水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

パラリンピック

2020年04月27日 | 学年だよりなど
  3学年だより「パラリンピック」


 『パラ・スター』はフィクションだが、現実のパラリンピックに出場したみなさんの先輩がいる。


 ~ 最初で最後の夢舞台、高橋惜しくもメダル逃す【第3日目 柔道男子】
 柔道男子73キロ級の高橋は3位決定戦で一本負けし、メダルに届かなかった。10歳の時に始めたこの競技で、高校生の時に埼玉県の大会で3位に入った。25歳で緑内障にかかり落ち込んだ。「柔道がなければ生きがいを見つけられなかった」。障害者柔道に打ち込む傍ら、富士見市で子どもたちへの指導もしてきた。
 42歳。最初で最後のパラリンピックだ。「この場に立たせてくれてありがとう」。車で道場への送り迎えを続けた妻嘉代さんへの感謝の言葉で締めくくった。
              (朝日新聞デジタルニュース 記事2012年9月1日平井隆介)~


 本校3期生、高橋秀克先輩の記事だ。小学生の時にはじめた柔道。本校在学中には、個人戦で県の3位にもなった。25歳で緑内障を患い、徐々に視力が失われていく過程のなかでは、つらい思いや、人に言えない苦労もあったことだろう。


 ~ 「視覚障害者柔道を始めてからのほうが、パラリンピック目標に真剣に柔道に取り組んできたような気がします。目が見えた頃は、二日酔いで昇段試験に行ったこともあった」と笑う。得意技は内股。障害者柔道では寝技の強い選手が多いことから、寝技を鍛え直した。視覚障害者柔道の試合は、両者がお互いに組んでから始まるが、基本的なルールは健常者の柔道とあまり変わらない。ロンドンの会場でも満席の観客は繰り出される技に大いに盛り上がった。
 2回戦、きれいに決まった得意の絞め技に「もう、年なもので、25秒抑えるのは体力を消耗する。省エネでいきました(笑)」。42歳、柔道選手団最年長、初めてのパラリンピック出場だ。北京パラリンピックでは惜しくも代表を逃し、今大会、7年越しの思いで畳の上に立った。足りないところは重点的に鍛えた。仕事後には、150キロのプレスを上げて腕力を鍛え、週3~5回は道場に通い、懸垂台を買って筋トレトレーニングを毎日欠かさず行った。「ロンドンの舞台で戦うというモチベーションだけで7年続けてこられました」 (2012年9月6日山下敦子) ~


 自分を支えたのは、柔道への強い思いだ。そしてサポートし続けた奥さんの高橋嘉代さん(事務室の向かって右側手前のおねえさん)の存在が大きかったことは言うまでもない。 
 思うようにならないこと、つらいこと、やりきれないこと、自分ではどうしようもないこと、人生はなんでも起こりうる。
 それを自分でどう受け止めるかでその後の人生が決まるというのは、真実ではないか。
 何かを失っても、ほかの何かを神様は与えてくれる。
 50歳を迎えた今も、高橋先輩は、川越市内にある「牛窪道場」で指導や稽古に励んでいる。
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