「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「瑞春院」(ずいしゅんいん)

2006年04月28日 16時17分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 相国寺には10を越す塔頭があり、その一つひとつが見事なもので、境内に優れた石庭を持つものが多く、高尚な水石が配されている。
 その中の一つ、瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(たいせいそうい)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(きせんしゅうしょう)が文明年間(1484)に創設してが、300余年後の天明年間に寺宇は焼失。弘化から嘉永まで(1845年~49)の間に再建され、その後客殿を棄却したが、明治31年(1898)6月再興完成し、今日の瑞春院にいたる。ちなみに瑞春院は、亀泉集證、鈴木松年、水上 勉氏など文人墨客ゆかりの禅院でもある。

 本尊は阿弥陀三尊佛(木像雲上来迎佛 藤原時代)、永享11年(1439)4月13日第六代足利義教将軍が寄進。阿弥陀如来像を中心に、蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌した勢至菩薩が雲に乗って来迎する姿の阿弥陀三尊像である。
 三尊共木造で中尊は水晶製の肉髪珠・白毫を嵌入、両脇侍金属製の宝冠・瓔珞(玉をつないだ首飾り)をつける。中尊の柔和な顔は定朝様式を引くもので小粒の螺髪や、流麗な衣紋の線も、藤原時代中頃と推定されている。
 両脇侍は、中尊より時代は後期になるようで、光背・台座は工芸的な作りからみて、江戸時代前期の作だとされている。このことについて、再三の火災に遭いながら像本体だけは持ち出され、最終的に現在の形態が整えられたからだと説明している。
 襖絵も見ごたえがあるものばかりで、「孔雀」絵(今尾景年筆)、「古松」絵(鈴木松年筆)、「八方睨みの龍」絵(梅村景山筆)と息を呑む。
 なかでも本堂上官の間(雁の間)の八枚の襖絵「雁」(上田萬秋筆)が、水上勉氏の「雁の寺」のモデルとして登場し、広く世に知られるようになった。

 直木賞作家・水上勉氏は9歳の時、当院で得度し19歳で出奔し還俗。立命館大学国文科に学んだが中退した。諸所を遍歴し文筆活動に精進。昭和36年(1961)出版の小説「雁の寺」はベストセラーとなり名声を博した。雁の寺の小説は瑞春院時代を回顧したもので、別名「雁の寺」と称されるようになった。
 掛軸も逸品ぞろいで、「陶渕明 春秋山水図」三幅対は狩野探幽、「鐘馗・牡丹・竹に虎」三幅対は狩野安信、四季掛替の「福禄寿・雪梅・月梅」三幅対は維明周奎、「朱衣達磨」は狩野常信などの筆による。
 書院「雲泉軒」は、直径2㍍からなる台湾檜の千年ものを主材に造られ、天井は碁天の中に小碁を組んだ優雅な作り。書斎の火灯窓より見る柚木灯籠と檜の木立は、一幅の絵を観る如くである。
 庭園を紹介すると、南庭の雲頂庭は、室町期の禅院風の枯山水が、枯淡な趣と公案的な作意で、禅的世界感を象徴している。北庭の雲泉庭は、 村岡正氏(文化功労授賞)が相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した池泉観賞式庭園である。茶室「久昌庵」は、数寄屋建築の名工諸富厚士氏の建築で、表千家の不審庵を模して造られた。濡額の書は千宗左(而妙斎)直筆。

 当院を訪れる人の心を奪うものの一つに「水琴窟」がある。これは370年前に小堀遠州配下の同心が伏見屋敷の庭に造った洞水門(水琴窟)の手法を取り入れて創作したもので、玄妙なる音色は聴く人の心を幽玄の世界に誘っている。国内の「水琴窟」の中では最も美しい音色がするとの評判である。また、抹茶碗「水琴」は、陶芸家加藤和宏氏(富本憲吉賞、京都美術工芸展優秀賞等)が茶室久昌庵の待合の横にある水琴窟が奏でる地底の玄妙の音色に魅せられ、その音色をイメージに作陶し「水琴」と命名。直径49㌢、重さ7㌔という、日本一の伊羅保釉大茶碗で、現在も瑞春院大碗茶席に用いられている。

 所在地:上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701 拝観をするには予約が必要。
 交通:地下鉄今出川下車、徒歩約5分。市バス烏丸上立売下車、徒歩約5分。
 
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