スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(真珠湾 通告遅延は野村の作為?)

2021-12-02 16:06:37 | 日記
12月2日(木)令和3年
 「西園寺公と政局」で原田は、野村が近衛からも松岡からも、そして東条と海軍大臣からも挙げて駐米大使を要請されたが、三回くらい断った。だが遂に受けたのは、近衛から相当な自由裁量の権限を与えられたからだろうと、推量している。原田は「エラスティックな広い範囲の権限」と書いている。私は英語が分からないのだが、伸び縮みするとか弾力性があるとの意味から、エラスティックとは自由裁量との事ではないかと考える。つまり野村は俺は単なる外務官僚の範囲を超えている存在だ、との認識を持っていたと思われるのだ。野村とワシントンの大使館員との間には相当の軋轢があったと聞くが、このような意識で野村が振舞えば、外務官僚から反発を受けるのも当然だろう。だから野村はかなり自由意思で対米交渉をしたように思えるのである。
 それは二つの事実から裏付けられる。一つは日米了解案を本国に送るとき、わざと、添付されたハル4原則を省いて、日本に送らなかった事である。もう一つは日本側の最終提案である乙案を、まだ示すなと本省から言われているのに、自分の試案として、アメリカに披歴したことである。いずれも野村としては日米交渉を纏めようとして、アメリカと直に話をしている者としての考えから良かれと思って、邪魔になりそうな文言を省き耳障りの良い言葉を発したのだという事であろうが、そうしたのは、俺には「エラスティックな広い範囲の権限」があるとの、意識があればこそであろう。ならば遂に開戦となれば、海軍大将として日本が勝つことを願い、真珠湾攻撃の成功に一役買おうと開き直ったとしても、不思議ではない。
 最終案である乙案が拒否され日本否定のハルノートを食らい、その上で対米通告文を受け取ったのだ。内容は開戦か屈服かどちらかでしかない。文面から開戦だとはすぐわかる。攻撃場所が真珠湾とは想定できなかったかも知れないが、日本軍が何処かを奇襲しようとしているとは、当然分かった筈だ。本省から午後1時に交付せよと言ってきた。奇襲時刻が午後1時なのか1時30分なのか、はたまた2時なのかは分からなかったろうが、午後1時という時刻に重要な意味があることは、判読出来て当然である。ここで野村が自由裁量の意識から、通告文の交付を1時間遅らせたと考えるのが、一番妥当な考えであるように思う。1時間遅れれば仮令2時30分の奇襲だったとしても、もう防御は間に合わないだろうという訳だ。
 ものの本では通告文遅延は現地大使館員の怠慢によるとあるが、信じられない。真珠湾攻撃はワシントン時間の7日の午後1時30分であるが、前日の6日には「通告文は長文だから何部かに分けて送る、またアメリカ政府への交付時刻は別に指示するが、何時にても交付できるように準備万端整えておくように」とのパイロットメッセージが最初に届いている。そして同時くらいに「アメリカ人のタイピストを使うな」との指示も来ている。これで怠慢をする大使館員がいるとは思えない。
 実際大使館の電信課員は6日夜の送別会を切り上げて、7日の午前3時まで電信室で次なる通告文の到着を待ち受けていた。徹夜をするつもりであったと思われる。それを帰宅させたのが井口貞夫参事官(ナンバー2か3?)である。また既に到着して解読済みの通告文(14部までの内の13部)のタイプ打ちをサボって友人宅でトランプをしていたのが、奥村勝三書記官である。奥村は「西園寺公と政局」によれば野村のブレーンで、野村が大使になってアメリカに連れてきた間柄らしい。野村が奥村に言ったのではないか「肇国以来の重大危機だ。個人の名誉なんか置いといて、お国の為に汚れ役を引き受けてくれないか」。
 井口貞夫は帰国後通告遅延を問われて、「あれは私の関知するところではない」との旨の答弁をした。野村に言われて電信課員を返したのだと、言いたかったのではないか。更にはあれは野村がやった事だと、言いたかったのではないか。井口と奥村は共に戦後事務次官に昇進している。汚れ役を引き受けた褒賞だと考えれば納得がゆく。
 通告遅延は野村の作為だったと考えると、すべて辻褄が合うのである。

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