昨夜、録画してあった、小朝師匠の「演芸図鑑」という番組を見た。
佐渡裕氏と小朝師匠の対談を聞きたかったので。
「小学校の卒業文集に、ベルリンフィルを指揮すると書いたけど、まさか本当になるとは思ってなかった。おれの次のやつは天下統一とか書いてましたから、そういうのりですよね」と言われてた。
松坂選手やイチロー選手にも同様のエピソードがある。
卒業文集に将来の夢を書いて、その達成率を統計的に調査したら、どんな結果が出るのだろう。
おそらく、ほとんどの人は夢物語として終わっているのではないか。
逆に書いてもいない、しかも素晴らしい成功人生を送っている人ももちろんいるだろうし。
百田尚樹『プリズム』にこんな一節があった。
「大人の人ってすぐそれを聞くんだよね、大きくなったら何になりたいって。なんでだろ」
主人公の女性が、家庭教師で教えている利発な少年に言われたセリフだ。
意表をつかれた主人公(なまえが出てこない)は「それはね、大人は夢をなくしたり、かなわなかったりしてる人がほとんどだからよ」と答える。
「大きくなったら何になりたい?」
尋ねられなくなったのは、いつごろからだろう。
聞かれたことはたぶんある。
聞かれない子もいるだろうことを想定すると、そう尋ねられるような環境のなかで育っただけで幸せだったとも言える。
なんでもないようなことが幸せだったと思う。
夢ってなんだろう。
もってないといけないものなのかな。
「夢は何?」と尋ねられて即答できないのは、切実に求めている何かがない、もしくはわかってないからにちがいない。
ひょっとしてあるのかもしれないけど、実体化できてないのかもしれないし、夢とよんでいいものかどうかわからないだけなのかもしれない。
大人も子どもも高校生も同じではないだろうか。
夢って欠落感を補う手段なんじゃないかな。
イチロー選手は、けっきょく試合がなくても安打を打ち続けるような気がするし、北島選手はオリンピックがなくても泳ぎ続けて記録を更新してたのではないか。
つまり、夢として具体化される事柄自体は、一つの形にすぎない。
いわば偶像みたいなもので、それが象徴する何かが大事なんじゃないかと。
何かとは「それをしないと自分でいられなくなるもの」で、それは人それぞれにあって、それを夢とか名前つけて一応論理が備わるようにしてるだけではないかと思うのだ。
そう考えるとやはり夢は、かなえることよりも、もっていることが大事だ。もしかするとかなわない方が幸せなのかもしれない。