一日のうちで、早朝が最も頭が働く。
涼しい季節、早寝できた翌朝、明るくなるかならないうちに目が覚めてすっきりしているときは、前の日解決できなかった問題があっという間に片付く。
進まなかった添削、解けなかった記述問題が、さらさらと書ける。
この勢いで働けば、今日中に一ヶ月分が余裕で終わるのではないかと思うくらいに仕事が進む。
もったいないので、朝食を摂る時間も惜しんでさくさく進めていく。
ところが、朝の打合せ会議ころになると、脳がぴたっと働きをとめる。
午前の早い段階で眠くなってしまうことすらある。
自分は何事をもなしうることができる――頭が働いていたときに感じていた全能感が、またたく間に消えていく。
いつからこうなったのだろう。
少なくとも20代のうちは朝起きられなかった。休日はいつまででも寝ていられた。
今は、寝る体力すらなくなったのか、けっこう夜更かししても(めったにないけど)、明るくなりはじめると目が覚める。
中学や高校のころは、言うまでもなく朝起きられなかったが、起きてしまえばいつまでもハイテンションで起きていられた。
なんでもできると思っていた。「何でもできる」と言葉にしたわけではないが、そう思っていたにちがいない。
そうでなければ、あんなに好き勝手なことをしていられない。
世界さえ変えうると思っていた。「世界を変える」と宣言したわけではないが、そう感じていたにちがいない。
そうでなければ、あんなに傍若無人にふるまえない。
人生の朝だった。
人としての脳が働きはじめる思春期は、今はごくまれにしか訪れない早朝の全能感を、全開で持ち続けている時期だったのだ。
映画「天気の子」を観て、それを思い出した。
若者は、あんなにも世界を知りたがり、世界を変えたがる。そうすべき自分であることをみんなが感じている。
雨が降り続くのは自分たちせいであり、二人の出会いは奇跡だと感じる「自分たち」は実は無限に存在する。
「君の名は」の二人もそれは同じ構造だ。
誰もがもっていて、誰もが見えなくなっているもの、もしくは失ってしまったものを、すぐれた表現者は可視化してくれる。
音楽も同じかもしれない。
それを見、それを聴き、自分という存在が実はかけがえのないものではないかと教えてもらえるのだ。
涼しい季節、早寝できた翌朝、明るくなるかならないうちに目が覚めてすっきりしているときは、前の日解決できなかった問題があっという間に片付く。
進まなかった添削、解けなかった記述問題が、さらさらと書ける。
この勢いで働けば、今日中に一ヶ月分が余裕で終わるのではないかと思うくらいに仕事が進む。
もったいないので、朝食を摂る時間も惜しんでさくさく進めていく。
ところが、朝の打合せ会議ころになると、脳がぴたっと働きをとめる。
午前の早い段階で眠くなってしまうことすらある。
自分は何事をもなしうることができる――頭が働いていたときに感じていた全能感が、またたく間に消えていく。
いつからこうなったのだろう。
少なくとも20代のうちは朝起きられなかった。休日はいつまででも寝ていられた。
今は、寝る体力すらなくなったのか、けっこう夜更かししても(めったにないけど)、明るくなりはじめると目が覚める。
中学や高校のころは、言うまでもなく朝起きられなかったが、起きてしまえばいつまでもハイテンションで起きていられた。
なんでもできると思っていた。「何でもできる」と言葉にしたわけではないが、そう思っていたにちがいない。
そうでなければ、あんなに好き勝手なことをしていられない。
世界さえ変えうると思っていた。「世界を変える」と宣言したわけではないが、そう感じていたにちがいない。
そうでなければ、あんなに傍若無人にふるまえない。
人生の朝だった。
人としての脳が働きはじめる思春期は、今はごくまれにしか訪れない早朝の全能感を、全開で持ち続けている時期だったのだ。
映画「天気の子」を観て、それを思い出した。
若者は、あんなにも世界を知りたがり、世界を変えたがる。そうすべき自分であることをみんなが感じている。
雨が降り続くのは自分たちせいであり、二人の出会いは奇跡だと感じる「自分たち」は実は無限に存在する。
「君の名は」の二人もそれは同じ構造だ。
誰もがもっていて、誰もが見えなくなっているもの、もしくは失ってしまったものを、すぐれた表現者は可視化してくれる。
音楽も同じかもしれない。
それを見、それを聴き、自分という存在が実はかけがえのないものではないかと教えてもらえるのだ。