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大徳寺「総見院」(そうけんいん)

2008年08月06日 21時46分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺の22塔頭寺院のひとつである「総見院」は、豊臣秀吉が主君織田信長の冥福を祈るため天正11年(1583)、信長の一周忌追善のために建立したもので、利休参禅の師「古渓和尚」が開祖したと伝えられている。
 信長の遺骸が見つからなかったことから、信長の木像を2体つくり、1体は棺に入れて荼毘にふし、もう一体は総見院に安置された。信長は生前より、自身の法名を「総見院泰巌安公」と定めており、それが「総見院泰巌安公」と伝わっているようで、そのまま当院の名称となったという。

 信長一族(信長、信忠、徳姫、濃姫、お鍋の方など)の墓があるが、信長の墓には“信長”の文字は刻まれていない。
 明治維新の時、旧建物を壊し、一時は禅僧の修禅道場として禅堂もあったが、道場は龍翔寺に移された。

 銅鐘は、織田信長の一周忌に家臣の堀久太郎秀政が寄進したものといわれ、古渓宗陳撰文の天正11年の銘がある。鐘楼は創建当時のもので、鐘・鐘楼ともに重要文化財。正門と土塀は創建当時そのままの姿で現存しており、土塀は「親子塀」といわれ、内部に塀がもう一つ設けられた二重構造になっている。

 まず、本堂に上がりお茶をいただく。院内にある掘り抜き井戸の水で入れたものだそうだが、この井戸、中が透明で底まで見える。この井戸は、加藤清正が朝鮮出兵時、朝鮮から持ち帰った石をくり抜いて作ったものと伝えられている。
 本堂には信長の木造(1.15㍍)が安置されている。何でも明治時代に行われた廃仏毀釈により、この像も危なかったところ、密に本山に安置され難を逃れたとか。
 茶室が三席もあるが、普段は拝観謝絶の立て札が出ており、それらを観ることはできない。(春・秋に特別公開有り)
 
 そのなかのひとつ、寿安席を見せてもらうと茶席にしては広く八畳もある。禅道場が龍翔寺に移されるまで大徳寺管長の住まいであったため、隠寮と呼ばれた「寿庵」内にある。大正の初め頃の山口玄洞(1863-1937)が建立したという。
 もう一つ目を引いたのが、秀吉遺愛の侘助椿の大樹だ。この侘助椿は、秀吉が千利休から譲り受けたもので、品種としては日本最古の胡蝶侘助といわれ樹齢400年、天然記念物に指定されている。 

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町59。
 交通:JR京都駅から市バス206系統千本通北大路バスターミナル行き、徳寺前下車すぐ。
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