国語科の研究授業があった(私立でもあるのです)。
本校国語科で一番若手教員の授業でもあり、諸先輩方はけっこう歯に衣着せずいろいろ言い、自分も厳しく語ってしまったが、「自分が新任のときには、もっともっとヘタクソだったなあ」と内心思っていた。
会議が終わってしばらくして、ほぼ同期の同僚と顔をみあわせたとき「みんなエラくなったよね」とささやきあったのだった。
そこまでエラそうに語れるほど、ふだんすごい授業をしているかというと、そうでもないし。
厳しい意見を言いながらも愛にはあふれていたので、みなそれなりに自覚はあるのだろう。
自分もたいしたことはやれてない、という。
どの学校でも、とくに県立さん、なかでも小学校、中学校では、研究課題が毎年設けられて、研究授業が行われ、その結果を紀要にまとめたりすることもあるだろう。
その研究紀要が、その後の教育活動に役立てられる例は、ほぼないと言ってよい。
私立校の教員も参加できる研究会に参加したことはあるが、その中身は「おさむい」ものだった。
向山洋一先生の法則化セミナーや、堀裕嗣先生の国語研究会にも参加していた時期だったのでなおさら、官製の研究会ではそのゆるさにおどろくことが多かった。
教員の研究活動が、費やされた時間ほどには実を結ばないことが多いのには理由がある。
成長ステップがマニュアル化されてない点だ。
昨今は、初任者研修、年次研修といった形で、現場における教員養成システムが存在するようにはなったが、きちんと生かされているとは言いがたい面がある。
システムよりも指導者個人の力量に左右される面が大きいからだろう。
それに教員の世界は、ひとたび職についてしまえば、いくら授業がへたくそでも、一人前扱いされ「先生」とよんでもらえる。
技量がなくても、技量が身についてないという自覚がなくても、それなりにやっていけてしまうのだ。
「あの授業じゃ生徒かわいそうだろ、同じ授業料払ってるんだぜ!」ときびしく言える同僚のいる職場は、そういう意味では、恵まれてるのかもしれない。
で、昨日思ったのは、古文の授業でよく行われる「品詞分解」は、もうやめるべきではないかということだ。
なぜか。楽だから。
誰が? 教員が。もちろん生徒も。
「楽」というのは、そんなに頭を使わずにやれてしまうという意味でだ。
古文読解の力をつけるにはまず品詞分解が第一、それをどれだけ徹底してやれるかが大事、という意見はある。
一面は真理かも知れない。
でもはっきり言うと、時代遅れでしょう。
もっと効率よく教えられる方法はある。
効率がすべてではないが、「品詞分解さえやってれば力がつく」と言って何十年も同じ授業をくりかえし、他の方法を考えようとしない体質になってしまうことが問題だ。
品詞分解は、作業としては大変だけど、それなりにやりがいはある。
答えもある。やることがはっきりしている。やったことが形で見える。
国語の中ではめずらしく何をやるか悩まずにすむ分野だ。
その結果、品詞分解が目的化してしまい、解釈の「ため」にやっていることを忘れてしまう。
ちゃんとやるには時間がかかるので、量を読めなくなる。
細かい文法問題は解けるようになっても、全体の意味を把握する力をつける作業ではないのだ。