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アイリス あいりす 

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キューバ革命の指導者カストロの名言

2016-11-28 09:08:35 | 歴史

2016年11月27日


キューバ革命の指導者にして20世紀屈指の政治家であるフィデル・カストロ氏が90歳で死去した。名言の数々をスプートニクとともに振り返ろう。

 

自身について

・「宣告を下してみよ!私には意味のないことだ。歴史が私の正しさを証明する!」 ・「五輪種目に『暗殺から生き延びる』というのがあったら私が金メダルだろう」 闘争について ・「祖国があなたを見て誇らしく思うようにすること。栄誉ある死を恐れるな。祖国のために死ぬことは生きることだ」 ・「勝利とは粘り強さのことだ」 ・「他人のために戦えない者は自分のためにも戦えない」 

理想について

・「人類は正義に飢えている」 ・「理想なき生に価値はない。そのために戦うことに勝る幸福はない」 現代世界について ・「世界は今特殊な期間に入っている。これからどうなるか、なお注視を要する」 ・「現代世界のいかなる問題も力では解決できない。完全な安全を保障してくれるいかなるグローバルな力も、テクノロジーの力も、軍事力も、存在しない」

続きを読む: https://jp.sputniknews.com/life/201611273055186/


~~~~~~~~~~~~~

♫ この記事を読めば、カストロがどれほどの人物かわかりますね。

スペインの植民地だったキューバで、学校へも行けずにいた子供。

それを変えたのが、キューバ革命でした。貧しくとも彼らは自分の国が誇りだったのです。

どこからの支援も得ず、本物の革命でした。

医療と農薬を使わない農業を選択してきました。

 


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中国四川省 三星堆遺跡の発掘を急ぐ

2016-11-10 14:20:21 | 歴史

http://news.livedoor.com/article/detail/9747756/ より転載

中国政府がひた隠す、四川省“宇宙人遺跡”の発掘をなぜ急ぐのか?

「中国 三星堆遺跡」の画像検索結果

中国4000年の歴史というお決まりのフレーズが、もうすぐ使えなくなるかも?

衝撃情報の発信源は、中国西南部の「三星堆(さんせいたい)遺跡」。ここから続々と出土する青銅器が、古いものでは5000年以上前の文明によるものという調査結果が、近年になって出ているのだ。

1000年分も歴史が増えるならいいのでは…と思いきや、中国の古代史に詳しいジャーナリストの程健軍(チェン・ジェンチュン)氏はこう語る。

「現在、常識となっている“4000年の歴史”は、紀元前2000年頃に漢民族の祖先が黄河(こうが)流域に興したとされる夏(か)王朝に始まる。一方、長江(ちょうこう)流域の三星堆遺跡付近には、古来チベット系の少数民族が多く住む。

中国の歴史が少数民族に始まるという説が出るのは、漢民族による支配を正当化したい中国共産党にとって都合が悪いんです」

もうひとつ気になるのは、この遺跡が一部で「宇宙人遺跡」と呼ばれ、“古代宇宙人来襲説”がささやかれていること。人の顔をかたどった青銅器が異様な形をしているのに加え、太陽崇拝(すうはい)の証拠も出土しているからだ。

古代史転覆か、それとも宇宙人か…。それゆえ中国政府はこの遺跡をひた隠し、発掘を急がせているという。

 
中国古代文明 三星堆遺跡 長江に栄えた古蜀文化
 
 
~~~~~~~~~~~~
 
♫何年も前に東京の美術館で催しがありましたね。
一度見たら、忘れられないこの奇妙で大きな仮面です。
 
中国の他の遺跡とは、顔が別人ですよね。
どちらかというと、アラブ系の顔に見えますね。
 
それに、眼が飛び出ている、仮面も不思議でした。
 
中国はもっと古い遺跡が眠っているのかもしれません。
 
宇宙人ではないかと、言われているんですね。興味深いです。
 
 

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沖縄で2万年を超える世界最古の釣り針が発見される

2016-09-24 23:22:29 | 歴史

2016年09月19日 03:12
日本の考古学者グループが、世界最古の釣り針を発見した。

これに関する報告が、雑誌Proceedings of the National Academy of Sciencesに発表された。



日本で世界最古の釣り針が見つかる 海外の反応http://stumbleon.blog.fc2.com/blog-entry-1945.html 
沖縄の島のひとつの洞窟の中から。22380年から22770年前のものとみられる。考古学は楽しい。一部西洋学者は嫌がるかもしれんがhttp://www.sciencemag.org/news/2016/09/world-s-oldest-fishhook-found-okinawa 


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岸信介の兄弟 ハーフのようですが・・・

2016-08-27 09:00:15 | 歴史

ツイッターより転載しました

 

この人、安倍のお伯祖父さんなんだけど、海外から見ると、日本人には見えないんですよ。 西洋人とアジア人の混血。 その西洋人とはいったい誰なのか?明治以降の日本経済が武器商人中心で回ることになったキーパーソンです。

 

旅順要港部で司令官
旧日本海軍

 

~~~~~~~~~~~

♫ この写真を見たら、本当に岸家の中にすでに、ロス茶の血があるとしか、おもえないですね。

岸洋子がなぜ、成績が悪かったしんぞうを首相にしたのか、他の兄弟とは違う血筋なのでしょうか?

めちゃくちゃな、ニホンの血筋。

なんでもありの血筋。

天皇とも濃い血筋でつながっている可能性が大ですね。


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靖国神社の不思議その2

2016-08-23 18:06:23 | 歴史

 http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/443.html より転載

靖国参拝に見る「姫君」と「下女」の役割分担ー(田中良紹氏) 

戦後71年目の終戦記念日、安倍内閣で靖国神社を参拝したのは

高市早苗、丸川珠代の女性2閣僚であった。

萩生田官房副長官は衆議院議員の肩書で参拝したが、

2人はいずれも大臣の肩書を記帳して参拝した。

そして例年参拝を続けてきた稲田朋美防衛大臣は公務出張を理由に参拝を見送った。

フーテンが組閣人事の際に予想した通り、

安倍内閣における女性閣僚は靖国参拝をアピールする役割を負わされている。

そしてそこには「姫君」と「下女」との役割分担があり、

将来を嘱望される「姫君」は主君アメリカへの配慮から参拝を見送るが、

代わりに「下女」が参拝することで露払いの役割を演じている。

安倍総理本人は第一次政権で中国に対する配慮から参拝を見送り、

第二次政権になって13年12月にようやく念願の参拝を果たしたが、

主君アメリカから「失望」を表明され、そこから一転してアメリカの「調教」に甘んずるようになった。

日本人の多くは靖国問題を中国、韓国との関係だけで捉えるが、

同盟国アメリカも主要閣僚の靖国参拝を望ましくないと考えている。

そのため安倍総理は後継者に選んだ「姫君」を参拝させない仕組みに取り込み、

一方で右派勢力の批判をかわすため「下女」に防波堤の役割を負わせた。

だから改造人事は靖国参拝が女性閣僚起用の条件だったのである。

それにしても靖国参拝をこれほどまでにセンシティブにさせたのは

1985年8月15日の中曽根総理による公式参拝である。

それまで歴代総理は靖国参拝を恒例にしてきたが、どこからも批判の声は上がらず、

A級戦犯合祀が公表された後でも大平、鈴木、中曽根と三代にわたり総理は参拝を続けてきた。

ところが85年の終戦記念日に中曽根総理は公用車を使用し、内閣総理大臣の肩書を記帳し、

玉串料を公費から支出する公式参拝に踏み切る。

しかも後継と目される竹下、安倍の両大臣を左右に従えての堂々たる参拝であった。

これに中国共産党が初めて非難の声をあげ、中曽根総理は翌年から靖国参拝を取りやめた。

以来、小泉総理が参拝するまで靖国参拝はタブー視され、

とりわけ公式参拝はその後一度も行われることがない。

85年の8月15日にフーテンは竹下大蔵大臣の河口湖の別荘に呼ばれていた。

その日、竹下氏は「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の会長として午前中に参拝を済ませていた。

ところが中曽根総理の要望で午後に再び靖国神社を参拝させられたのである。

夕刻、別荘に到着した竹下氏にフーテンが「1日に2回も参拝するのはおかしくないですか?」と質問すると、

竹下氏は「マ・ン・ガだ!」と嫌な顔をし、そのまま黙り込んだ。

中曽根総理の公式参拝は竹下氏にとって不愉快な出来事だったと感じ、それ以上の質問は憚れた。

総理大臣の靖国参拝を復活させたのは小泉純一郎氏だが、

小泉氏はそれまで靖国神社に参拝したことなど全くなく、

ただ圧倒的に優勢とみられる橋本龍太郎氏に対抗して自民党総裁選に立候補したことから、

自民党総裁に当選すれば必ず靖国参拝を行うと公約して遺族会の票の獲得を狙った。

選挙公約であるから総理在任中の小泉氏は靖国神社を参拝し続けた。

しかし中曽根氏のように公式参拝を行ったことは一度もない。

アメリカも小泉氏が右翼思想の持ち主でないことを知っているので大目に見たが、

中国と韓国はそうはいかなかった。そのため対日関係はぎくしゃくし続けた。

第一次安倍政権はそのぎくしゃくからの脱却が最優先課題となり靖国参拝は見送られた。

それは安倍総理周辺の右派勢力を落胆させる。

そのため第二次政権の安倍総理は靖国参拝を必ず実行しなければならない立場にあった。

ところが小泉総理と異なり安倍総理の右翼思想を警戒するアメリカは安倍総理の靖国参拝を強くけん制する。

来日した米国務長官と米国防長官はわざわざ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れて献花し、

アメリカ政府の意思を見せつけて安倍総理に靖国参拝をしないよう促した。

それでも安倍総理が靖国参拝を強行するとアメリカ政府は異例ともいえる「失望」の表明を行う。

その時の経験から参拝を断念した安倍総理は、自分と最も思想的に近い稲田氏にそれを真似させたのである。

安倍総理が長期政権を狙うのであれば、そうやってアメリカに迎合し、

国内の右派勢力を逆に「調教」する必要がある。

かつて森元総理が「視野の狭い右翼思想の持主」と看做した安倍総理は、

今や靖国参拝をアピールする女性閣僚と参拝させない女性閣僚を手のひらに乗せ操る術を

身に着けるところまできた。

しかし問題はそのような小手先の政治術だけでは済まないところにあるとフーテンは考える。

8月8日に天皇は「お言葉」を発し明治以来の皇室典範の改正を求めていることが分かった。

また靖国神社でも戊辰戦争の官軍の戦死者だけを祀る神社として創建されたことに

徳川家末裔の宮司から異論が出されている。

いずれも明治維新時の歴史観をそのままにして良いのかという問題提起である。

昨年は戦後70年という節目のため先の大戦や平和憲法を巡る議論に注目が集まったが、

今年からはそのレンジをさらに延ばし、明治維新以来の日本の歴史を再検証して

近代日本の戦争と平和を、天皇制や靖国問題を切り口に考えるべき時にきていると思う。

これは単に政権の座にあるものに求められた課題ではない。

野党もそして国民も明治維新から始まる近代日本の姿を今一度見直す必要があることを理解すべきである。

「維新後レジーム」を見直す中で「戦後レジーム」からの脱却、

すなわち属国体制からの脱却を考える時なのだと思う。

~~~~~~~~

♫ 山口県下関市からできた招魂社が東京にでき、その後靖国神社と名前を変えています。このことから、これは田布施Sの神社に間違いないと思います。

ところが、この内容を読みますと。宮司は徳川家の末裔とあります。

明治維新後の徳川家の役割は、このようなことだったのでしょうか?

そして、不可思議なことは、昭和天皇が靖国参拝を辞めた理由です。

A級戦犯の東条英機元首相が、合祀となってからです。これは靖国神社側の考えで行われたようですね。これには昭和天皇は激怒したとも言われているようです。国民も戦犯をまつるのは、オカシイという与論のコントロールに、傾いています。それは中国韓国が反対をしているからです。

しかし、私はもっとシンプルに考えています。

なぜ、昭和天皇が東条英機が祀られてから、参拝をしないのか。それは自分の身代わりとした東条に頭を下げることになるからです。

頭を下げるところを、国民に見せると、やはり東条英機は身代わりだったのだと、示すことになります。

ですから昭和天皇は、以後参拝しなくなりました。

 

靖国神社は、実に不可思議な神社です。

徳川家の末裔が宮司であるのなら、なおの事、私はこのように、考えたのです。

本当の戦犯は昭和天皇自身だったのです。

 


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靖国神社の不思議その1

2016-08-23 12:57:10 | 歴史

http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/yasukuni002.html

 東京招魂社から靖國神社へ 

 【維新殉難者の慰霊顕彰】
 幕府によって誅殺された志士の慰霊をどのように行うか。これは幕末から明治時代にかけて最も重要な課題の1つでした。
 文久2年(1862年)5月25日、真木和泉守が楠公祭で池田屋事件の殉難者を神式で祀りました。これが殉難者を祀った最初の例と云われます。
 文久3年(1863年)7月、津和野藩の国学者福羽美静らは京都祇園社境内に祠を創建しました。安政の大獄などの殉難者46柱を祀るためです。しかし、この小祠は幕府をを憚り壊されました。霊璽は福羽家に移され、祭祀が続けられました。福羽家に造られた小祠は後に靖國神社に移されています。これが「元宮」です。
 
 
 
 【桜山招魂社の創建】
 文久3年(1863年)、長州藩は尊王攘夷のため下関砲台からアメリカの商船を砲撃。この事件を記念し、下関に奇兵隊が管理する招魂場を建設する事が決まります。発案者は高杉晋作です。
 慶応元年(1865年)、下関桜山に招魂場が建設され、長州藩による招魂祭が営まれました。桜山招魂場の最初の招魂祭には奇兵隊全員が参列。若き日の山県有朋(山県狂介)も参列しています。また、長州藩の支藩長府藩、清末藩の藩兵も参列しました。
 招魂場には戦没奇兵隊隊士の共同墓地が造営され、その前方には鳥居と社殿が建立されます。最前列中央には吉田松陰の墓碑が、その周囲には隊士のための小さな墓碑が建てられました。隊士の墓碑は身分にかかわらず同じ大きさをしています。奇兵隊隊士は生墳を共同墓地内に作り、戦没隊士と同じように身命を賭す覚悟を決めました。
 さらに長州藩は領内各郡に招魂社を1ヶ所ずつ設けています。16ヶ所の招魂場が藩内に建設され、春秋に祭典が行われました。楠公祭では殉難した長州藩士の御霊も慰霊顕彰の対象となりました。
 
 【東京招魂社】
 明治2年(1867年)、東京に招魂社が建立されることになりました。
 明治2年3月15日、木戸孝允は上野寛永寺の社地に招魂社を建立したいと日記に記しています。大村益次郎はこの意見に反対しました。上野東照宮、寛永寺の社地は幕府軍の亡魂の地であり、招魂社を建てるには不適切だと述べたのです。やがて上野に大学病院の建設案、公園の建設案(上野公園)が浮上。上野は招魂社建設地の候補から外されました。
 次に九段坂上三番町通元歩兵屯地跡が社地の候補に挙がりました。明治2年6月12日、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下は軍務官副知事大村益次郎、香川敬三、船越洋之助、増田虎之助、佐藤嘉七郎、松岡新七郎に九段一帯の検分を命じます。検分の結果、大村らはこの地に招魂社を建てるべきと上奏しました。こうして九段に招魂社が建立されることになりました。
 当時、歩兵屯地跡は東京府が所有していましたが、軍務局は九段の社殿建立予定地を東京府から譲り受けました。
 明治2年6月19日、招魂社の仮本殿、拝殿が起工します。6月23日、軍務官は同月29日から5日間に渡って招魂祭を行うと諸藩に通達しました。
 明治2年6月28日、明治天皇は皇居神祇官代にて祭典を執行。八百万の神々に日本の平和を祈られました。その際に用いられた鏡は招魂社に奉納され、今日も靖國神社の御霊代として大切に受け継がれています。同日17時頃、九段の招魂社仮設本殿、仮設拝殿にて清祓の儀が執行されました。
 明治2年6月29日午後2時、霊招の式が行われました。大村益次郎軍務官副知事が本殿下段に着座。明治天皇の勅使五辻安仲、奉幣使をお迎えします。大村は奉幣使から勅幣を受け取り、勅使に捧げました。勅使は勅幣を神前に納めます。祭主の軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王殿下が拝礼し、祝詞を奏上。政府高官がそれに続きます。太政大臣三条実美も祝詞を奏上。そして祝砲が撃たれました。式が終わり、祝部は神饌をお下げしました。
 こうして明治2年6月29日、「東京招魂社」が鎮座しました。
 
 招魂社創建の際の祝詞 明治2年6月29日
 「天皇の大御詔に因りて、軍務知官事宮嘉彰白さく、去年の伏見の役より始めて、今年筥舘の役に至るまで、國々所々の戰場に立ちて、海行かば水付く屍、山行かば草むす屍、額には矢は立つとも、背には矢は立てじと言立てて、身も棚知らず仕へ奉りし將士の中に、命過ぎぬるも多なりと聞し食して、其の人等の建けく雄しく丹き心持ちて仕へ奉りしに依りてこそ、此のごとく、速やかに賊等を服へ果て、世も平けく治まりぬれ、専ら其れが功ぞと哀しみ偲び、此の淸所に宮柱太敷き立て、御酒は瓶の邊高知り、瓶の腹滿て竝べて、海山の物を横山なし積み足らはして、稱辭竟へ奉る大幣を安幣の足幣と聞し食して、皇御孫命の大御代を常磐に堅磐に守り奉り幸へ奉り、百官人等を始めて國々の宰に至るまで、己か向々有らしめず、彌進みに進み、彌勤めに勤め仕へ奉らしめ賜へと白す。」
 
 明治2年6月30日、招魂祭2日目には祝部による神饌奉納、祝詞奏上がありました。大相撲も神事として奉納されます。こうして招魂祭は7月3日まで続きました。招魂祭最終日は昼夜に渡って花火が打ち上げられ、明け方までお祭り騒ぎは続いたと云います。


~~~~~~~~~~~
♫ かねてより、靖国神社の成り立ちと真実の歴史を知りたいと思っていました。
靖国神社は、元は山口県の下関市で生まれた明治維新と明治天皇を作った長州勢力によって、建てられた招魂社というものが、原型のようです。

東京に招魂社が建てられ、その後それが靖国神社となっていったわけです。
ですから、在日の議員があんなに一生懸命参拝をするわけは、こういうことなんですね。
そして、戦争の遺族会が自民党を支持するように、彼らは参拝をしているわけですが、実はここで、国民が靖国神社について知らないから、このように政府を見てしまうのです。

歴史が改ざんされ、支配者に都合の悪いことは、隠して都合の良いように、国民をコントロールしているのです。国民は靖国神社について騙されているのです。
命を取られた霊魂を閉じ込める為の社が、招魂社ということです。お骨の収集も政府はしないのに、簡単な靖国参拝で、2重に遺族を騙しているのです。



 




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米グランドキャニオンに古代の遺跡財宝とエジプト人の痕跡

2016-08-11 09:40:51 | 歴史

http://ameblo.jp/cometoknow/entry-11440728058.html より転載しました。

2013年01月02日

米グランドキャニオン禁止区域に古代の秘宝とエジプト人の痕跡

テーマ:mystery

アメリカ・グランドキャニオンの立ち入り禁止区域内にある洞窟には
数千年前のお宝と、ヘルメットを被った宇宙人のような奇妙な壁画、そして無数の人骨が眠っており、
更に不思議なことにそれらのミイラは、アジア人か、エジプト人らしい! (マジか!)

Arizona Republic (米アリゾナ州のローカル紙を発行している新聞社のサイト)によれば
驚くべきことに、グランドキャニオンの中で現在立ち入り禁止になっているあるエリアは
1963年からまったく調査されておらず
、それより前の1909年に探検に入った
G.E. Kinkaid氏とS.A. Jordanたちの発見に関しては、アメリカの考古学会でも無視されているという。。。
(これは・・・)
 
(♫画像のアドレスです)
 

アメリカの教科書では、アメリカ人の歴史(ルーツ)として、1万2000年前にアラスカから南下してきた
民族が、北アメリカの中央部に居住し始め、ネイティブ・インディアンを形成したと書かれているらしいが
それはアメリカのスミソニアン博物館(アメリカの国立博物館)が公式に認めている説に過ぎず
1909年と1963年の記録と分析では、その説に真っ向から対立しているとのこと。

グランドキャニオン国立公園サービス事務局にインタビューを行った同紙の記者によれば・・・
**
記者:なぜグランドキャニオン(以下G.C)の一部地域は許可無しに入ることが許されず、
    禁止区域になっているんですか?

G.Cサービス 「技術的に大変困難であり、危険を伴うので、立ち入りが制限されているのです」

記者:どのくらいの数の洞窟が(G.Cには)ありますか?

G.Cサ 「不明です。なぜなら調査が行われていないからです。ただ少なくとも一つ以上はあります」
**

とはいえ、記事によれば、現地アリゾナ州のホピ族(ネイティブ・インディアンの民族の一つ)に
古くから伝わる伝説がこれに関して別の手がかりを与えてくれているという。

ホピ族の長老たちが記者に話してくれたホピ族の口承伝によれば、大昔、ホピ族とアングロ族の
混血にあった若い男性がグランドキャニオンの地下にある秘密の住居跡に迷い込んでしまった。

巨大な洞窟に入ると、そこには銅や金でできた壺や甕(骨壷)があり、それからユリの花を持ち
あぐらをかいた石像があった
という。

そして壁には背の低い人々の姿や顔が彫られていて、中にはヘルメットを被った人々や、裸の人、
ドレスを着た人々の姿も描かれていたという。

しかしこれらは本当に空想上の話なのだろうか?

他に、1990年代には、グランドキャニオンの立ち入り禁止区域についてある噂が広まり
世界中からメディアやテレビの撮影、外国人旅行者たちが殺到する騒ぎがあったという。

その噂とは、巨大な洞窟の中にエジプトやアジア産の芸術品や高価な財宝が膨大に
眠っているのではないか
というものだった。

彼らはどこかでグランドキャニオンにある多くの洞窟には、北アメリカの前時代的な人々によって
彫られたヒエログラフがあると聞いていたのだった。

とはいえ、グランドキャニオン国立公園の事務員たちは、1909年の探検で何が発見されたかについて
ほとんど何も知らない。

しかし1909年当時、探検隊はグランドキャニオンにある巨大な地下の砦には、車輪の輻のように
多くの地下通路があり、中にはフットボール・フィールドの長さにも匹敵するほどのものを
発見していた。

更に、彼らが通路を進むと、古代戦争の武器や、鋭く尖った銅の武器、そして数百体のミイラが
積み重なっていた
のを発見したという。

その後の調査で、1909年に発見されたミイラのすべては男性だと分かった。従って
1909年の探検隊が見つけたその部屋は、戦死者たちの墓場だったのではないかと結論付けられた。

ちなみに(洞窟内の)別の部屋にはダイニング・ホールと見られる場所もあり、
彼らはそこで美しいデザインが施された水瓶や壺を発見した。

1909年のGazette紙のインタビューで探検隊を指揮したKinkaid氏は
グランドキャニオンで見つかったミイラの起源についていくつかの説を報告した。

1つ目は、彼ら(ミイラとなった人々)はアジアから来た人々であり、そこにあった民族的な揺りかごは
ナイル川の上流を起源とするのもので、また、彼らはインドを起源とするエジプト人だった
のではないかと仮定された。
(・・・要するに探検隊の隊長は、グランドキャニオンで見つかったミイラはエジプト人なのでは!?と
思ったということ)

アリゾナをベースに活動している人類学者Warren Cremer氏はこう話している

「スミソニアン博物館は、疑いようも無く、"1492年にコロンブスがアメリカを発見するまでは
いかなるヨーロッパ人もアメリカ大陸には上陸していない"とする信条を守っている。

つまり彼ら(博物館員たち)は、古代エジプトの芸術品が(グランドキャニオンで)見つかった
という話は真実ではないと純粋に信じてしまっているということだ」

ところで、『Lost Cities of North and Central America』(北中米の失われた都市/邦訳無し)
という本を書いたDavid Childress氏は、

見つかったミイラは、現在の中東に近いオセアニア系民族の接触の証拠
であり、
今日の(アメリカにおける)民族の移動が
ベーリング海(ロシアとアラスカの間の海)から北アメリカの南西に下ってきたのではないことを
立証していると話したという。

ソース
http://www.azcentral.com/arizonarepublic/viewpoints/articles/20111108grand-canyon-mystery.html?nclick_check=1
~~~~~~~~~~~~
♫ アメリカ大陸も、謎がたくさんありそうですね。
コブラ情報の中のひとつです。
人類の歴史は、かなり複雑怪奇です。
 

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ヨーロッパの忘れられた歴史 

2016-08-09 12:15:28 | 歴史

http://www.dcsociety.org/2012/info2012/150820.pdf

植民地博物館の「人間動物園」から「人間戦利品」まで

とても信じられないような内容に驚くと思います。

コピーは出来ないので、元記事で読んでください。

世界の歴史の中で、これほどアフリカ人を酷い目にしてきた白人はいないでしょう。

真実のひとつを知ることです。

大英博物館は、無料です。観光客はとても多いのです。

植民地支配は、イギリスだけではありませんが、イギリスは今も植民地を持っています。

コメント (1)
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キノコ雲は火災の煙か?米研究所

2016-08-06 19:59:25 | 歴史

 

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016080601001630.html より転載

きのこ雲写真は火災の煙か 広島原爆、米研究所が指摘

 米軍機が撮影した、広島に投下された原爆のきのこ雲とされる画像。1973年に日本に提供された「返還資料」に含まれていた

 【ワシントン共同】広島への原爆投下時に撮影された有名な写真に写るきのこ雲が、爆発直後にできたものではなく、しばらく時間がたって地上の激しい火災によって発生した煙や雲とみられることが分かった。原爆を開発した米ロスアラモス国立研究所が、このほど明らかにした。

 ニューヨーク・タイムズ紙は、オバマ大統領の広島訪問に先立つ5月、写真について「実は“きのこ雲”でなかった」と驚きを交え報じた。

 一方で、きのこ雲という言葉に厳密な定義はない。写真を解析研究した広島市立大の馬場雅志講師は「原爆の雲であることは事実で、きのこ雲と呼んで差し支えない」と話している。

 

~~~~~~~~~

♫ アメリカの研究所からのこの原爆きのこについて、どうして、このような話になるのでしょう?

多くの被害者をだしているのにも、関わらず、原爆ではなかったとでも、いうのでしょうか?

それともロスアラモス研究所での実験の、原爆きのこではないことを指摘しているのでしょうか?

アメリカの原爆きのこは、マッシュルームのようで、このヒラタケのような雲は別のもの?と言っているのでしょうか?

何か不可解なものを感じますし、うっかり言えない奥歯にものが挟まったような感じをうけますね。


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旧ソ連が映した 広島原爆投下(アーカイブの動画)

2016-08-06 18:36:00 | 歴史

広島原爆投下(アーカイブの動画)


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8月6日 広島に原爆が起きた日

2016-08-06 13:32:26 | 歴史

http://jp.sputniknews.com/opinion/20160806/2604741.html より転載

旧ソ連の調査団が原爆投下後の広島・長崎を撮影した映像が広島市・長崎市に提供された。これは今年6月に、ロシア下院のセルゲイ・ナルイシキン議長が日本を訪れた際、安倍首相に寄贈したものだ。

広島平和記念資料館(原爆資料館)は、この映像資料を新着資料展、あるいは来年の2月にリニューアルオープンする東館の「被爆後の外国からの調査団」というコーナーで公開することを検討している。原爆資料館の加藤秀一(かとう・しゅういち)学芸課長は、ロシアからの映像資料の提供について次のように話している。

 

加藤氏「(ロシアから提供を受けるというのは)最初からあきらめていた部分がありますが、ナルイシキン議長からこのような形で提供して頂けたので、まだ多くの映像が残っているのかもしれない、その中には広島市や長崎市が所有していないような貴重なものがあるのかもしれない、と少し期待しています。ロシアの情報公開がどのようになっているかは存じませんが、もし公開して頂けるのならその場所へ直接出向き、写真や映像を提供頂けるように相談させてもらえればと思います。

昔の映像というのは数が限られていますから、映像が一本でも増えれば、そこから新たに判明する事実もあるかもしれません。例えば広島は原爆投下後、9月の中頃に台風の被害を受け、街の様相が大きく変わりました。もう少し後の時期には、バラックが建ち始めます。映像によって復興の状況や人々の生活の移り変わりを知ることができるのです。」

 

長崎の映像については調査団が入った時期がほぼ確定できているが、広島の風景が撮影された時期については、はっきりしていない。加藤氏が細かく見た限りでは、10月以降だと推定されるという。加藤氏は「映像と一緒に、時期を特定できる記録も提供して頂けると本当にありがたい」と話している。

 

資料を公開するのは、原爆による被害の実態を世界中の人々に伝え、核兵器の廃絶と世界平和を実現するために他ならない。

加藤氏「今回の寄贈は、ロシア人を含む色々な方に資料を見てもらい、広島、長崎がどんなに悲惨なことになったかを知っていただく機会にもなるのではないかと思います。核兵器の時代になってしまい『いつでも、このような悲劇が世界中で起こり得る』のだと、そこまで思いを馳せて頂ければと思います。」

8月6日、原爆の日に行われる広島で行われる平和祈念式典。今年は91カ国およびEUの代表が参加する予定だ。

~~~~~~~~~~~

♫ 本日は広島に原爆が起こされた日です。原爆の特許者が昭和天皇であり、今上天皇がそれを継いでいます。原爆の特許者は、原発についても、特許取得者となるそうです。

日本の原子カムラとは、天皇家に他なりません。

そして、原爆は当時飛行機に搭載できませんでした。起爆装置も日本しかなかったということです。(ウィキペディアの情報とは、違います)おそらく地上で、爆発したものではないかと、今も調べられています。原爆は日本製。とてもショッキングです。

日本人はもっと眼をあけないとならないですね。

ロシアからの貴重なフィルムは、どのようなものでしょう?日本で公開されるのは、まだまだ先になるのでしょうね。

このフィルムの贈呈についても、日本でのニュースもありません。

ロシアは正当な手段を使って、相手の政府に働きかけていますが、日本政府はこのようにして、報道も許していないのです。

実に悲しい事です。

本当に原爆についてどのように、国が考えているのか、私達に見せているのは、見せかけだけですね。

 


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ハリマオは実在の人物で日本軍の工作員

2016-07-31 12:30:51 | 歴史

♫ 「怪傑ハリマオ」は、テレビの子供番組で、当時見なかった子供はいなかったのではないでしょうか?

三橋美智也の歌で始まるこの番組をみて、サングラスのハリマオに子供たちの心は釘づけになりましたよね。

このドラマには谷豊というモデルがいたそうです。実際に両親と共に、マレーシアに渡っており、両親は理髪店を営んでいました。

この記事は後編です。前篇はほぼ、テレビのハリマオを彷彿とさせる内容です。

私がちょっとあれっと思ったことを、記しておきたいと思います。

彼の父親は当時なかなかできなかった、アメリカへ理髪の勉強にでています。これはかなり謎がありそうですね。

そして、福岡出身ですが、なぜかマレーシアで理髪店を営んでいます。

日本の陰謀を読んでいると、このハリマオの両親のような、ご本人達にはわからないようにして、支配者は策略というものの種を撒いているのだと、このごろ解るようになりました。

時間を掛けてそのようにしていくのでしょう。谷豊の父親にもハリマオと同じような気質があったようですから、そういうことも、見据えたうえでの工作を何十年も前から仕込んでいたのではないかと、私は考えます。

日本人なのに、マレーの盗賊となり、親から勘当された谷豊は、両親に喜んでもらいたいからでしょうか。最初は拒否していても、説得がうまかったのでしょう。軍の工作インとなってしまったのです。

若くして逝った彼には、罪はありません。彼の前半のようすは、テレビでのハリマオそのものです。マラリアにかかって亡くなったそうです。

テレビでドラマになったのも、褒め殺しでしょう。

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「怪傑ハリマオ」

「ハリマオ」の画像検索結果



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http://dogma.at.webry.info/200612/article_25.html より転載

注:以下のエントリの後編にあたります
マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(前編)また
「その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市」の外伝にも相当

後編:

【敵要塞とマタドール計画】

これまでの戦史では、軍の秘密指令を受けた谷豊の一党は、失敗続きで、帝国陸軍のハリマオ工作は不発に終わったとされていた。

しかし『神本利男とマレーのハリマオ』で初めて明かされた谷豊の行動は、まったく違うものだ。

谷豊の配下には盗賊くずれのマレー人しかいなかったと見られていた。
ハリマオ一党は数百人規模で、「配下3,000人の大盗賊」は噂に過ぎなかったが、 実際はメンバー各自が様々な特殊技術を持つ集団であった。例えばザカリアという男は、火薬のプロフェッショナルで、爆破工作で力を存分に発揮していたという。

昭和16年秋…
戦争を予感していたのは英軍も同じだった。
開戦となった場合、イギリスが誇る東洋の最重要基地はシンガポールにあり、そこを目標にすることは明らかだった。

日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定。マレー北部に要塞を建設し、陸軍の動きを止めることが急務でもあった。

そこで英軍はタイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設していた。これがマレー戦記には必ず登場する「ジットラ・ライン」である。

その建設現場に現地人としてハリマオ一党が浸透していた…

マレー人労働者にサボタージュを呼びかけ、セメントなどの重要資材を湿地に投げ捨てる…また、トーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を陸軍に送ったという。

「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と英軍は豪語していたが、いざ戦端が開かれると、わが帝国陸軍は大激戦の末、僅か2日間でジットラ・ラインを突破している。

3ヵ月の予測がたった2日だ…
谷豊の建設遅延工作が実った結果でもあった。

長期の激戦が避けられたことで、何千人の陸軍兵士の貴重な命が救われたことか…それは英軍兵にとっても同じだ。

また、英軍は開戦に先立ってタイ南部に上陸する日本軍の兵団を水際で駆逐する「マタドール計画」を進めていた。

英軍の精鋭部隊が密かに国境を越え、迎え撃つ作戦だった。その極秘作戦の情報を掴んだのもハリマオの配下だった。昭和16年7月に察知し、9月には作戦の概要が明かなっている。結局、「マタドール計画」は不発に終わる。

【『F機関』藤原参謀との初対面】

大東亜戦争開戦2ヵ月前、バンコクにひとりの情報将校が赴任する。のちに「F機関」を率いる藤原岩市参謀(開戦時少佐)だ。

画像


「ハリマオ工作」の名付け親は藤原参謀だった。藤原参謀は、ハリマオ一党の活動を高く評価し、特に谷豊という日本人に興味を抱いた。開戦直前には、タイ南部で直接会う手筈を整えていたが、尾行の危険性があったために止むなく断念している。

2人が対面を果たすのは、開戦のちょうど1ヵ月後だった。場所はマレー北部の小さな村。ハリマオ一党が新たに英軍陣地の後背に向かう直前の、偶然の出会いだった。

その時の模様を藤原参謀は著書『F機関』の中で、こう書き記している。

「なに谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」(略)私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである」

「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。(略)

私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、『谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった』と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。

谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった」
(『F機関』176頁)

余りに遜った態度に藤原参謀は驚き、そして、マレー人になりきった過去の境涯をしのんで、いじらしく感じたという。

藤原参謀がダム破壊工作の成功を称えると、谷豊はこう答えた。

「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。

この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」

これに対し藤原参謀は更に労いの言葉をかける。

「『君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ』というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

『有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません』としみじみ述懐した」
(前掲書177頁)

2人が初対面した時、谷豊はすでにマラリアに冒されていた。

【最終目的地シンガポールへ】

わが日本軍が快進撃を続ける一方で、谷豊の病状は悪化していた。

初めての対面から約1週間後、藤原参謀の元に「谷豊がマラリアを再発し重篤だ」という報せが届く。そして、谷豊と行動を共にしている神本利男に対し、早急にジョホールバルの陸軍病院に移すよう連絡した。

「一人として大切でない部下はいない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。

敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)

時は1月14日。
シンガポール陥落まであと1ヵ月…

ジョホールバルはマレーシアの最南端の大都市で、海のすぐ向こうがシンガポール島だ。
神本利男は担架に谷豊を乗せて運び、陸軍病院に運び込んだ。その直前、神本は谷豊を抱き起こしてシンガポールの町の灯りを見せた。

「おれのテリトリーはマレー半島だから、シンガポールは関係なしか…」

そう谷豊は呟いたという。

ハリマオ一党の最終目的は、日本軍をシンガポールに進めることだった。谷豊は自らに課せられた使命を無事、終えようとしていた。

【ハリマオ、白い布とともに消える…】

「私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った」

藤原参謀と谷豊の再会は、シンガポールの兵站病院の一室だった。陥落から数日のことである。

その前に、藤原参謀は軍政監部の馬奈木少将と直談判し、谷豊を軍政監部の一員として起用することを要請していた。

「見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは『充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません』と謙きょにわびた。

私は『いやいや余り無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね』というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。

私は更に『谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ』と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ『私が!谷が!日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!』と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った」
(前掲書269頁)

官吏とは今の国家公務員に相当する。盗賊として日本人からも白眼視されていた谷豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだった。

そして、この日が2人の終世の別れとなった。

画像


昭和17年3月17日。
ハリマオとして名を馳せた谷豊は力尽きた。
享年30。

臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったという。それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものであった。

谷豊の棺は部下たちに担がれ病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬された…

【英霊となったハリマオ】

その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていた。
そこで訃報を受け取ったのだ…

「北部マライの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に返った。彼は私の厳命を遵守して、彼は勿論、その部下も私腹を肥やす一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった…」

藤原参謀は、直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、諒承を得る。それによって谷豊は英霊として靖国神社に祭られることが決まったという。

盗賊の頭目となった頃、谷豊は勘当同然となり、日本に戻ったままの家族とは音信不通になっていた。
■家族写真(左が豊)

画像


肉親を捨て、祖国を捨て去っていたのだ。だが戦乱によって、谷豊はごく短い間にすべてを取り戻し、そして英霊となった。

画像


開戦の1ヵ月前、谷豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いている。その文面は、たどたどしいカタカナで綴られていたという。

「お母さん。
豊の長い間の不幸をお許し下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。

お母さん!
日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。

お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。

豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。

お母さん!
豊が死ぬ前にたった一言!いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。

お母さん!
どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん!長く長くお達者にお暮らし下さい」

      〆

 快傑ハリマオ オリジナル バージョン


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ヒトラーの最後はドイツではなかった アルゼンチンへ・パラグアイで没<追記>

2016-07-10 12:27:00 | 歴史

♫すでにPCでは、ヒトラーがアルゼンチンに逃れて、バチカンの保護のもと暮らしていたと、いわれています。

このことを、更に裏付ける公になったニュースです。

そして、ドイツのメルケル首相は、ヒトラーの血筋とも言われていますね。ご本人には、罪はありませんが、このようにして、世界の支配者は血筋が何かと繋がっていて重要なようです。

ヒトラーも傀儡政権だったのです。大芝居の政治家をやりとげて、自殺に見せかけて、あの時代でも、生き延びていたのです。

アメリカの主要な大統領も傀儡政権であったと、告白をしています。アメリカの大統領もアベシュショウと同じで、

日本も同じでしょう。

~~~~~~~~~~~~~

2016年07月09日 19:45スプートニク日本より転載

ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーが1945年4月にベルリンの防空壕で自殺せず、南米に逃げたと仮定した場合は?ここで、疑問が生ずる。彼の遺体はどこに眠っているのか?

 

アルゼンチンで最近出版された新著「亡命中のヒトラー」で歴史家アベル・バスティ氏は、ナチスの指導者の第二次世界大戦後の生活について、独自の説を展開している。

 

1945年、アドルフ・ヒトラーは、10年間住んでいアルゼンチンに避難を求めた可能性がある。しかし、1955年、フアン・ドミンゴ・ペロン政権の打倒後、新しい住み家を模索しなければならなくなった。他の多くのナチスと同じように、ヒトラーはパラグアイに渡り、ドイツに出自を持っていた独裁者アルフレド・ストロエスネルの後援の下に暮らした。バスティ氏がスプートニクの独占インタビューで語った。

バスティ氏は著書の中で、ヒトラーや他のナチス高官がパラグアイで暮らしていたことを裏付ける諸々の証言を参照している。バスティ氏によると、ヒトラーは1971年2月3日に死亡した。

「長年にわたって彼を助けた裕福な家族は、葬儀の執り行いを引き受けた。ヒトラーはパラグアイ首都アスンシオンの地下壕に埋葬された。 1973年に地下壕への入り口は密閉され、最後の別れには40人が駆けつけた。その後、出席者の一人、ブラジルの軍人フェルナンド・ノゲイラ・デ・アラウージョが、式典について新聞に語っている」

それはソ連軍によってベルリンの地下壕が制圧される数日前に始まった長い旅のフィナーレであったかもしれない。本物のヒトラーは影武者の死体を残して愛人エヴァ・ブラウンとともに地下通路から空港へ脱出し、スペインに、次にはカナリア諸島へ飛んだ。そこから潜水艦でアルゼンチンのコモドロリバダビアに向ったのだ。

「ヒトラーが逃げ延び、ソ連の手に落ちないということについては、米国との合意があった。それはまた、その後対ソ戦に参加した多くの科学者、軍人、スパイにも関わることだ」と歴史家。

アルゼンチンから逃れた後、1955年にヒトラーはパラグアイのイパカライ湖のほとりにあるホテルに住んでいた。その後、パラグアイ独裁者の最初の妻ストロエスネルに属する家に住んだ。アルゼンチンの歴史家によると、ナチス指導者はまた、ブラジルとコロンビアを訪問した。

いずれにせよナチス・ドイツの独裁者の人生の物語は、まだ謎と曖昧さに満ちている。

先に報じられたところによると英国で「ミス・ヒトラー2016」コンテスト が開催された。これは英国のユダヤ人団体の不満を引き起こさないわけがなかった。

「晩年のヒトラー」の画像検索結果

追記=======

♫この記事にコメントしてくださった方がいました。遅くなりましたが、写真を掲載しました。

このヒトラーを支援していたのは、他でもないバチカンだそうです。世の中のからくりを知ると

それは、糸がほどけるように、わかってきますね。日本の着物姿のヒトラーの写真もありますし、ニホンとの関係は、ただならないと思います。当時日本とドイツは同盟国でした。

   。。。。。。。。。。。。。

~再度投稿してみます~
この情報を最初に入聞したのは、知人から借用した、元シーアイエイのエージェントだった、バージル・アームストロング氏の訪日時の講演録音テープでした(19996年ごろ)。氏は、師事するシスターに言われるまま、夜瞑想していた時に、「講演しなさい」との天啓をうけて覚醒し、世界講演旅行が始まったとの事。**ご存知かもしれませんが、此れが晩年の姿のようです、一番上の左の写真**http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%99%A9%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC

コメント (2)
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古代プラズマ兵器「ガブリエルの箱舟」プーチンが南極に輸送中<>

2016-06-16 10:58:52 | 歴史

http://tocana.jp/2016/03/post_9162_entry_3.htmlより転載

http://www.dailystar.co.uk/news/weird-news/482764/ark-of-gabriel-russia-saudi-arbia-mecca-grand-mosque-ancient-weap

(2016・3・21)

古代プラズマ兵器「ガブリエルの箱舟」ついに発見される?プーチンが南極に輸送中

 

 現在、「ロシアが国家最高レベルの大艦隊を組み“あるもの”を南極へ輸送している」と、世界中のオカルト愛好家らが注目しているという。それもそのはず、ロシアの大艦隊が輸送しているのは、なんと伝説のアーク(聖櫃:せいひつ)である「ガブリエルの箱舟」だというのだ。


■「ガブリエルの箱舟」とは

「ガブリエルの箱舟」とは何か――。古代イスラム教写本によると“天使ガブリエルがイスラム教創始であるムハンマド(モハメッド)に託した強大な力を持つアーク(聖櫃)”のことだという。これは世界の終わりを意味する「キヤマハの日」の開示まで、崇拝所である“神殿”に埋めるよう大天使ガブリエルが啓示を下したといわれているものだ。

そんな伝説の「ガブリエルの箱舟」がなんとイスラム教で最も神聖なマスジド・ハラームの大聖堂(モスク)の地中から発見されたというのだ。これが事実なら歴史的にも大きな発見であり、とりわけイスラム教徒にとっては重要な意味を持つ遺跡であることは間違いないだろう。

 しかし、なぜこの箱舟をロシアが輸送することになったのだろうか――。それは昨年9月のイスラム教の「メッカ大巡礼」にまでさかのぼる。イスラム教で最も神聖な場所マスジド・ハラームの大聖堂(モスク)の改修工事中に起きた、暴風によるクレーン倒壊事故を覚えているだろうか。巡礼中のイスラム教徒ら107名もの犠牲者を出したモスク史上最悪と呼ばれる事故である。

この事故について英メディア「Daily Star」は、このクレーンの倒壊事故は報道にあるような“暴風”のせいではない、と主張しており、「大聖堂(モスク)の改装工事中に発見された『ガブリエルの箱舟』を掘り起こそうとしたためである」と報じているのだ。

 事故のあった9月11日、大聖堂の地中深くから神秘的な箱を発見した作業員らは、作業を進めるためその箱を掘り出そうとしたところ、強烈なプラズマバーストが発生し15名の作業員が即死、その強烈なプラズマにより作業クレーンが倒壊した結果このような大惨事となったということだ。

 その後9月24日にも再度発掘を試みるも、またもや大規模なプラズマが発生しモスク巡礼中だったイスラム教徒ら4000人以上が死亡、数万人がパニックに陥ったのだ。この事実をサウジアラビア当局は「メッカ巡礼の教徒らが殺到し、将棋倒しになった圧死事故」と発表しており、真実の公表は一切していないということだ。


ロシアの最強艦隊に守られ南極

 しかしながら、この事態を重く見たマスジド・ハラーム大聖堂の代表らは、この巨大な力を持つ「ガブリエルの箱舟」について、迫害を受けていたイスラム教をカトリック十字軍から守ったとされるロシア正教会に相談したという。ロシア正教会キリル総主教はこの事態をロシアのプーチン大統領に連絡すると、大統領はすぐさまロシアの海軍調査船「Admiral Vladmirsky」へ南極任務を命じただけではなく、3日後にはシリアのイスラム国テロリストをターゲットした爆撃を開始するのだ。

 ロシアの海軍調査船がサウジアラビアのジェッダ港に収集された理由について、ロシア当局の正式な説明はなされていない。しかし、ソヴレメンヌイ級駆逐艦、ミサイル巡洋艦、大型海上給油艦そして海賊対処部隊の救助曳船までもがジェッダ港へ召集されてることに対しロシア海軍のスポークスマンは「船の乗組員の休息と、食料と水の補給のため立ち寄った」と発表している。 

 その発表に対し「Daily Star」紙はサウジアラビアロシアの国際関係が悪化している今、そのようなことはありえないと一蹴、「ガブリエルの箱舟」を乗せた調査船を護衛するため、このような大艦隊がジェッダ港に召集されたのだ、と報じているのだ。現在この「ガブリエルの箱舟」はサウジアラビアのジェッダ港を出発し、ロシアの大艦隊に守られ南極へ向かっているという。しかし輸送されているものが何なのか正式な報道は一切許されていないという。ただ、ロシアがサウジアラビアから“何か”を南極に移動する支援をしているのは事実だということだ。

 この「ガブリエルの箱舟」は、映画インディ・ジョーンズシリーズで知られる失われた伝説のアーク「契約の聖櫃(せいひつ)」を想起させる。雷のような力を持ち、それを手にしたものは世界を征するといわれている伝説のアークである。今年2月にはロシア正教会のキリル総主教の南極入りもニュースになった。何かが南極で始まろうとしているのは間違いないようだ。
(文=遠野そら

 ~~~~~~~~~~~~~
♫ ロシアの艦隊が中東から物々しく南極へ向かったその理由は、これだったのですね。そして、サウジアラビアでの巡礼者が倒れたのも、あれは落雷だと言われていましたが、プラズマ兵器、が出てきたのですね。(写真は元記事のトカナに掲載されています)
 
掘り起こそうとしただけで、プラズマ兵器が作用したのなら、ロシアはどうやって、それを運んだのでしょうか?不思議ですね。そこに、宇宙人が関わらなければ、このようなことは、できないのではないでしょうか?
 
歴史がまた一歩近づいてきました。



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核実験の数、南太平洋にて350回も 仏米英は謝罪すべし<>

2016-06-06 00:31:28 | 歴史

http://www.huffingtonpost.jp/satoshi-kamata/nuclear-test_b_7022316.html より一部転載しました

核実験の悲劇の地 南太平洋の体験

投稿日: 2015年04月08日

(前略)

南太平洋では、フランスがポリネシアで211回、アメリカがマーシャル諸島、キリバスで107回、イギリスがミクロネシアで38回など合計350回以上の核実験を行った(前田哲男著『棄民の群島』による)。

実験作業に従事したポリネシアやミクロネシアの住民が被曝し、緑豊かな美しい島々は、植民地支配の最後の負の遺産ともいうべき、核実験の悲劇の地にされた。

アイゼンハワー・アメリカ大統領が、「アトムズ・フォ・ピース」(原子力の平和利用)を宣言したのは、1953年だった。が、翌年3月1日、ビキニ環礁のナム島で、米軍の15メガトンの水爆実験がおこなわれ、「ブラボー実験」と名付けられた。


■「白い雪」が降った


核被害の記憶を刻む記念碑(ピースボート提供)

米軍は成功に拍手喝采だったかもしれない。しかし、この実験で爆心地から約200キロ離れたロンゲラップ環礁では、ヤシやパンやバナナの木の葉の上に、雪のような死の灰が降り続けた。被爆した86人の島民は、脱毛、嘔吐(おうと)に苦しみ、「ヒバク難民」となって故郷に帰り着いていない。

白い雪はおなじ時、おなじ環礁内で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」にも降り注いだ。この乗組員23人のほか、900隻、推定2万人にもおよぶ日本漁船の乗組員の被害の実態は、闇に閉ざされたままだ。

3月1日は、第五福竜丸遭難の記念日であり、3月12日は、福島原発連続爆発事故の4周年であった。

パペーテにある、1966年7月2日広場は、昨年、ガストン・フロス仏領ポリネシア前大統領が、撤去することを閣議決定した。そのあと、世界的な反対運動が起きたが、大統領が不祥事によって失脚、破壊、撤去は免れた。

いまだ核兵器依存の悪癖は、除去されていない。人類は原発をふくむ、もっとも危険な核施設を捨てるほどに、賢明になっていない。

「原子力の事実を知った市民は、きっと死のためではなく生のために行動してくれるであろうと信じている」(アインシュタイン。1947年、雑誌アンケートに答えて)


AJWフォーラム英語版論文

(2015年4月2日「AJWフォーラム」より転載)

~~~~~~~~~~~~~~

♫ 私自身若いときに原水爆反対運動をしている人が、身近にいましたが、考えることすらできませんでした。原爆は嫌なものだと知りながら、運動に参加することには、躊躇するものがありました。

そして、今の私がいるのです。

きっと多くの日本人が、わたしのように知っていても、そのことについて、考える時間を持てなかったと思います。

人生は短くあっという間に過ぎてしまい、たどり着いたところが、少しも良いところではありませんでした。

日本は進歩していくものだと想像していただけでした、逆戻りすらできるのだと、知りました。

原爆のこの回数を聞いただけでも、ぞっとしますよね。植民地って、こういう事が簡単にできてしまうのです。住民は今でも病気をかかえているのです。

広島・長崎・福島と同じです。

オバマの訪問スピーチでもこの実験地については、何も言っていませんでしたね。

日本人はこの核実験に使われた、南太平洋の島々の事も、忘れないようにしましょう。

アメリカ本土の核実験では、実は人間が実権に使われていたことも、昔本で読み知っています。

恐ろしいことを、平気でするのは、戦争の為です。恐怖を乗り越える為に兵器を作り続ける必要が生まれるからです。それを、世界の支配者たちが奴隷に仕込んだのです。今もニホン政府は、中国や北朝鮮の脅威を国民に仕込み中です。

このような地球はもう沢山ですね。うんざりです。

地球人類の奴隷解放はもうすぐ!!!

私達はまけない!!!

宇宙人のともよありがとう!!!

 


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