五段落
私はちょうど〈 他流試合でもする人のようにKを注意して見ていた 〉のです。 私は、私の目、私の心、私の身体、すべて私という名のつくものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。〈 罪のないK 〉は穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれを眺めることができたも同じでした。
Kが〈 理想 〉と〈 現実 〉の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の虚につけ込んだのです。私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示し出しました。むろん策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のない者はばかだ。」と言い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は〈 復讐以上に残酷な意味を持っていた 〉ということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたのです。
Kは真宗寺に生まれた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかしあとで実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲はむろん、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑のほうがよけいに現れていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けてきているのですから、精神的に向上心のない者はばかだという言葉は、Kにとって痛いにちがいなかったのです。しかし前にも言ったとおり、私は〈 この一言 〉で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえって〈 それ 〉を今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私はかまいません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のない者は、ばかだ。」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見つめていました。
「ばかだ。」とやがてKが答えました。「僕はばかだ。」
Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま動きません。彼は地面の上を見つめています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気がつきました。私は彼の目づかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、そろそろとまた歩き出しました。
他流試合 … 流派の異なるものどうしの、威信をかけての争い。※ 道場破り
要塞 … とりで
彷徨する … さまよう
虚につけ込む … 相手の無防備な部分を突破口として攻め入ること
宗旨 … 信仰する宗派
精進 … 仏道修行に励むこと
刹那 … 一瞬 ※65分の1指はじき
居直り強盗 …窃盗が見つかって開き直り、強盗にかわる
Q25「他流試合でもする人のようにKを注意して見ていた」とは、「私」のどういう状態を表しているか。40字以内で記せ。
A25 Kを自分と敵対する存在と捉え、一部の隙も見せずに様子をうかがっていたということ。
Q26「罪のないK」という表現の働きを説明せよ。
A26 自分の敵対心がKにとって理不尽なものであったとの自覚はあることを読み手にアピールする。
Q27「理想」とあるが、Kにとって、どのように生きることが理想なのか。本文の言葉を用いて20字程度で説明せよ。
A27 道のためにすべてを犠牲にして精進すること。
Q28「現実」とは何か、説明せよ。
A28 お嬢さんへの恋心に内面を支配されていること。
Q29「復讐以上に残酷な意味をもっていた」とあるが具体的にはどんな意図があったのか。20字程度で抜き出して答えよ。
A29 Kの前に横たわる恋の行く手をふさごうとした
「この一言」について、
Q30 どの一言か、抜き出せ。
A30 精神的に向上心のないものはばかだ。
Q31 この一言は「私」のどういう心から発せられたのか。3文字で抜き出せ。
A31 利己心
Q32「それ」とは何か。20字程度で記せ。
A32 自分の信条に従って生きてきたこれまでの生活。
事 無防備なKを発見する
↓
心 一打ちで倒すことができる
↓
行 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
私はちょうど〈 他流試合でもする人のようにKを注意して見ていた 〉のです。 私は、私の目、私の心、私の身体、すべて私という名のつくものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。〈 罪のないK 〉は穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれを眺めることができたも同じでした。
Kが〈 理想 〉と〈 現実 〉の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の虚につけ込んだのです。私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示し出しました。むろん策略からですが、その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「精神的に向上心のない者はばかだ。」と言い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は〈 復讐以上に残酷な意味を持っていた 〉ということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたのです。
Kは真宗寺に生まれた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかしあとで実際を聞いてみると、それよりもまだ厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一信条なのですから、摂欲や禁欲はむろん、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。そこには同情よりも侮蔑のほうがよけいに現れていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けてきているのですから、精神的に向上心のない者はばかだという言葉は、Kにとって痛いにちがいなかったのです。しかし前にも言ったとおり、私は〈 この一言 〉で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえって〈 それ 〉を今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私はかまいません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。
「精神的に向上心のない者は、ばかだ。」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見つめていました。
「ばかだ。」とやがてKが答えました。「僕はばかだ。」
Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま動きません。彼は地面の上を見つめています。私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気がつきました。私は彼の目づかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、そろそろとまた歩き出しました。
他流試合 … 流派の異なるものどうしの、威信をかけての争い。※ 道場破り
要塞 … とりで
彷徨する … さまよう
虚につけ込む … 相手の無防備な部分を突破口として攻め入ること
宗旨 … 信仰する宗派
精進 … 仏道修行に励むこと
刹那 … 一瞬 ※65分の1指はじき
居直り強盗 …窃盗が見つかって開き直り、強盗にかわる
Q25「他流試合でもする人のようにKを注意して見ていた」とは、「私」のどういう状態を表しているか。40字以内で記せ。
A25 Kを自分と敵対する存在と捉え、一部の隙も見せずに様子をうかがっていたということ。
Q26「罪のないK」という表現の働きを説明せよ。
A26 自分の敵対心がKにとって理不尽なものであったとの自覚はあることを読み手にアピールする。
Q27「理想」とあるが、Kにとって、どのように生きることが理想なのか。本文の言葉を用いて20字程度で説明せよ。
A27 道のためにすべてを犠牲にして精進すること。
Q28「現実」とは何か、説明せよ。
A28 お嬢さんへの恋心に内面を支配されていること。
Q29「復讐以上に残酷な意味をもっていた」とあるが具体的にはどんな意図があったのか。20字程度で抜き出して答えよ。
A29 Kの前に横たわる恋の行く手をふさごうとした
「この一言」について、
Q30 どの一言か、抜き出せ。
A30 精神的に向上心のないものはばかだ。
Q31 この一言は「私」のどういう心から発せられたのか。3文字で抜き出せ。
A31 利己心
Q32「それ」とは何か。20字程度で記せ。
A32 自分の信条に従って生きてきたこれまでの生活。
事 無防備なKを発見する
↓
心 一打ちで倒すことができる
↓
行 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます