◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

竹山護夫さんのこと 二・二六事件の分析に対する方法論

2009年04月06日 | 今泉章利
竹山道雄さんの息子さんである護夫さんは、昭和44年に「陸軍青年将校運動の展開と挫折」-天皇・国家・軍隊・自我の四つの象徴をめぐってーという論文を書いた。注目されるのは分析に対する方法論である。きわめてわかりにくい表現なのであるが、小生の理解した範囲では、要は、大きく分けて二つある。静的な分析と動的な分析である。

静的な分析にはさらに二つあり、ひとつは、唯物史観に基づいた分析方法である。即ち、この事件は、資本主義が崩壊する過程の一つで、日本のファシズムが生まれるための必然的な運動であり、この運動のために日本のファシズムが生まれたのである。というわれわれ世代がが教科書で教えられたもので、今もこの見方が支配的である。(教科書で習うがなんだかさっぱりわからない教えである。)もう一つは、主観的な見方に基づいた分析で、体験談などはこの部類に属する。貴重なものではあるが、この見方だと全体が見えてこない。

動的な分析にも二つある。ひとつは、事件を構成する要素をひとつひとつ時間とともに捉え分析し、さらに全体として組み上げて分析するという手法である。これは途方もない努力を必要とする。もう一つは、事件の中核をなした人たちの出発点、つまり、この運動にかかわったいきさつ、動機など、活動の起点になるものを研究するというものである。勿論、派閥といわれるものの動きなども研究しなければならないが、とりあえず、竹山護夫氏は、中核をなした人たちの原点を論文にまとめた。

この考えは、経済分析などでは当たり前であるのだが、歴史分析で言われてみると、哲学的なものも含めて、言われてみるとそうかと思う。

彼は、青年将校運動のルーツに、大岸頼好と西田税をのべて分析をはじめてゆく。内容は、興味のある方は、ちょっと覚悟して論文を見ていただきたいが、小生の頭の中にあったばらばらのものが、面白言うように整理されてゆく気がした。竹山氏は、末松先生のところでかなり教えてもらっており、それがこの論文をして明解ならしめている。

竹山護夫氏はその後、山梨大学の教授になられたが44歳で亡くなられた。
北一輝の研究、戦時内閣と軍部、大正期の政治思想と大杉栄 などが残されているが、上記論文は、彼が25歳のころ、つまり東大の修士課程の時に書いた論文である。末松先生は、その時、彼とどのような対応をされていたのだろうか。

(今泉章利)

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河野壽 被告人尋問調書(1)

2009年04月04日 | 今泉章利
以下は、昭和11年3月4日、河野大尉が三島憲兵分隊の宮内憲兵大尉の訊問に答えたものである。河野大尉は、この翌日の3月5日、自決を決行され、3月6日、亡くなられた。この記録は、東京地検に残された裁判記録からのものである。大変に貴重なものである。またこの記録が、水上さんたちの裁判で一切引用されていないことも異常である。この記録は、東京地検の裁判記録の資料の中に入っているのだから、水上さんたち被告に対しても指示すべきであった。この資料の中には、河野さんが、自分が火をつけろと命じたと述べている。

被告人尋問調書 被告人 河野壽

右の者に対する反乱被告事件に付き、昭和11年3月4日、東京第一衛戍病院熱海分院に於いて、本職は、右被告人に対し訊問をなすこと左の如し。

問 氏名、年齢、所属部隊、官等級、本籍、族称、出生地、住所は如何。

答 氏名は前述の通り。年齢は当30年、 所属部隊は 元飛行第12連隊所沢陸軍飛行学校に派遣中
官級等等は、元陸軍航空兵大尉(40期)
本籍は、福岡県福岡市新大工町112番地
族称は 福岡県士族
出生地は長崎県佐世保市福石町
住所は埼玉県所沢市御幸町733北條馥方

陸軍司法警察官は反乱被告事件につき訊問すべき旨を告げたり

(続く)
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竹山道雄さんのこと

2009年04月03日 | 今泉章利
最近すこし本が読めるようになってきた。つまり少し理解することができるようになってきたように感じる。還暦なのに人の書いた文章が読めないとしたら悲劇かもしれないが、ようやく読めるようになってきたことは、喜劇かもしれない。
父が赤線を引いて几帳面な書き込みがある本がある。竹山道雄さんが終戦後に書かれた「昭和の精神史」がそれである。冒頭、「大事件が起こってそれが終わると人はその責任者を暴きたて非難をする。そしてその大事件の被害のカタルシスとするのだが、それから、もう10年すると、今度は落ち着いて、あれはいったい何であったのか。とその真の原因を探そうとする。と何かに書いてあった。」。と書いてあった。正確な言葉は違うがそういうことを書いておられた。そして「その真の原因を語ることは、歴史家が時間をかけてゆっくりと答えを出すとおもうので、その歴史のことを自分が語るには些か無責任であるが、歴史家の答えも待っていられないので、メモと思ってこの本を書こうとおもう。その時代を生きた自分がその時に感じたことと今の歴史家の言っているものが明らかに違うことを感じるからである。」として、二・二六事件の当時、溜池で山王ホテルで、兵隊が機関銃の射撃体勢に入り、後ろに将校がピストルを振り上げて何か言っている。通りをはさんで、群衆がみまもり、その前を、軍人がバイクで走ってゆく。。それを見ながら坂をのぼり、ドイツ大使館の前に行くと、大使館員がputcheだったか、(つまり、反乱という意味だったか、)、言っていたと書いてあった。(すべて今、頭に残っているイメージで書いているので正確な言葉ではないが、こう言うことである)竹山道雄さんには、小生はもっと違うイメージを持っていたのだが、この一文を読んで、改めて関心を強く持ったのである。竹山氏は、今の、つまり戦後直後の歴史家(つまり、マルクス史観というか、、)が言っている戦前は、明らかに彼の体験した戦前と違っていると書いているのである。このような竹山氏の率直な感覚に小生は魅力を覚えた。そして、この本に赤線を引いている父を思って、心が和んで行く気がした。。 竹山氏は、鎌倉に住んでおられたのだろうと思う。それが証拠に、その御子息の竹山護夫氏は、わが小学校、つまり、鎌倉市立御成小学校の6年先輩で、栄光学園にすすまれたという。

(今泉章利)

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