学年だより「才能(2)」
足の速さをいかしてスイッチバッターに転向し、一時期は1番バッターとしてスタメンに定着しかけた頃もあった。治療を続け、入院した年もあったが、復帰後ゴールデングラブ賞も受賞した。 その後再び症状が重くなり、29歳で引退を決意する。
~ この病気に苦しんだことによって野球ができることのありがたさや喜び、好きなことができることへの感謝の心が自分の中に芽生え、それがいまに繋がったことも確かなんですね。
僕には監督として「野球ができるって、こんなに嬉しいことはない」という思いを伝えたい気持ちがいっぱいで、それが自分でも気づかないうちに学校の先生っぽい方向に走らせているわけですが(笑)、その意味では病気が指導者としての僕を育ててくれたのかもしれません。
… 人生の大変な時期にどういう生き方をするか、それがすべてだということでしょうね。僕は現役の選手時代、一人前になりたいという思いがとても強かったのですが、成功できないまま29歳で引退しました。選手として才能が発揮できなかった分、その後は野球解説などマスコミの仕事にがむしゃらに打ち込むようになったんです。 ~
引退後、自分で北海道に野球場をつくった。とにかく野球に関わっていたい、野球が好きだという思いに突き動かされ、子ども達のために天然芝の球場を作りたかったのだ。
なぜそこまでしなければならないのかと言う人もいた。見返りを求めない努力を神様がみていたからこそ、監督の話がきたにちがいないと栗山氏は言う。
~ 隈さんは、いま「大切なのは粘り」とおっしゃいましたが、僕も野球が大好きという思いが人一倍強かったからこそ、この道で粘り強く生きてこられたように思います。才能がないことが才能、才能がないからこそ頑張れる、努力するという感覚が僕の中には常にあって、いまでは才能がなかったことが連によかったとすら思っているんです。 ~
「才能がないことが才能」。ありがたい言葉だ。
足の速さをいかしてスイッチバッターに転向し、一時期は1番バッターとしてスタメンに定着しかけた頃もあった。治療を続け、入院した年もあったが、復帰後ゴールデングラブ賞も受賞した。 その後再び症状が重くなり、29歳で引退を決意する。
~ この病気に苦しんだことによって野球ができることのありがたさや喜び、好きなことができることへの感謝の心が自分の中に芽生え、それがいまに繋がったことも確かなんですね。
僕には監督として「野球ができるって、こんなに嬉しいことはない」という思いを伝えたい気持ちがいっぱいで、それが自分でも気づかないうちに学校の先生っぽい方向に走らせているわけですが(笑)、その意味では病気が指導者としての僕を育ててくれたのかもしれません。
… 人生の大変な時期にどういう生き方をするか、それがすべてだということでしょうね。僕は現役の選手時代、一人前になりたいという思いがとても強かったのですが、成功できないまま29歳で引退しました。選手として才能が発揮できなかった分、その後は野球解説などマスコミの仕事にがむしゃらに打ち込むようになったんです。 ~
引退後、自分で北海道に野球場をつくった。とにかく野球に関わっていたい、野球が好きだという思いに突き動かされ、子ども達のために天然芝の球場を作りたかったのだ。
なぜそこまでしなければならないのかと言う人もいた。見返りを求めない努力を神様がみていたからこそ、監督の話がきたにちがいないと栗山氏は言う。
~ 隈さんは、いま「大切なのは粘り」とおっしゃいましたが、僕も野球が大好きという思いが人一倍強かったからこそ、この道で粘り強く生きてこられたように思います。才能がないことが才能、才能がないからこそ頑張れる、努力するという感覚が僕の中には常にあって、いまでは才能がなかったことが連によかったとすら思っているんです。 ~
「才能がないことが才能」。ありがたい言葉だ。