The Revelation Of The Pyramidsピラミッド5000年の嘘
♬見たかったです。アップしてくださってありがとうございます。
The Revelation Of The Pyramidsピラミッド5000年の嘘
♬見たかったです。アップしてくださってありがとうございます。
https://youtu.be/dNLL5TPIhsE?t=227
♬私はどんなところからも、調べるきっかけになると思っています。
自分で興味をもったら、もうあなたは独学で勉強できます。
PCは、現代の独学のツールとしては、最高です。
BS1で、ただ今「沖縄と核」を放送中です。
ニュースの後は後半です。
沖縄には核があり、誤作動で海に核ミサイルを発射と前半ではありました。
「上を向いて歩こう」坂本九
https://youtu.be/C35DrtPlUbc?t=72 (アメリカではすき焼きソングといったそうです。英語つき)
♬下の写真は、アメリカ人が写したものですが、その説明が
火葬の順番を待っているとしています。背中の弟の為の火葬だということです。
でも私は、彼の眼と口元から、もっと別の事も想像しています。
親の火葬中、背中の妹か弟は、寝入っているだけだと思います。
こういう光景は昔はよくありました。背中の子供が寝入ってしまうとこうなります。
親を失ったであろう彼のくやしさと、茫然とした目が、私にはそう見えるのです。
それは、直立不動の姿勢にも表れていると思いました。親への尊敬の姿勢です。
背中の弟の順番を待つという説明では、彼のくやしさと涙をためているようなうつろな目の
本質がどこかへやられているように思います。
そして、坂本九の歌はアメリカ人にも歌われています。
この歌は、この写真と私はセットにしました。
思い出す楽しかった家族の春はもうなくなり、夏の日に一人ぼっちになってしまった。
原爆へのくやしさを秘めて、歌ったものです。(永六輔の話です。)
中村八大 永六輔 坂本九 (8月6日、9日)を忘れないでいましょう。
http://www.asyura2.com/16/warb17/msg/827.html
(原爆は日本製)
♬NHKの番組 BS3チャンネルの「体感!グレートネイチャー第7の大陸ジーランディア誕生の秘密」
を見ていました。番組冒頭から1時間弱のところで、ニュージーランドのキュリオベイという場所で、潮が引いた後の
海辺に岩が露出しました。
地質学者の説明で、それは「かつての木の化石だ」という話でした。
そして、潮が満ちると海水に浸っているその切り株は、まだ中心部は木の年輪がみてとれ、色も木そのものでした。
番組でも岩のように固いと言っていました。そしてその化石はおよそ、1億8千年前にできたものだと、
いう話でした。倒木もあり、それらも固い岩に変化していました。
これはエデンメディアの動画にありました。
とまったく同じです。
あの、古代の木々が大きな切り株のまま山となっていること、そして岩となっていることを、この番組でも
証明されたのです。
動画の作成者に、「おめでとうございます!」
『この地球に山や森は存在しない』 (前編)
http://okinawasen.nomaki.jp/ より転載しました。
始めに
沖縄は今でこそ、南国気分を味わえる海でのシュノーケリングやダイビング、独特の琉球文化など、修学旅行や観光の人気スポットとなっていますが、第二次世界大戦末期の1945年、太平洋戦線での日米間最後の大規模戦闘、かつ国内最大規模の地上戦となった沖縄戦があったことも忘れてはなりません。
このページは、アメリカの『GlobalSecurity.org』というサイトにある、沖縄戦の経過や死傷者数などについて記述したページ、 『Battle of Okinawa』を日本語に訳したものです。 アメリカ側の見方に少しでも触れられればよいと思って作りました。
沖縄戦
沖縄戦は太平洋戦線で最大規模の上陸作戦であり、太平洋戦争における最後の主要な軍事行動であった。 多くの船が使われ、多くの兵士が上陸し、多くの物資が輸送され、多くの爆弾が落とされた。そして太平洋での他のいかなる作戦よりも多くの艦砲射撃が陸の目標に対して行われた。沖縄戦の間に、広島と長崎の原爆投下の間に殺されたすべての人より多くの人が死んだ。3万8000人のアメリカ兵が負傷し、1万2000人が死亡、10万7000人以上の日本および沖縄の徴集兵が死亡し、10万人の沖縄の民間人が殺された。
沖縄戦は太平洋戦争中で最も血みどろの戦いとなった。連合軍の艦船34隻が沈められ、そのほとんどが神風特攻によるものだった。また、368隻の艦船が破損した。艦隊は763機の航空機を失った。 この作戦におけるアメリカ兵の総死傷者数は1万2000人に達し(海軍の死者5000人、海兵隊と陸軍の死者8000人)、3万6000人が負傷した。また、海軍の死傷者数は物凄かった。1人に負傷者に対して5人の死者という海兵隊の比率に対して、海軍は1人の負傷者に対して1人の死者という比率だった。
戦闘によるストレスもまた、多くの精神的な死傷者、つまり前線兵力のひどい損失を引き起こした。また2万6000人以上の非戦闘員が死傷した。沖縄戦では、戦闘での負傷による損失の割合として表される、戦闘によるストレスによって生まれた損害の値は48%であった(朝鮮戦争では20~25%、ヨム・キプル戦争では約30%)。沖縄戦におけるアメリカ軍の損失があまりにひどかったため、米議会は軍の指揮官の行いに対する調査を求めたぐらいだった。人命、時間、物資の点から、沖縄戦のコストが、日本に対して原子爆弾を使用するという6週間後の決定に大きく関わったが、これはもっともなことである。
日本側の人員の損失は莫大だった:10万7539人の兵士が死亡し、2万3764人が洞窟の中に閉じ込められたか、または日本兵によって殺された。1万755人が捕虜となったか、降伏した。日本軍は7,830機の航空機と16隻の戦闘艦を失った。 沖縄の住民の多くが洞窟に逃げてその後死亡したので、民間人の死傷者の正確な数はおそらく決してわからないが、低く見積っても4万2000人が殺された。民間人のほとんど3分の1が沖縄戦で死亡したという推計もあるが、民間人の10分の1から4分の1が死亡した。作戦の計画段階における米軍の記録によると、沖縄にはおよそ30万人の民間人が住んでいると推定されていた。そして戦闘終了時にはおよそ19万6000人の民間人が残っていた。しかし、米軍は、82日間の軍事作戦で、艦砲射撃、空襲、および日本軍によって強制的に動員されて死傷した人々を含み全体で14万2058人の民間人が死傷した、と結論付けた。
(中略)
首里防衛線に対する激しい攻撃は、牛島司令官に、最後の防衛線である南部の喜屋武半島への撤退を決断させた。彼の軍は5月23日の夜に移動し始めたが、米軍の進軍を遅らせ続けるために後衛部隊を残していくことを忘れなかった。移動することができないほど負傷した日本兵は致死量のモルヒネを注射されたか、または死ぬように単に置き去りにされた。6月の1週目までに、米軍は6万2548人を殺した一方、465人の敵軍だけしか捕らえていなかった。 それから戦闘終結までには激しい闘いに2週間と、包囲されたまま断固として抵抗を続ける部隊に対する、爆弾と火炎放射器を使った掃討作戦にさらに2週間かかった。6月23日から29日の間に行われたいわゆる掃討作戦の戦闘では敵の死者9000人と3800人の捕虜という結果を上げた。日本人の間で、自殺の発生率は戦闘の最後の時期に急上昇した。敵の死者に対する調査がそれを明らかにしたところによると、多くの人が降伏するよりむしろ手榴弾を抱いて、各個人の戦いを終わらせていた。牛島司令官は天皇に対する義務を果たしたと確信して6月16日に儀式的自殺(切腹)をした。
沖縄戦を終わらせる降伏文書は、1945年9月7日に現在嘉手納空軍基地がある場所で調印された。沖縄で銃撃がやむずっと前に、戦闘部隊のすぐあとに続いて上陸した技術者や建設大隊が、沖縄本島を日本本土への計画された進攻のための主要な基地に作り変えていた。
(♬文中の黄色印は、私がつけました)
~~~~~~~~~~~~
♬ 昨日は日本の終戦記念日でした。しかし沖縄戦の終結は9月7日でした。
本土だけの終戦記念日って、おかしくないですか?
http://www.asyura2.com/15/genpatu42/msg/261.html
書いてもええか?米国の原発特許所有者が東京にいる
http://www.asyura2.com/15/senkyo194/msg/744.html
(略)
◆◇【2】◇◆
◆小出裕章氏『原発と戦争を推し進める愚かな国、日本』出版記念講演会 2015年9月19日
https://www.youtube.com/watch?v=kFpf1W-n7Vk
天皇は人間宣言をして生き残りましたけれども、戦争責任はついに問われませんでした。
なんで天皇が生き延びたのかと言えば、巨大な権力組織というか、天皇を頂点にして巨大な権力組織が戦争を進めたわけですが、その戦争で負けたけれども、やっつけた方が強かったわけですね、もちろん米国を含めた連合国という方が強かった訳ですけれども、権力犯罪と言うのはより巨大な権力によってしか罰せられないと言うことになっているわけですし、より巨大な権力だった米国の方が天皇を生き延びさせることで、戦後の日本を支配しやすくすると言うことで、天皇が生き延びてるということになっているわけです。
この権力犯罪の問題と言うのは、原子力の問題を考える時にも、大変重要な見方だと、私は思います。
◆岩上安身による京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏インタビュー 2014年2月3日
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/124093
小出氏「原爆を作るための技術というのは、核分裂性のウランを濃縮するというウラン濃縮という技術。それからプルトニウムを生み出すための原子炉。それから、生み出されたプルトニウムを取り出すための再処理という三つの技術」
小出氏「現在の国連常任理事国である米国、ロシア、イギリス、フランス、中国の五カ国は、その三つの技術を持っている」
小出氏「核兵器保有国5カ国のほかに、世界で1カ国だけ、この三技術を持っている国がある。それが、日本なんですね
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♬ 今日は広島に続いて、核爆発実験が行われた悲惨な日です。これは日本の支配者によるものでした。真実の歴史はいずれ公になるでしょう。
国民を犠牲にして、そうして大儲けをしてきたのです。世界一の大富豪は日本にいるのです。
アメリカが超大国のように思わされてきたのも、実に巧妙なコントロールでした。隠れ蓑です。
国民はアメリカに降伏したと、信じていました。ですから偽ユダヤのコントロールが政治家にできて
まるで関与していないように、思わせることも可能です。実にバカバカしいです。
これは、私の妄想ではないです。たくさん調べて本も読んできました。その結果この考えに至ったのです。
中国大陸、朝鮮半島、東アジア侵略はまるで聖戦のように言う人達が、この大富豪の配下だということも、わかりますね?
この日本が?と信じられないかもしれないですね。あの10脳がと信じたくないでしょうね?
目の前の糸をたぐってたぐって、私も真実を知ることができました。
戦前から北朝鮮にウランが大量にあることを、支配者たちは知っていたのです。
日本人による原爆の研究がされていたことも、歴史的には言われていたことでした。日本の技術が
もっと上回っていたら、日本は勝ったとまで、私は聞いています。
これも、隠れ蓑でしたね。原爆そのものも、日本製だったのです。
寒々としてきます。このような10脳を私たちは崇拝しているのです。タブー視しているのです。
コントロールされているのです。
日本人はもっとも深い眠りにあるのです。なぜって、縄文人の人と争わないDNAがあるからです。
彼らにとってはコントロールしやすい国民だったのです。
日本人よ目を覚ませ!
私たちを愚弄してきた10脳がいる事を、知るのは計り知れないショックだと思います。そのショックは、これから生きる未来へと導かれるためには、必須なのです。
8月8日に宇宙のライオンゲートが開くとより覚醒する人が増えるそうです。
ですから、今台風を起こしているのです。そうではないですか? これも気象兵器なのでしょう。
気ままな台風は気象庁も説明に窮しています。
♬本日は、広島に原爆が落とされた日と、メディアは報じていますが、すでにPCの中では、広島と長崎で地上に核爆弾を置き、それを破裂させた証拠写真がでまわっています。
また、日本にいながら、この日に原爆の実験があることを、知っていた湯川秀樹博士についての記事もありますね。
この日は、アメリカとグルになって八百長戦争が行われた事が、いずれ公になるでしょう。
私たちは、皆騙されて戦争に行かされ、犬死になっていたのです。お国の為に子孫のためにというのは、国民へのコントロールに過ぎなかったのです。私たちはそういう意味で今日から戦争終結記念日まで、犬死にして無念な気持ちでいる魂を理解する必要があるのです。真実を亡くなった魂と共有する日です。
支配者のお堀の主は、金銀財宝を手にしたのです。女性も売り飛ばして大儲けしていました。
アメリカでは、小児性愛の為に、子供を売り買いしている組織が黙認されています。
ロシアではロシア人の孤児のアメリカ人への養子縁組を辞めています。どういうことかわかりますよね?
この組織が、日本にはないって、断言できないです。
公になっている、富裕層のほとんどが、法を犯しているのです。
そうして何食わぬ顔を国民に見せているのです。本当に信じられない人達ですね。
嘘つきばかりです。私たちは知っています。私たちは知っているのです。この国の嘘を、世界の嘘を。
♬ スプートニク日本に歴史的な面白い話がありました。
今日本の美術館で話題のエルミタージュ展に行くと、大きなエカテリーナ2世の肖像画に出会えます。
エカテリーナ2世はロシア国民に愛された人ですね。
これから開催されるのは、名古屋です。
そして、興味深い内容です。(元記事は画像を上にあげると、下から出てきます)
https://jp.sputniknews.com/culture/201706153763276/
「20兆円、徳川埋蔵金」は本当に実在するのか 隠し場所は「赤城山」か「あの場所」か?
徳川埋蔵金」が再び注目されている。
その額は「当時の貨幣単位で約400万両、現在の価値で20兆円」ともいわれており、埋蔵金の存在を信じる愛好家らによって、いまでも群馬県の赤城山麓等で探索が続けられている。
現在のところ、まだ発見には至っていないが、そもそも埋蔵金は「本当に存在」するのだろうか。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「徳川埋蔵金」を解説する。
大政奉還で江戸幕府が政権を朝廷に返上した翌年の慶応4(1868)年3月、官軍は東海道を下り、まさに江戸に攻め込もうとしていました。
そんな中で、江戸薩摩藩邸で行われた「西郷隆盛(官軍)」と「勝海舟(旧幕府)」との交渉によって「江戸城の明け渡し」が決定され、翌4月11日、徳川慶喜の江戸退去をもって、城は官軍に接収されました。
江戸城に入った官軍は、蔵の扉を次々と開け、そこから鉄砲など武器弾薬多数を発見します。しかし、肝心の「幕府御用金」があるはずの金蔵は、もぬけの殻。必死の捜索にもかかわらず、どこを探しても金銀は見つかりませんでした。
官軍は蔵番の役人25人を厳しく尋問したものの、誰ひとりそのありかを白状しなかったため、彼らは全員処罰されました。
そのわずか5日後の夜のこと。「ブルガリア国旗」を掲げ、甲板を外国人船員が行き交う「ある1隻の蒸気船」が、中国の上海に向け、人知れず横浜港を出航します。
実は「その船に『幕府御用金400万両』が積まれており、ひそかに江戸を脱出した」という説が存在するのです。
今回は「徳川埋蔵金」をテーマに、かねてより話題の赤城山麓ではない、「もうひとつの埋蔵金伝説」について解説します。
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1. そもそも「埋蔵金」なんて本当にあるのですか?
今回の「徳川幕府御用金」をはじめ、その真偽はともかく、日本国内だけを見ても、いわゆる「埋蔵金伝説」は数多く存在します。代表的なのは、下記の4つでしょうか。
【1】豊臣秀吉の埋蔵金(兵庫県川辺郡猪名川町)
豊臣秀吉は最晩年、幼い息子秀頼の将来を案じ、自らが蓄えた4億5000万両と金塊3万貫(112.5トン)を大坂城からひそかに多田銀山へ運び、坑道の奥深くに隠して閉山したといわれます。
そのありかを示すとされる巻物や絵図は、数多く伝わっています。
【2】武田信玄の埋蔵金(山梨県南巨摩郡身延町)
武田信玄は領国内に数多くの金山を所有し、これを「棒道(ぼうみち)」と呼ばれる軍用道路の各所に隠すよう、娘婿である腹心の部下、穴山梅雪に命じました。
武田家が滅んだあと、穴山梅雪は「本能寺の変」の混乱時に、一揆に襲われ命を落としますが、「このとき梅雪が所持していた書付(かきつけ)にその埋蔵場所が記されており、一揆の者たちがその幾分かを手に入れた」といわれています。
【3】明智光秀の埋蔵金(京都府亀岡市、滋賀県琵琶湖など)
「本能寺の変」で織田信長を倒した明智光秀は、信長の居城である安土城に蓄えられた莫大な黄金を手に入れると、この一部を朝廷や貴族、味方の諸将へと配り、さらに味方を募るつもりでした。
しかし、豊臣秀吉の素早い帰還によって明智光秀は破れ、「一族の明智秀満が、これを明智光秀の居城である亀山城ほか琵琶湖などに隠した」とする言い伝えや古文書が残されています。
【4】帰雲城の埋蔵金(岐阜県大野郡白川村)
世界遺産で知られる岐阜県白川郷の付近に、戦国大名内ヶ島(うちがしま)氏の居城である「帰雲(かえりくも)城」がかつて存在していました。
内ヶ島氏は近郊に点在する金山経営で栄華を誇っていましたが、天正13年(1586年)11月29日の深夜に、この地域をマグニチュード8.1の大地震が襲います。
その際、大規模な山崩れがあり、帰雲城は城下、住民もろとも跡形なく埋没してしまいましたが、一説にはそこに「5000億~2兆円の黄金が眠っている」ともいわれています。
Q2. これらの埋蔵金は、すでに発見されたのですか?
上記の例ではまだ見つかっていませんが、近年の都市開発等の工事現場で、掘り出された甕(かめ)から偶然、「大量の金銀貨幣」が見つかってニュースになるなど、実際の発見例はいくつもあります。
Q3. ズバリ、徳川埋蔵金はあるのですか?
おそらくは存在したでしょう。
確かに江戸後期には、幕府は度重なる財政危機に見舞われ、そのつど改革が行われるなど、非常に厳しい財政状況だったことは事実です。
しかし、江戸城が明け渡された際に金蔵がまったくのからっぽだったというのはいかにも不自然で、その額はともかく、幾分かの備蓄が幕府にないわけがありません。
Q4. では、有力な「隠し場所」の候補は?
しばしば「群馬県の赤城山麓」という説がテレビなどでは取り上げられています。ただ、信憑性には疑問符がつき、いまだに埋蔵金の発見には至っていないのが現状です。
Q5. なぜ「赤城山説」が取り上げられるのですか?
赤城山麓説の根拠は、「幕末期に勘定奉行を歴任した小栗忠順(ただまさ)が、ひそかに自分の領国の赤城山付近に運んだから」といわれています。
小栗は、開国後に幕府側でフランスと協力して「横須賀製鉄所」(後の横須賀造船所、現在は米軍横須賀基地になっている)を建設した人物です。
勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介らと並ぶ開明的な幕臣で、官軍側が最も警戒した人物でした。そのため、このような説が流布されたようです。
ただし、このほかに「もうひとつ有力な候補地」が存在します。それが、冒頭に挙げた「蒸気船」に関する、「ある不可解なエピソード」なのです。
Q6. その蒸気船の「正体」は?
仙台伊達藩の所有する「早丸」という軍船です。全長46メートル、2本マスト、418トン、当時最新鋭だったスクリュー動力の鉄製蒸気船でした。
1858年にイギリスで建造され、アメリカの南北戦争で使用されたこともありました。1867年に仙台伊達藩がアメリカから12万ドルで購入し、「早丸」(宮城丸とも)として兵員、武器、物資輸送に活用しました。
Q7. その「早丸」が「幕府御用金」を積んでいたのですか?
そう考えられる根拠は十分あります。
「早丸」は、江戸無血開城が行われた5日後の、慶応4年4月16日夕刻(新暦では1868年5月8日)に、横浜を出港します。
目的は「中国の上海で貿易を行うため」でしたが、実はそれらはすべて真っ赤なウソで、本当の使命は「徳川幕府御用金400万両の密送」だったといわれているのです。
Q8. 具体的な根拠はあるのですか?
決定的なものはありませんが、早丸の行動には不審な点が見られます。
出航にあたり、早丸は仙台藩所属の日本船であるにもかかわらず、なぜか「ブルガリア国旗」を掲げ、外国人を多数乗船させて、外国船を装いました。
さらには、わざわざ見通しの悪い夜に、水先案内人も手配せずに出発しています。
Q9. でも戊辰戦争では「仙台藩は当初は官軍側」だったのでは?
はい。仙台藩は当初の所属は官軍でした。
ただし、実際には倒幕への意識は希薄で、旧幕府側との全面対決を回避していました。そしてその後、旧幕府側として奥羽越列藩同盟を結成し、官軍と激戦を繰り広げて敗北します。
実は仙台藩主、伊達慶邦の妻(継室)は、15代将軍徳川慶喜の実妹で、慶邦と慶喜は義理の兄弟という間柄でした。
Q10. そうなると、仙台藩は幕府側にとって「絶好の隠れ蓑(みの)」になりえますね。
幕府御用金のような重要品を「一時的に預ける相手」としては最適です。
官軍が江戸に入城しても、味方である仙台藩の江戸屋敷には詮索の手は及びません。さらに、仙台藩は大藩のため江戸市中に多数の上中下屋敷を保有しており、その上屋敷は江戸城から約4キロメートルの芝口(現在の港区東新橋、日本テレビのある旧汐留操車場のあたり)にありました。汐留川に面した屋敷内の石垣造りの船着き場から、直に東京湾への水運ルートに通じる絶好のロケーションです。
ちなみにこの場所からは、汐留再開発工事の発掘調査で、堅牢な石垣の船着き場が発見されています。
Q11. 「早丸」は、江戸の伊達屋敷ではなく、横浜から出航していますが?
当時の東京湾は水深が浅く、大きな蒸気船は江戸城近くまで入れません。
しかも、蒸気船は非常に目立つうえ、江戸一帯は官軍の監視が厳しくて迂闊(うかつ)な接近は危険です。横浜までの御用金の運搬は「一般の荷船や漁船を装ったもの」と考えられます。
Q12. 「早丸」はその後どうなったのですか?
三浦半島付近で遭難、沈没してしまいます。
横浜を無事出発した「早丸」は、外洋に向かうため浦賀水道に入り、三浦半島の観音崎を経由して久里浜沖にさしかかりました。
ところが、夜間で見通しがきかなかったことに加え、当時は目印となる灯台もなく、水先案内人を同乗させていなかったことから、「海獺島(あしかしま)と笠島の間にある暗礁」に乗り上げ、まもなく笠島の南方数百メートルの地点で沈没しました。このときの死者は約60人にも上り、39人が沖に出ていた漁船に救助されています。
Q13. では「早丸」の積み荷の行方は? 海底のままですか?
はい。いまも多くは海底に眠ったままです。この地域で漁を営む人々の話では、海獺島の南方約300メートルの場所に船が1隻沈んでおり、いまも網がよく引っ掛かるとのことで、これが「早丸」だという説もあります。
事故当時、早丸には幕府御用金400万両のほか、メキシコ銀貨(当時の国際通貨)6万ドル、伊予別子銅山産の銅104斤、欧州産青銅製の器物40万斤、毛織物・生糸・小銃弾薬等の雑貨200箱、越前藩が作らせた黄金の灯籠、仙台藩の黄金53万両が一緒に積まれていたとされ、沈没後、付近の海岸には唐糸、生糸といった積み荷がいくつか漂着したようですが、金銀についての報告はありません。
その後、明治から太平洋戦争中にかけて何度か探索されたものの積み荷は見つかりませんでしたが、昭和57(1982)年1月27日、天野富太氏による調査で、1個の重さが22キログラムある地金(インゴット)らしき銅21個が引き揚げられ、「早丸」のものではないかと注目を集めました。
近年では、NHKの協力のもとで本格的な水中探査も行われましたが、「早丸」と同じ蒸気船らしき船体が発見されただけで、金銀のたぐいは発見されていません。
もし、「早丸」に幕府御用金が積まれていたのが事実で、さらに不幸な遭難を逃れていたらどうなっていたでしょう。
おそらく、船の行き先が上海というのは偽装で、旧幕府はこれらを軍資金にフランスやアメリカから軍艦や大量の武器を購入し、官軍に向けて反撃に転じていた可能性もあります。その場合、明治維新は実際よりも遅れるか、もしくは明治そのものが訪れなかったかもしれません。
歴史には、まだ史実として認められていない不確かな伝承や事柄が数多く存在します。
そうした一つひとつが具体的証拠の発見や研究の成果により事実として立証され、その成果を現代の私たちは「歴史」として学んでいます。近年も歴史の研究は進んでおり、ここ数十年で日本史もまた大きく進化を遂げています。
歴史には、知れば知るほど、こうした「ロマン」がいくつも隠されています。歴史を学ぶことは、「教養」を高めると同時に、それ自体が「知的な楽しみ」でもあります。
ぜひ歴史を学び直すことで、学生時代には味わいきれなかった「大人の知的な楽しみ」を実感してください
~~~~~~~~~~
♬ ということですね。
まだまだ金塊が日本にはありそうです。
権力者は誰もが同じことを考えるものですね。
いずれ、発掘されるかもしれませんね。笑
ピラミッドの内部を知る方法だって、あるのですから。
http://web.joumon.jp.net/blog/2013/10/1538.html
ドルイド教は、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。
ドルイド(Daru-vid)という名前の由来は、Daruが樫(オーク)、vidが知識の意味で、ケルト社会では「樫の知恵を持つ者」と言われています。強靭で大木となる樫は、「森の民=ケルト」の象徴でした。
そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、キリスト教以前のドルイド教を復活させようという動きが生じています。そこで今回は、
★ドルイド教とは、どのような宗教であったのか?
★キリスト教社会のヨーロッパで、なぜこのような動きが生じてきたのか?
について、考察したいと思います。
●古代のドルイド僧 (ウィキペディア)より
◆ドルイド教について
ドルイドになるには、長い修行が必要で、時には20年にも及んだそうです。修行の内容は、今日で言うと、神学を含む哲学、自然哲学、天文学、数学、歴史学、地理学、医学、法律学、詩学、演説法などを学びました。
修行の場所は人里離れた洞窟や秘密の森の中でした。教義の伝授は全て口伝で行われ、文字に書き取られることはありませんでした。ドルイドの修行の初めは口誦伝承から行っていたようで、「語り部(フィーレや バード)」を経てからドルイドの修行へ入るという説もあります。
「文字として残す」習慣がないケルト人にとって、口伝えでの口誦伝承は重要な記録を残す手段で、宗教の教典や法律の規則、戦争の武勲の記録、家系図など部族の歴史は語り部の暗唱によって保持していたからです。
『紫堂ゆかりどう「ドルイド)』より
ドルイドの教えは多岐にわたり、20年に及ぶ修行が必要であったとされます。そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、ドルイド教を復活させようという動きがあります。彼らは、自分たちのことを「ニュードルイド」と呼んでいます。これは、古代ケルト社会が文字を持たなかったこと、そしてキリスト教によって迫害されたため、古代ドルイド教の教えや儀式などが途絶えているからです。
現在のニュードルイドたちは、自然と密着し、自然を人間と同等と考え共存していくという世界観をもって集まっています。彼ら「自分たちは一種の主義というか、考え方を共有する者の集まりであって、宗教ではない。つまり、そこには絶対者もいないし、厳しい決まりごとものないのだ。」と言います。
●ニュードルイドの集まり(画像引用元)
ニュードルイドは、キリスト教から離脱して自然回帰する動きとも言えますが、このような潮流がなぜ生まれてきたのか?先ずは現在の主流をなすキリスト教の自然観を考察します。
◆キリスト教の自然観
キリスト教の場合、自然を創ったのは「神」という自然の外にある存在なのである。神がいて、人間がいて、自然がある。それは歴然と区別されているのだ。
神の代わりを人間がするようになっていく、神の意のままではなく、人間の意のままにした方がうまくいんじゃないか。そんな方向に進んでいくのである。
こういった考え方は、キリスト教特有のものだ。この延長線上に、自然科学が明確な形で打ち出されてくる。「人間と自然は異なる存在で、人間が自然を客観的に観察・考察する」という自然科学の考え方は、「神がこの世を創りたもうた」という論理とよく似ている。「神と世界」を「人間と自然」に置き換えているのだ。その後、人間はこうして生まれた科学技術によって「進歩」していくことになる。
河合隼雄著『ケルト巡り』より
西洋キリスト教社会では、人間と自然が別々に存在し、あくまでも人間中心主義であるため、人間の対立概念として「自然」が成立しています。従って、自然と人間が一体となることはなく、むしろ人間に圧力を与える対象として否定し、支配・制御する対象となってい。
では、キリスト教が普及する以前から存在していたドルイド教の自然観とはどのようなものであったのでしょうか?
◆ドルイド教の自然観
古代ヨーロッパ社会、ケルト民族の僧侶であるドルイドにとって、樫の木とヤドリギは最も神聖な植物とされていました。ドルイドは、魔術や呪術、医術などの知識を持ち、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界と神秘的な世界の橋渡しをする賢者として崇められ、ハーブを巧みに 使う魔女のルーツであるとも言われています。
多くのものが死や眠りに向かう厳しい冬の風に吹かれても緑の葉を誇るヤドリギは、沈黙に潜む冬の恐怖を追い払い太陽を元気づけ、大地に生き続ける生命を称える冬至祭の主役でした。生命が降って沸いたような姿から稲妻によって天から降りて来ると信じられ、不滅の生の象徴として多産や幸福の祈りや悪霊除けに使われました。
『ドルイドの聖なる植物・宿り木』より
●ヤドリギ(画像引用元)
※ヤドリギは、宿主の樹木の葉が落ちた冬でも、緑の葉をつけています。
ドルイド教という土着の信仰では、森の樹木には精霊が宿ると信じられ、中でも樫の木とヤドリギは神聖視され、生命や活力の源であると考えられていたようです。
これらから推測されるのは、キリスト教のように抽象的な(頭の中だけの)絶対神を信仰する宗教ではなく、具体的な自然の一つ一つに神が宿る=現実に存在する自然そのものを対象化する自然観そのものだと思われます。
そして、この自然観はむしろ日本に近いと考えられます。縄文以来の日本では、人間と自然が一体であり、世界の全ては自然の中に包含されていました。「自然」と「現実」は同義であり、自然に対する「一体感」「同一視」が、万物を包摂した「自然観」を形成してきたと考えられます。
現在のヨーロッパは、経済的に破綻し、混迷の度合いを深めています。ヨーロッパ社会の秩序や意識の根底にはキリスト教の観念があり、この観念に導かれた結果が行き詰まりとなっています。
そしてニュードルイドたちは、キリスト教特有の “自然を意のままに変えよう、支配し続けようとする”西洋の自然観(世界観)に違和感を持って、キリスト教以前の根源的な世界に何かを見出そうとしているようです。ニュードルイドの動きをまとめると次のようになります。
1.否定から肯定へのパラダイム転換
新しい自然観は、キリスト教のもつ「否定⇒制御」から脱却し、自然に対する「肯定⇒同化」として登場してきた。
2.ヨーロッパの辺境に残っていた共同体
その動きは、キリスト教の観念支配(中心はローマ)から遠く、森の民の気質な残る辺境の地アイルランドから生じている。その集団の在り方は、権力や絶対者のいない共同体として存在している。
3.自然から学び続ける
その姿勢は、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界に役立てようと志向している。それには20年以上の歳月を要し、学び続ける姿勢が重要となる。
ヨーロッパの辺境でこうした動きがあり、彼らの「自然から学び続けよう」という姿勢を、東洋で同じ辺境にある日本も学んでいくべきではないでしょうか。。。
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♬ ふとドルイト教なるものを知りました。
悪魔崇拝の根源であるかのようなブログの指摘もありました。
ところが調べてみると、私は消される運命のドルイト教ではないかと、
勘ぐってしまったのです。
この記事をしっかりと、読んでみると私は縄文人を感じるほどです。
まだ調べきっていない状態ですから、多くを語ることはできませんが、直感として
私はこのドルイト教は、悪魔崇拝者によって自分たちをカモフラージュするために
使われてきたのではないでしょうか?
ちなみに私は無神論者です。どのような宗教にも興味本位なのです。
(この記事の書かれたコメント欄に転載することを書いたのですが、エラーになりました。)
こちらの記事は日本人の気質について書かれていて、希望がもてる記事でした
http://web.joumon.jp.net/blog/2014/12/2620.html
http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p037.html#page252 より転載
日本の陰謀 (192) 徳川家康と赤穂浪士
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前項で、赤穂浪士は英国清教徒革命のパロディであることを述べたが、1月30日(和暦12月14日)という日付は説明できても、1703年と47人という数字は説明出来なかった。日本の陰謀の特徴として、必ず数字には意味があることが分かっている。調べてみた。 |
徳川家康は1616年6月1日に死亡した。この日付もいわくありげな日付だ。実際、徳川家康の死には暗殺説もある。この日は旧暦で元和2年4月17日だった。
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♫ 悪魔崇拝の臭いがする数字が、徳川家康の死亡日からも出てきました。これって偶然でしょうか?
日本に一体いつから、悪魔崇拝が浸透していたのでしょうか?
明治維新よりも、ずっと前から日本は別の乗っ取りにあっていたのかもしれませんし、明治維新を始める為にこの後も続く江戸時代に、食い込んでいったのかもしれません。
(私は、聖徳太子と一族の暗殺時に、1回目の乗っ取りにあっていると、思っています。)
https://jp.sputniknews.com/opinion/201702203360344/
すでに宮城のリスナーAさんは見学されたとのことだが、我々も、ロシアにおける君主制の打倒をもたらした100年前の出来事を振り返り、そこで日本がどんな役割を演じたかを考えてみたい。
19世紀末、ロシアでは、すごい勢いで工業が発展した。生産の集中度において、ロシアは20世紀初頭までに、欧州で第一位に躍り出た。国の通貨ルーブルは金本位制で、兌換通貨となり、その事は国外からの資本の流入を強めた。ロシアが、東方に大きな関心を示し始めたのは、そんな時だぅた。極東でのロシアの政策を活性化する力となったシベリア横断鉄道の建設が、全線で続いていた。シベリア開発のためには、太平洋への出口が是非とも必要だった。
一方当時、発展する工業と遅れた農業との間には、巨大な格差が生じており、大量の失業者や 労働者及び農民が感じる恐ろしいばかりの不公平感は、大規模な抗議運動の土壌を作り出していた。革命の機運は、すでに広がっていたが、ツァーリ(皇帝)の政府は、そうした事実を自分達への脅威とは捉えず、明らかに過小評価していた。そんな時に、皇帝となったのがニコライ2世(1894-1917)だった。彼が帝位に着くまで、ロシアは、巨大な官僚システムを持った絶対君主制国家だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大津事件
大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。
当時の列強の1つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。
(略)
この事件で津田を取り押さえるという功績を挙げた人力車夫、向畑治三郎と北賀市市太郎の二人は、事件後18日夜にロシア軍艦に招待された。この際、ニコライの要望により、正装ではなく、あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された。そこでロシア軍水兵からの大歓迎を受けた。そしてニコライから直接聖アンナ勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代の貨幣価値換算でおおよそ1000万円前後)の報奨金と1000円の終身年金が与えられた。日本政府からも勲八等白色桐葉章と年金36円が与えられた。当時、低い身分の職と見なされていた人力車夫に勲章を与えることはきわめて異例であり、その後も2人は国内で「帯勲車夫」と呼ばれ一躍英雄として脚光を浴びることとなった。
前科のあった向畑は博打と売春、怪しげな投機話に明け暮れ、勲章を没収された。日露戦争中には年金が停止される(ロシアは年金支給を続けたが、仲介する日本が停止した)。婦女暴行事件を起こし逮捕されている。ロシア革命でロシア政府が消滅し年金は完全に途絶え貧窮したものの、昭和期まで生きている。
北賀市は堅実に郷里の石川県で田畑を購入し地主となり、勉学を重ね郡会議員にまでなった。しかし日露戦争が始まると露探(「ロシアのスパイ」の意)扱いをされ、特に戦死者の遺族から糾弾を受けた。北賀市は家の表門に飾っていた勲章を取り外し、無実を証明するとして軍隊に志願した(受理はされなかった)。なお現在は知名度は高くはないものの郷里の英雄とされ、加茂神社に「北賀市市太郎生誕の地」の碑が立てられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
日露戦争(にちろせんそう、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、英語: Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。
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♫ ニコライ2世は、叔父からの話しで日本にとても興味をもっていたそうです。ですから長期に渡る滞在は本当に当時としても珍しかったそうです。
そして、ニコライ2世を切りつけた大津事件は偽旗作戦の臭いがプンプンしてきますね。
ニコライ2世の周りには日本の警察が護衛もしていたのですが、彼らは切りつけられたときに、動こうとせず、作戦を知らなかった、車夫が身を呈して守ったことに感謝していたのです。
この車夫2人の後の人生を読むと、ニホンの支配者にやられたように、思えるのは、私だけではないでしょう。
そして時代は、日露戦争へと流れていきます。
これも策略を仕掛けられて、戦争へと流れていきます。これで支配者はどのぐらい儲けたのでしょうか?
余談ですが、ニコライ2世と、メドベージェフは実によく似ていますね。もしかしたら、一族なのか、それとも生まれ変わりなのでしょうか?
他人のそら似にしては、そっくりですね。
発掘グループを率いる考古学者のアタ・ハサンプル氏は「ルレスタン県チアサブズ地区の遺跡で先日、アケメネス朝の時代の遺物が発見された」ことを明らかにした。
発見された中にはササン朝(紀元後224年から651年)に存在していたと見られる、身長が2メートルにも及ぶ高齢の男性の墓も含まれている。地元のメフル通信が報じた。ハサンプル氏によれば、棺は縦が2メートル25センチもあるkとおから、ここに葬られた人の身長は2メートルを超えていたものと見られている。
巨人の墓の近くからは10代の子どもたちを埋葬した古い墓地が見つかっている。
https://twitter.com/airjet19/status/827150096672317440/photo/1
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♫地球に住んでいた巨人の骨は、ニホンでも見つかっているようですが、表だっていないような記事をかつて読んだ記憶があります。
エジプトの壁画をみると、支配者らしき者は、大きく、また日本の聖徳太子も実は巨人ではなかったかと、言われているのです。
興味深い話です。
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/南京事件から79年-追悼式典に1万人参列-中国/ar-AAluDNn
日中戦争時に旧日本軍が多数の中国人を殺害した南京事件から79年となる13日、中国江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で追悼式典が開かれ、地元市民など約1万人が参加した。雨天の中、1分間の黙禱(もくとう)の後に演説した共産党政治局員の趙楽際・党中央組織部長は「記憶をとどめ、真相の否定を防ぐ」と語った。
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♫ 誰が何を目的に、無かったというのか、まったくわかりませんが。南京大虐殺はなかったと、声を上げている方が多くみられます。
証言者が見ているのですよ。デビッド・バーガミニは親と一緒にそれを目撃してショックをうけたのです。今まで自分の知っている日本人とは、全く似ても似つかないその残虐さを、彼は見ていたのです。
兵隊の前線部隊は893がやっていたのです。そういう専門の部隊は日頃から慣れていましたから。それらを使ってきたのです。やられたら、誰でも死ぬ気で向かってきます。そう火をつければ、あとは想像できますね?
第2次世界大戦も八百長とわかったら、誰が何を説明しても、虐殺は無かったとはなりえませんね。
中国が韓国が日本を批判するたびに、日本人は眉を顰めていますが。これらは日本国民への批判ではありません。
全ては支配者への批判です。それを間違えると、支配者であるお堀の主のプロパガンダに嵌ってしまうのです。
そして、彼らは日本国民に目を覚ませと言っているのに、等しいのです。
お堀の主は、中国人や韓国人と日本人が仲良くなるのを、嫌っているのです。それは不都合なことを沢山日本人に知られるようになるからですね。
ですから、中国寄りの日本批判をすると、「中国人か?」となるのではないでしょうか?
これもコントロールされている人の発言ですね。冷静に考えれば、中国人でないことは明白なのに、そのようにして、かく乱をしているのです。