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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

王道

2016年03月18日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「王道」

 

 日高大介氏は、静岡県立浜松北高校2年生のとき「全国高校生クイズ選手権」に出場し、テレビデビューを果たすと、以来数々のクイズ番組で優勝し「クイズ王」の名をほしいままにした。現在は、クイズ作家として「Qさま」「高校生クイズ」など、様々な番組の問題作成にあたっている。
 日高氏が、本気でクイズの道を歩み始めたのは中学校2年の時だった。
 力をつけるにはどうすればいいか。試行錯誤を重ねる過程で、こんな言葉に出会った。
 「クイズの実力はこなした問題の数に比例する」
 「第13回ウルトラクイズ選手権優勝者」長戸勇人さんが書いた『クイズは想像力』という本に載っていた言葉だ。


 ~ 当時の僕は、クイズ王がいうのだから間違いないとばかりに、とにかく「クイズの問題集を手に入れる」「クイズの問題に繰り返し接する」「わからない問題・間違えた問題にはバツ印のチェックを入れる」「バツ印のついた問題のみを大学ノートに抜き出す」「大学ノートに書かれた問題を繰り返し覚える」という行程を、繰り返しました。 ~


 賢明なみなさんなら、このクイズ対策が、勉強のやり方としての「王道」であることにも気づくだろう。この方法でいこうと心を決めて勉強を始めた日高氏も、最初のうちは辛く感じた。
 なにせ、知らない単語が多い。中学2年生が大人用のクイズ問題集を繙くのだから、しかたない。
 ほとんど全ての問にバツをつけなければならないページもある。
 しかもそれをノートに書き写す作業は、さすがの日高氏でも嫌になる日はあったという。


 ~ ところが、光は案外早く見えはじめました。勉強開始から約一カ月が経ったとき、その時点でこなした問題集は二冊ほど、大学ノートは半分ほどが埋まっているような状態。毎週日曜日に録画しながら見ていた『アタック25』で、あるとき、大学ノートに写した問題が立てつづけに出た回があったのです。まだ反復練習をしていないので、バシバシ正解できた! とまではなりませんでしたが、クイズの勉強を始める前には「聞いたことがない」知識が、たしかにいまの自分には「確実に聞いたことがある」知識になっている。これが大きな起爆剤となりました。
 勉強に飽きて、作業が面倒くさくなってきた自分を律する「秘策」が、まさにこの瞬間に生まれたのです。それは「勉強によって知識を吸収する」ことと「実践によって知識を放出する」ことの割合を、大体8:2くらいにすること。具体的にいえば、問題集の読み込みをしながら、その合間に必ず『アタック25』で実践練習をする(一週間に一度はその機会が確実に訪れます)。そうすることで、自分の進んでいる道が正しいのかを確かめる。これが、そのころの僕がとった方法でした。 (日高大介『クイズ王の「超効率」勉強法』PHP新書) ~
 ~

 のちにクイズ王となる日高少年のえらいところは、こうして自分が蓄えた知識を、実践を通して定着させていったことだ。

 

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年度末

2016年03月17日 | 日々のあれこれ

 

  年末年始よりよほど落ち着かないのが学年末だ。
 演奏会をこの時期に設定しているせいもあるだろうが、そうでなくても春はなんとなくあわただしい。
 昔はちがった。
 高校入学前の中3の終わり、大学入学前の高3の終わりの時期はとくに、新しい生活への期待と不安を胸に秘めながら(卒業式答辞みたい … )、同時にそれまでの暮らしを捨てがたい思いにひきずられながら過ごした日々は、心はざわついていながら、物理的にはぼおっとしてた。春休みは、ひょっとしたら一番他人と会話しない時期だったかもしれない。
 なぁつかしいなぁ(でっかい夕日を背中にしょって~)
 一泊の合宿で定演二部の形を整理し、三年生のソロ部分や、ポップス曲のふりつけなども大体見えてきて、あとはやるだけなのだが、なかなか思うように進まない。インフルエンザ、体調不良の欠席者もいる。
 今日は午前中は部活に顔を出して、午後は会議や、新年度に向けてのだんどり。
 夕方、学年の飲み会に出かけ、学校にもどって学年だよりの印刷。
 そういえば、一浪して目標大学に合格した子が今日来てて、「先生の学年だよりを、浪人中もたまに読んでましたよ」と言ってくれたのがうれしかった。来年は、彼が神宮で活躍する姿を見るという楽しみができそうだ。
 今年も一年書き続けられてよかった。
 「まもなく今年度も終わりですねぇ」などと落ち着けないものの、学校にも少し変化がありそうで、しみじみする。と、毎年同じ事の繰り返しだが、繰り返せることをありがたいとも思う。

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政治活動は届けよう

2016年03月16日 | 日々のあれこれ

 

 ~ 18歳は大人か、ですか。うーん、難しいですね。18歳になって、いきなり「今日から大人」っていわれても、大人になれる人なんていないんじゃないかな。子どもと大人の境目って、年齢じゃないと思うんですよね。同じくらいの年の人でも、話していて、「あっ、この人は大人だな」と感じることもあるし。(橋下環奈さんのことば) ~

 

 あたりまえのことだけど、物理的年齢で大人か子どもかの線引きができるものではない。
 中身はどうあれ、近代国家として日本がやっていく以上は、一定年齢になったら一人前にみなすという形式はとらなければならない。
 それがわかってないのは、愛媛県の教育委員会で、いまさら政治的活動は学校に届け出よなどというのは、何のために選挙権年齢を引き下げたかわかってない証拠だ … と、朝思ったのだが、ちがうかもしれない。
 愛媛県は、届け出制が機能する県だということなのだろう。
 他県ではどうだろう。すでに都会の高校生たちは勝手にデモに参加している。
 「デモに参加していいですか?」と聞くこと自体、デモの精神に反している気がするし。
 埼玉県で届け出制を実施しようとしたら、そんな校則はおかしいとデモになるかもしれない。
 地域共同体といえるものが残っていて、「デモ行きたいけんど、一応先生にきいておいた方がいいぞなもし」という会話が成り立つ地域、つまり先生が先生として扱われている土地柄を表しているのだろう。
 高校生たちが「分際」というものを知っているとすれば、もしくはそう扱われているとすれば、むしろ政治に関する接し方も、より責任ある形になるような気がする。
 いい大人たちまでふくめて、フェスティバルのノリで盛り上がっているようにも見える都会のそれより、健全だ。

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皿まわし学習

2016年03月15日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「皿まわし学習」

 

 学習した内容が身に付かない原因は、あらく言って二つある。
 一つは、実は理解していなかった、つまりわかっていなかった場合である。
 教えてもらっても、その時点で理解があやふやのままだと身に付かない。習った時にわかったような気がして、後は家で復習しようというのは、土台があやふやなので結局そのままになってしまう。たとえば塾へ行っても成績があがらない場合も、多くはこれが原因である。
 もう一つは、その時点で理解しても、エクササイズが不足、または全くしていない場合である。
 わかったことがらは、繰り返し練習することではじめて使いこなせる状態になる。
 いったんは身に付いたと思っても、しばらく使っていないと元の状態にもどってしまう。
 あたりまえのことだが、繰り返し復習し、さびつかないようにし続けなければならない。
 東進予備校の安河内先生は、この作業を「勉強のメンテナンス」とよび、それを「皿まわし」のように続けなければならないと述べている。


 ~ 「エビングハウス忘却曲線」によると、私たちは覚えた事柄を、学習してから30分後に40パーセント忘れ、24時間後には66パーセント忘れ、3日後には75パーセント、30日後には80パーセントを忘れてしまうそうです。つまり、1カ月後には、学習したことの20パーセントしか覚えていないのです。
 ということは、覚えたら覚えっぱなしでそのままにしておくと、どんどん忘却の彼方になることは確実。これでは、せっかくがんばって暗記しても、すべてムダになってしまいます。
 だからこそ、メンテナンスが大事なのです。具体的にいえば、忘れかけたころに反復し、また忘れかけたころに反復する……。
 これを繰り返すことで、この忘却曲線を平行線に変えていくのです。
 ここで、ふと頭に浮かぶシーンがあります。それは、お正月の演芸とかでよくやっている「皿まわし」。あれを見るたびに、「勉強と同じだな~」と感じます。
 1個目の皿をまわしたら、2個目の皿をまわし、次に3個目、4個目……。5個目の皿をまわしたあたりで1個目の皿がグラグラしてくるから、もう一度1個目の皿をまわします。次に6個目の皿をまわしていると2個目の皿がグラつきはじめるので、もう一度まわして……。
 こんな感じに、メンテナンスをしながら前に進んでいくのです。こうすることで、つねにすべての皿がまわっている状態をキープすることができます。
 勉強もまさにそれと同じです。新しい皿を10枚、20枚、30枚とどんどんまわしていきつつ、それらのすべてがつねにまわっていられる状態を保つことで、実力がついていくのです。
 ところが、受験生や社会人の勉強を見ていると、メンテナンスがほとんどできていないように感じます。どんどん新しい知識を覚えていくのですが、覚えた知識へのメンテナンスをきちんとしていないため、どんどん忘れていくのです。皿まわしにたとえれば、10枚、20枚、30枚と次々に皿をまわしているのですが、結局、まわっている皿はつねに3枚程度といった感じです。 (安河内哲也『できる人の勉強法』中継出版) ~


 ただし、いま1枚も皿をまわしてない人もいるような気がする。まずまわそう。

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花は咲く~アニメスター・バージョン~

2016年03月13日 | 日々のあれこれ

 

  ここ数日、震災に関する本やお芝居にけっこうふれてきた。
 なかでも、一昨日いただいたメールで知った、このアニメは心動かされ、考えさせられた。
 すごい、よく作れたなと懐かしく見ながら、気づいたら泣いていた。
 個人的には「あしたのジョー」らへんがやばかった。人により、世代により、ツボは全然ちがうと思うけど、必ずツボはある。
 あ、これです … といってリンクできればいいのですが、YouTubeでそれやっていいのかどうかわからないので、紹介するサイトを見てください。


 花は咲く~アニメスター・バージョン~ 
 番組内容 日本アニメーション史に残る38作品のヒーロー・ヒロインが、震災復興の願いを込めて参加した「花は咲く」。 
 歌:山寺宏一・水樹奈々、作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子出演者ほか

  ※ 次回放送は3月15日 (火)午前0:55~午前1:00の予定


 この演奏に、サックスのレッスンにきていただいている先生が参加されていて、メールをいただいた。
 おおもとの「花は咲く」は、正直に言うと、自分にとってウェットにすぎて、それほど好きになれなかった。
 アップテンポの新しいアレンジと演奏、そして歌は、復興支援という冠をはずしたうえで聞いて、音楽作品としてきわめてハイレベルで、これぞプロの仕事と感じられる。
 震災復興にはまだまだ問題点も多いが、新しい段階に入ろうとするべきではないか、中央のメディアがいつまでも重々しい口調で語りつづけることを、被災地の方は望んでいないのではないかと、この演奏を聴きながら考えている。

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国語力とは語彙力であると言い切って、ほぼ大丈夫

2016年03月10日 | 大学入試

 

 演奏会二部の台本書きの合間に採点をする。
 国立大学を目指す生徒さんの比率の高いクラスの現代文は、そこそこほねのある記述問題もいれる。
 今回のテストには2行で書く問題、つまり東大の二字試験に出るタイプの問いを三つ入れた。勉強にはなると思うけど、採点は大変だ。
 数年後の新共通テストに入る記述問題は、よほど上手に作らないと、時間ばかりかかり、それでいて整合性のある採点がされない事態というのが、やはり起こりそうな気がする。
 漢字の問題も出す。
 みんなで使っている「漢字帳」、あの霜先生の『生きる漢字語彙力』からいっこ1点で10問。
 文章からも出すので、読みやら意味やらあわせて20点分は漢字を出しているが、この出来具合は、全体の成績と対応する。漢字が9割できている子は全体でも8割、漢字が5割の子は全体も4割みたいに。
 国語だけでなく全科目の合計点ともほぼ同じような相関になるだろう。
 ここ数年分のテストを思い返してみると、普段の定期テストの漢字の出来具合と、センター試験・二次試験での実力はほぼ同じになっている。
 新共通テストは、無理に記述にしなくても、従来のマークシートで、それも内容読解さえ不要で、漢字の20こも出題すれば、かなり正確に国語も実力を反映した点数になるんじゃないかな。
 そしたら、マークじゃなくて普通に書き取り問題の方がいいか。ヤマ勘ではあたらなくなるので。
 ただし、採点者のレッスンは必要で、「はねてる」「はねてない」とかどうでもいいことを理由にバツをつけてしまう人が出ないようにはしないといけない。
 あと、それ以上に、語彙力を調べられる問題をつくってくださる方が必要だ。

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視覚化する

2016年03月09日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「視覚化する」


 試験おつかれさまでした!
 今日から二年生の授業が始まるまでの約一ヶ月間を有効に使えるように、自分のやるべきことを整理して、着実に取り組んでいこう。
 そのために、まず今後やるべきことリストアップすることだ。
 必ず今日中にやる。そしてそれぞれの課題をいつ頃までにクリアするかという目安も、自分で勝手に決めて書いておこう。その課題リストは、たえず視覚に入るようにしておく必要がある。


 ~ 勉強法のコツは何かというと、今の自分の欠損箇所を素直に認めて、そこからスタートすること。それはどの科目でも一緒です。弱い部分に知識を正確に積んでいく。ただし重要なのは、どれぐらいの時間をかけるかという、時間の経済を考えることです。 (佐藤優『危機を覆す情報分析』角川書店) ~


 一番よくないのは、「がんばろう!」とか「努力!」とか漠然とした言葉を壁に貼ることだ。
 今のみなさんの気分は、「こんどこそなんとかしよう」「次はちゃんとやろう」だと思う。
 しかし、漠然とした思いは、日にちが経てば薄れていく。
 客観的に自分を見て、足りない部分を整理し、それを順番に埋めていけば、必然的に結果は出る。
 それが勉強の基本だ。大体「がんばる」のはあたりまえではないか。がんばらなくてもできることは、目標とは言わない。


 ~ 大学入試はどのレベルの大学でも、正しい手段で勉強すれば合格します。ただし、慶應義塾大学の医学部と東京大学の理Ⅲ、日体大と東京芸大は別格です。日体大と東京芸大に合格するには特殊な才能が要ります。同じように東大の理Ⅲと慶應の医学部も、記憶力と再現力に関する特殊な才能が必要です。それ以外の大学は、一定の時間をかけて正しい手段で勉強すれば合格します。
よく30代、40代になって東大に入る人がいます。
 それは出題者ぐらいの年齢になると、勉強の仕方がわかってくるからです。入試問題はつくるほうはつくるほうで厳しい制約があります。たとえば大学入試センター試験であれば、平均点が60点ぐらいになるようにつくらなければならない。平均点が75点ぐらいになれば、簡単な問題を作りすぎたと出題者が馬鹿にされます。逆に平均点が40点になれば、「なんて難しい問題を出したんだ」と叱られる。平均60点ぐらいを目指すことになります。つくる方は、満点は取れない問題づくりをしています。満点防止のための問題は、非常に細かい知識が必要ですが、そのようなものはやらなくても構いません。どの程度の努力でどの大学に入れるか、そのあたりを受験のプロたちはみなわかっています。 ~


 勉強だけにしぼるなら、「ふつうに」がんばりさえすれば、大体はなんとかなる。

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「富嶽百景」の授業(最終回) 五段落 第二場面

2016年03月05日 | 国語のお勉強(小説)

 

  五段落 〈 第二場面 甲府 〉


 そのあくる日に、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干に寄りかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々の後ろから、三分の一ほど顔を出している。〈 ほおずきに似ていた 〉。


 場面  場所  甲府の安宿
       時   山を下りた翌朝
      人物  私

Q61「ほおずきに似ていた」とはどういうことか。(40字以内)
A61 朝焼けに照らされた富士が、赤く小さなほおずきのように見えたということ。


御坂峠から最初に見た富士 … 風呂屋のペンキ画・芝居の書き割り(注文通り・通俗の極み … )俗の極みフジ
  ↓
 様々な人(世間の人・無私で接してくれた人)との出会い
  ↓
甲府の安宿から見た富士 … ほおずき(赤い・小さい・身近なもの … )

 ☆ 富士 … 「世間」の隠喩(メタファー)


Q62 「富士を見ると、甲府の富士は、山々の後ろから、三分の一ほど顔を出している。ほおずきに似ていた。」という一文は、「私」のどのような変化を表していると考えられるか。(100宇以上120字以内)
A62 自分の前に立ちはだかる世間の象徴としか思えず嫌悪していた富士を、
     御坂峠に来てからの様々な人々との触れあいを経て、
   身近な存在として感じられるようになり、
   世俗の価値観も一つのものとして受け入れられるようになった
   「私」の心境の変化を表している。

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「富嶽百景」の授業(14) 五段落 第一場面

2016年03月05日 | 国語のお勉強(小説)

 

  五段落 〈 第一場面 御坂峠 〉


 十一月に入ると、もはや御坂の寒気、耐えがたくなった。茶店では、ストーブを備えた。
 「お客さん、二階はお寒いでしょう。お仕事のときは、ストーブのそばでなさったら。」と、おかみさんは言うのであるが、私は、人の見ている前では、仕事のできないたちなので、それは断った。おかみさんは心配して、峠の麓の吉田へ行き、こたつを一つ買ってきた。私は二階の部屋でそれにもぐって、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言いたく思って、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶった富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条たる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱していることも無意味に思われ、山を下ることに決意した。山を下る、その前日、私は、どてらを二枚重ねて着て、茶店の椅子に腰掛けて、熱い番茶をすすっていたら、冬の外套着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんが二人、トンネルのほうから、何かきゃっきゃっ笑いながら歩いてきて、ふと眼前に真っ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちの一人、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやってきた。
 「あいすみません。シャッター切ってくださいな。」
 私は、へどもどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚も重ねて着ていて、茶店の人たちさえ、山賊みたいだ、と言って笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、たぶんは東京の、そんな華やかな娘さんから、はいからの用事を頼まれて、〈 内心ひどく狼狽したのである 〉。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、華奢な面影もあり、写真のシャッターくらい器用に手さばきできるほどの男に見えるのかもしれない、などと少し浮き浮きした気持ちも手伝い、私は平静を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なさそうな口調で、シャッターの切り方をちょっと尋ねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。真ん中に大きい富士、〈 その下に小さい、けしの花二つ 〉。二人そろいの赤い外套を着ているのである。二人は、ひしと抱き合うように寄り添い、きっと真面目な顔になった。私は、おかしくてならない。〈 カメラ持つ手が震えて、どうにもならぬ 
〉。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、けしの花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、二人の姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、〈 富士山、さようなら、お世話になりました 〉。パチリ。
 「はい、写りました。」
 「ありがとう。」
 二人声をそろえてお礼を言う。うちへ帰って現像してみたときには驚くだろう。富士山だけが大きく大きく写っていて、二人の姿はどこにも見えない。


 場面  場所  御坂峠
       時   山を下りる前日
      人物  私 二人の娘さん


Q57「内心ひどく狼狽したのである」とあるが、なぜか。(60字以内)
A57 誰が見てもむさくるしい姿の自分に、都会の娘さんから写真のシャッターを切るという今風のことを頼まれるとは思いもしなかったから。

Q58「その下に小さい、けしの花二つ」とは何を表している。
A58 赤い外套を着た二人の娘さん

Q59「カメラを持つ手がふるえて、どうにもならぬ」のはなぜか。
A59 写真を撮られることに緊張し身構えている娘さんたちがおかしくてたまらなかったから。

Q60「富士山、さようなら、お世話になりました」から推し量ることのできる「私」の思いを説明せよ。(70字以内)
A60 当初は軽蔑さえした富士だったが、様々な人々との出会いのきっかけともなり、仕事に対する情熱や心の平安を与えてくれたことに感謝する思い。

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インナーマッスル(2)

2016年03月04日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「インナーマッスル(2)」


 ~ 他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑(ふ)に落ちたか」「気持ちが片づいたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以(もっ)てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。 (内田樹「反知性主義者たちの肖像」) ~


 先日実施された東大二次試験の現代文に出題された文章の一節だ。
 知性とは何か。
 手持ちの知識や情報が大量にあることではないと、内田樹先生は言う。
 知識・情報をため込み、大量にもっていることに意義を見いだしている状態は、アウターマッスルだけを鍛えた肉体を鏡に映してうっとりしているのと似ている。
 筋肉を肥大化させること自体が目標になってしまっているからだ。
 勉強のインナーマッスルが鍛えられている人は、知識や情報の多さを人に誇ることはせず、それをいかに役立てるかを考える。
 知識や情報は、人のために役立つものとして用いられて初めて「知性」とよばれうる。
 おれは偏差値が高い、人よりも頭がいいと、テストの結果を見てニヤニヤしたり、見せびらかしたりしている人を、私達は知性のある人とは言わない。
 たとえば授業中に、「あ、あれは、こういうことだったのか」と、その授業内容とは関係のないことに気づいたりする。
 友だちと話しているときに、突然ひらめいて、放課後の部活で試したいことが浮かんだりする。
 本を読んでいて、急に何かをしたくなることがある。
 こういうときが、知性ある人と接触したときだ。


 ~ ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う。 ~


 自分のなかの何かが活性化されるためには、その準備ができている「自分」も必要だ。
 受身の勉強をいやいやしているだけでは、知性と接しても変化が生まれない。
 逆説的になるが、今のみなさんが勉強のインナーマッスルを強くするには、目の前のやるべきことをひたすらやること、つまりアウターマッスルを鍛えにいくことだ。

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