竹山道雄さんの息子さんである護夫さんは、昭和44年に「陸軍青年将校運動の展開と挫折」-天皇・国家・軍隊・自我の四つの象徴をめぐってーという論文を書いた。注目されるのは分析に対する方法論である。きわめてわかりにくい表現なのであるが、小生の理解した範囲では、要は、大きく分けて二つある。静的な分析と動的な分析である。
静的な分析にはさらに二つあり、ひとつは、唯物史観に基づいた分析方法である。即ち、この事件は、資本主義が崩壊する過程の一つで、日本のファシズムが生まれるための必然的な運動であり、この運動のために日本のファシズムが生まれたのである。というわれわれ世代がが教科書で教えられたもので、今もこの見方が支配的である。(教科書で習うがなんだかさっぱりわからない教えである。)もう一つは、主観的な見方に基づいた分析で、体験談などはこの部類に属する。貴重なものではあるが、この見方だと全体が見えてこない。
動的な分析にも二つある。ひとつは、事件を構成する要素をひとつひとつ時間とともに捉え分析し、さらに全体として組み上げて分析するという手法である。これは途方もない努力を必要とする。もう一つは、事件の中核をなした人たちの出発点、つまり、この運動にかかわったいきさつ、動機など、活動の起点になるものを研究するというものである。勿論、派閥といわれるものの動きなども研究しなければならないが、とりあえず、竹山護夫氏は、中核をなした人たちの原点を論文にまとめた。
この考えは、経済分析などでは当たり前であるのだが、歴史分析で言われてみると、哲学的なものも含めて、言われてみるとそうかと思う。
彼は、青年将校運動のルーツに、大岸頼好と西田税をのべて分析をはじめてゆく。内容は、興味のある方は、ちょっと覚悟して論文を見ていただきたいが、小生の頭の中にあったばらばらのものが、面白言うように整理されてゆく気がした。竹山氏は、末松先生のところでかなり教えてもらっており、それがこの論文をして明解ならしめている。
竹山護夫氏はその後、山梨大学の教授になられたが44歳で亡くなられた。
北一輝の研究、戦時内閣と軍部、大正期の政治思想と大杉栄 などが残されているが、上記論文は、彼が25歳のころ、つまり東大の修士課程の時に書いた論文である。末松先生は、その時、彼とどのような対応をされていたのだろうか。
(今泉章利)
注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
静的な分析にはさらに二つあり、ひとつは、唯物史観に基づいた分析方法である。即ち、この事件は、資本主義が崩壊する過程の一つで、日本のファシズムが生まれるための必然的な運動であり、この運動のために日本のファシズムが生まれたのである。というわれわれ世代がが教科書で教えられたもので、今もこの見方が支配的である。(教科書で習うがなんだかさっぱりわからない教えである。)もう一つは、主観的な見方に基づいた分析で、体験談などはこの部類に属する。貴重なものではあるが、この見方だと全体が見えてこない。
動的な分析にも二つある。ひとつは、事件を構成する要素をひとつひとつ時間とともに捉え分析し、さらに全体として組み上げて分析するという手法である。これは途方もない努力を必要とする。もう一つは、事件の中核をなした人たちの出発点、つまり、この運動にかかわったいきさつ、動機など、活動の起点になるものを研究するというものである。勿論、派閥といわれるものの動きなども研究しなければならないが、とりあえず、竹山護夫氏は、中核をなした人たちの原点を論文にまとめた。
この考えは、経済分析などでは当たり前であるのだが、歴史分析で言われてみると、哲学的なものも含めて、言われてみるとそうかと思う。
彼は、青年将校運動のルーツに、大岸頼好と西田税をのべて分析をはじめてゆく。内容は、興味のある方は、ちょっと覚悟して論文を見ていただきたいが、小生の頭の中にあったばらばらのものが、面白言うように整理されてゆく気がした。竹山氏は、末松先生のところでかなり教えてもらっており、それがこの論文をして明解ならしめている。
竹山護夫氏はその後、山梨大学の教授になられたが44歳で亡くなられた。
北一輝の研究、戦時内閣と軍部、大正期の政治思想と大杉栄 などが残されているが、上記論文は、彼が25歳のころ、つまり東大の修士課程の時に書いた論文である。末松先生は、その時、彼とどのような対応をされていたのだろうか。
(今泉章利)
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