子孫が絶えたとする。その時他家の誰が天皇になれるというのだ。愛子内親王の子孫という権威で天皇になってきたのだ。今までは男系にしろ女系にしろ(仮に女系になったとしてだが)誰かの天皇の血筋であることが、天皇になれる資格であった。ところが国立民主の通りにしたら、愛子内親王の血筋でなければ天皇になれないことになってしまうのだ。つまり天皇一族という広い血筋の広がりを、愛子内親王一点に絞ってしまうのだ。
 国民は良く考えなければいけない。
 天皇は普通の家とは違うのだ。我々が目にする何々家とは違わなければならないと、認識しなければいけない。我々が目にする何々家などでは、決して象徴にはなり得ない。せいぜい金持ちの隣人というだけである。そんなものは時代が変われば没落するし、家の存続の為には養子を取る。住友は西園寺公望の弟を当主にした。住友家はそれで繁栄したであろうが、日本国民の象徴にはなり得ないだろう。
 象徴とは神の一種であり、それは普通人、普通の家とは、違うのだ。
 こういう存在を潰したい人間は確かにいる。共産主義者がそうである。彼らは労働者(とはいえ実際は自分達幹部なのだが)が全てを決定する社会を理想としている。天皇など真っ先に潰したいであろう。そしてすべての宗教も。
 天皇制が良いか共産制が良いか、そしてその第一歩である天皇制の廃止が良いかどうか、よく考えるべきである。歴史を見れば共産主義国家のページは死屍累々である。そして潰れたか上手く行っていない。もっともらしい理論とか理屈は、現実の多くを切り捨てて残った都合の良い部分だけを継ぎ合わせることで、成立する。だから物事は全て理論通りにはゆかない。しかし歴史として残されたものは、本当に生起した現実である。だから中国は天安門事件を隠さなければならない。
 歴史をよく見て、天皇制が良いか、共産制が良いか、考えるべきである。
 

スケッチブック30(女系天皇?)

2019-06-14 16:28:08 | 日記
6月14日(金)
 女系天皇というが本当にそうなのだろうか。もし愛子内親王が通常人と結婚して男子を産んで、その子が天皇となるとしたら、その根拠は愛子内親王の血を引くからということであり、これは女系と言って良い。しかし次にその天皇が通常人の女性と結婚して女の子を産んで、その子が天皇になるとしたらどういう根拠に依るのだろうか。父親が愛子内親王の血を引くからということになろうが、形としてはここで男系に代わる。
 更にその女性天皇が通常人の男と結婚してその子が天皇になれば、今度はまた女系に代わったことになる。
 つまり今言われている女系天皇とは、これからは女系でずっと行くということではない。男系も女系もなく、現行の天皇家の当主だけを天皇にするということなのである。今上陛下の家族が女性男性に関係なく天皇位を継いでゆくということは、それ以外の系統、例えば秋篠宮家などは、天皇が出せないということになる。
 今言われている女系天皇論は、皇位継承者を安定させると表面的には言っているが実は、将来の天皇候補者を、今上陛下の子孫だけという狭い範囲に限ってしまうという、狙いのものなのである。そうなると万一御子孫が絶えた場合どうなるか。断絶するか養子を取るかしかないであろう。つまり天皇制崩壊を企む輩の陰謀なのである。
 私は女系にするならば女系でもよいと思う。しかし今言われている事の本当の狙いは、皇位継承者を今上陛下の家族に限るということで、絶滅危惧種に導こうとする陰湿な陰謀なのである。
 もし御子孫が絶えれば養子でもよいではないかとか、その時はお血を引く方を見つければよいとか詭弁を弄するだろうが、ならば今、旧宮家の復活を図っても同じことではないか。
 我々は事の本質は、天皇制を維持するか、それとも天皇制廃止を企む輩(残念ながらこれは存在するのである)の陰謀話に乗せられるか、ということなどだと理解しなければならない。

スケッチブック30(年金赤字2000万)

2019-06-13 13:28:32 | 日記
6月13日(木)
 年金騒動くらい分からない話はない。公的年金だけで食ってゆけないのは当たり前の話だろう。現に私は毎年百万円を貯金から崩して生活している。50万円で済むなら御の字というものだ。
 年金に対する信頼が失われるというが、老後の生活の全てを年金が賄うなどとは聞いたことがない。年金は老後の生活資金の主要な柱だが、それが生活資金の全てになり得ないとは、国民の誰もが思っていることである。むしろ恐れるのはその主要な柱がバタ角になってはしまいかという心配の方である。
 政府は、裸だと指摘された王様のように慌てふためいている。前回の参院選惨敗があるから、分からないでもない。馬鹿野党と、蓮舫や辻元ははしゃぎ回っている。マスゴミも夢よもう一度と政府糾弾キャンペーンを繰り広げている。国賊という言葉が本当に当てはまる奴らだ。
 一番いけないのが国民である。そうか、年金だけでは食ってゆけないのは本当なんだ、ならば無駄遣いを止めて2000万円貯めよう、更には将来2000万円で済まない事態は起こらないかとかの、現実に即して対策を考えるという態度に、何故なれないのか。そういう思いも心中あるのだろうがそれは真面目な努力がいることだから、お祭り気分で一瞬不安が消える、安倍がいけないとの国賊連中の扇動の方に、ついつい乗ってしまうのだろう。
 「消えた年金」の犯人は仕事をさぼった自治労の職員である。なのに本来責任を取るべき自治労は消えず、収拾に努める安倍内閣の方が潰れた。誠に不思議な話だが野党とマスゴミが政局にしたからである。それに馬鹿な日本人が乗ったからである。そして悪夢の民主党政権という火の粉を、十分に浴びる結果となった。同じことをまた繰り返すのか。
 日本人は馬鹿を繰り返す馬鹿というほど、踊らされる存在なのだろうか。
 

スケッチブック30(湯島聖堂)

2019-06-12 14:01:07 | 日記
6月12日(水)
 また一つ知識が増えた。数年前に湯島聖堂に一人で行ったのだが、大成殿の威容に圧倒された記憶がある。特に屋根の天辺にある二つの、高く突き立った飾りが印象的だった。それまで見たことのない形状をしていた。パンフレットに「設計伊東忠太」とあったので私は、さもありなんと、伊東忠太の独創だとばかりに思い込んだのだ。
 それは全くの誤解だった。たまたまネットで調べたら現行の大成殿はコンクリートで作り直してあるが、江戸時代の姿が忠実に再現されているとあった。屋根には両端に鯱が鎮座して潮を吹いている。突き立った飾りと思った意匠は、その鯱が吹き上げている、潮を形容したものだったのだ。そうなのかと思った次第である。でもお城は幾つか見たが潮を噴き上げている鯱なんて、なかったように思いますがね。中国にはあるのかなあ。もし湯島聖堂にしかないとしたら、当時の工人の創作力は凄いものだと、感心した。
 「徒然草」の石清水八幡宮の章を思い出した。やはり先達を探す労を惜しむべきではない。今はネットという至便ななツールがあるのだから、他のどんなことであろうと、例えば政治経済問題にしても、マスゴミに踊らされるくらい馬鹿な話はないと改めて思い入った次第である。