「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

 「源九郎稲荷神社」(げんくろういなりじんじゃ)

2012年01月20日 20時44分25秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 童謡「やまとの源九郎さん」に歌われている場所にある源九郎稲荷神社は、源九郎狐や綿帽子を買った狐の伝説で知られており、地元では「源九郎さん」の呼び名で親しまれている。源義経が兄頼朝の討手を逃れて、吉野山に落ちのびたとき、化身した白狐が現われ幾度となく難を救ってくれたことから、感謝を込めてこの名を贈ったと伝わっている。

 小さな神社だが、日本三大稲荷の一つに数えられ、本殿に「白狐源九郎」が祀られている。五穀豊穣・商売繁盛の御利益があるとされ、4月の第1日曜日に、白狐面をつけた子供行列が練り歩く「源九郎稲荷春季大祭」が行なわれる。

 白狐の由来は天正13年(1585)郡山城に入った豊臣秀吉の弟秀長は、帰依した宝譽上人(ほうよしょうにん)という地元の高徳の僧から、ある夜、夢枕に立った源九郎と名乗る白狐が老翁の姿となって現れ、「われを郡山城の南に御堂を建て、茶枳尼天を祀れば祀ってくれるならば、守護神となって、城を守るであろう」と告げたと聞き、白狐を城内竜雲郭に祀ったといわれている。

 また、元和元年(1615)4月、大坂夏の陣の戦いで、大野治房が数万の軍勢を率いて郡山を夜襲焼討した時には、天誉和尚が「源九郎稲荷」に祈願すると鎮火したことから、民衆の信仰は一層深まり、江戸時代には諸国からの参詣者が絶えなかったという。
 現社地に遷ったのは享保4年(1719)で、現社殿は大正14年に完成したもの。
「御由緒略記」「やまとの大和の源九郎さん(社伝)」より。

 所在地:奈良県大和郡山市洞泉寺町15
 交通:近鉄橿原線近鉄郡山駅下車、徒歩7分。
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 「帯解寺」(おびとけでら)

2012年01月20日 20時38分59秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良市南部にある、皇室縁の安産祈願のお寺「帯解寺」を訪ねた。
 「戌の日」には安産祈願の妊婦さんで賑わうそうだが、この日は静かなもので、鎌倉時代の作と伝わる本尊の巨大な半跏地蔵「帯解子安地蔵菩薩(重文)」(像高182.6cm)をじっくりと拝観することができた。

 寺伝によると、創建当初の名前は「霊松庵」で、世継ぎを授からずに悩んでいた文徳天皇(もんとくてんのう)の皇后・藤原明子が春日明神のお告げによって帯解子安地蔵菩薩に懐妊祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)を授かった。それを喜んだ文徳天皇の勅願により、天安2年(858)に伽藍が建立され、「帯解寺」と勅命したという。

 平安時代以降は、治承4年(1181)の平重衡による「南都焼き討ち」、永禄10年(1567)には松永久秀によって炎上させられるなど、災禍が続いたが、安産祈願の寺としての信仰は続き、徳川家光の側室・御楽の方が祈願し、後の4代将軍徳川家綱を授かるなど、徳川幕府の庇護も受けた。

 昭和34年(1959)の美智子皇后御懐妊の際に、安産岩田帯と御守りを献納、さらに、秋篠宮妃紀子殿下、皇太子妃雅子殿下の御懐妊の際にも、岩田帯と御守りを献納している。本堂脇の待合所の一角。ロイヤルファミリーの写真などが飾ってある。

 本堂は、安政5年(1858)に再建された簡素なもの。拝観窓口で受付を済ませ、本堂脇にある和室で少し待っていると、お坊さんがやってきて仏様などの説明をしてくれる。本堂の左右には、長谷寺式の「十一面観音像」や、江戸時代の「十一面千手観音像」が安置され、さらに、スリランカから来たという、獅子に乗った小さな「文殊菩薩像」や、振り上げた小槌の上にもう一人の大黒天が乗っている「大黒天像」なども祀っている。
 
 表門をくぐってすぐにある手水鉢は、寛文2年(1662)に第四代将軍・徳川家綱が寄進したものという。

 所在地:奈良市今市町734。
 交通:JR桜井線「帯解寺駅」下車、徒歩3分。


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