Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

灰とダイヤモンド

2010-03-22 19:43:43 | 日記


ぼくの3連休も終わりである。

今日は、Amazonから本が届く。
このミハイル・バフチン『小説の言葉』の(まず例によって)訳者解説を読んでいたら、突如、ドストエフスキー『罪と罰』が読みたくなって、納戸をかきまわすことになった。

そうしたら、『罪と罰』新潮文庫版は見つかったが、“さらに”気になる文庫が出てきた;
☆ アンジェイェフスキ:『灰とダイヤモンド』上(岩波文庫)
☆ 堀田善衛:『ゴヤ』Ⅱ~Ⅳ(朝日文庫)
☆ ジョン・トーランド:『アドルフ・ヒトラー』1~4(集英社文庫)!

『灰とダイヤモンド』は、もちろん“あの”映画が好きなのである。
それでこの翻訳が出たとき上巻を買ったのに、ろくに読まず、下巻は買ってない。
最近、書店で見かけないと思ったら、あんのじょう“品切れ”である(検索した)
堀田善衛『ゴヤ』はなぜか、“Ⅰ”が欠けている(買ったとき、“Ⅰ”がなかったのだ)
さっそくマーケット・プレイスに、この“ダイヤモンド下”と“ゴヤⅠ”の古本を注文。


それで<引用>である;

★松明(たいまつ)のごと、なれの身より火花の飛び散るとき
なれ知らずや、わが身をこがしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく
さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを
<アンジェイェフスキ:『灰とダイヤモンド』の最初に引用されているノルヴィト作『舞台裏にて』>


★ 文体論は多くの場合、室内工芸的技術の文体論として立ち現れ、工房の外、広場や街、村や町、社会集団や諸世代諸時代の空間で営まれている言葉の社会生活を無視している。
<バフチン:『小説の言葉』序>

★ バフチンが指摘するように、小説における描写の対象は物ではなく、もっぱら言葉であり、言葉はたとえ描写されようとも、それが言葉である限り、常に主体としての弾力性を保ち、主体としての抵抗を示す。言葉は常に「声」を持つのであり、そこに必然的に描き出す言葉と描き出される言葉の、対話的な関係が生ずるのである。こうして小説の言語論は他者の言葉の伝達、描写の問題、引用、話法の問題を避けてとおることはできなくなる。それは小説の言語を作者自身の言語に一致するものと捉えるモノローグ的な視点に立つ限り、言葉の対話的関係としては見えてこない現象であったろう。
<バフチン:『小説の言葉』―訳者(伊東一郎)解説>


★ 《フム……そうだ……すべては人間の手の中にあるのだ、それをみすみす逃がしてしまうのは、ひとえに臆病のせいなのだ……これはもうわかりきったことだ……ところで、人間がもっともおそれているのは何だろう?彼らがもっともおそれているのは、新しい一歩、新しい自分の言葉だ。だからおれはしゃべるだけで、何もしないのだ。いや、もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ。……》
<ドストエフスキー:『罪と罰』>




いま“政局”について何を言うのか

2010-03-22 13:51:06 | 日記


まあこのぼくのブログをDoblog以来読んでくださっている方が、何人いるか存じません。

そういうひとがいると仮定して、ぼくのブログが繰返しが多い(爆)にも“かかわらず”変わってきたことを感じてくださる<ひと>がひとりでもいてほしいと思う。

その(わかりやすい)ひとつの例は、その時々の“政局”に対する発言が減ったことだ。
具体的には、ぼくはDoblogの時の、ある選挙の朝に、“投票に行こう”と呼びかけた(たぶん2度)

ぼくは“そういうこと”をしないことにした。

“世慣れた読者”(がいるとして)は、ぼくの“そういう変化”が、民主党政権とかで、ぼくの<立場>が、不明瞭になっているからだと思うかもしれない。

しかし、そんなことはまったくない。
ぼくは民主党政権などに、なんの幻想ももったことはないし、現在日本のいかなる政党も支持していない。
というか、日本で“政治”が機能しているとは、まったく考えられない。

しかしこのことは、ぼくに“政治とはなにか?”という本質的問題を提起した。
“デモクラシーとは何か?”
“国民主権”とは何か?
“議会制民主主義”とは何か?
“多数決”とは何か?
“政党政治”とは何か?
“人権”とは何か?
“平等”とは何か?
“所有”とは何か?
“戦争”とは何か?
“防衛”とは何か?
“暴力”とは何か?
“死刑”とは何か?
“法”とは何か?
“憲法”とは何か?
“国家”とは何か?
“ナショナリズム”とは何か?
“社会”とは何か?
“会社”とは何か?
“経済”とは何か?
“社会的地位(肩書き)”とは何か?
“家族あるいは家系”とは何か?
“個人”とは何か?
“セックス”とは何か?
etc.


まあ、きわめて“当たり前の”問いである。

しかし、そういう問いに対して、テレビや大新聞や有名ブログ(ネット言説)は、ぼくの目配りが不充分であるせいか(謙遜)、何も応えてくれない。

どーでもいいことを、日々、べちゃくっているだけである。

ひさしぶりに(笑)“天木直人ブログ”を引用する(“鳩山首相への訣別宣言”);

《これを読んだ読者の中から声が聞こえてきそうだ。
まだ半年しかたっていないではないか、大目に見てやれ、と。
 自民党に戻る事だけは許せない。民主党に代わる政党がないではないか、と。
とんでもない。
半年たって何も出来なければ何年たっても出来ないということだ。
自民党に戻る事などありえない。自民党の復活よりも警戒すべきは保守政党、政治家たちの政界再編だ。
 一億総保守化である。 社民党は党是よりも権力のうまみを優先させてその役割を終えた。
日本共産党は、組織の存続を最優先にして国民からますます愛想をつかされつつある。
代わる政党がなければ、私のように既存の政治を全否定すればいいのだ。
政治家や官僚の数を減らし、彼らが食いものにする税金を取り戻せばいいだけの話だ。
政治家や官僚などいなくてもこの国は国民がいるかぎり存続する。
立派に動いていく。
国民はもっと自分に自信を持つべきだ。
政治家や官僚に卑屈になる必要はまったくない。
良くも悪くも主役は国民である、という意識を持つべきだ。》
(引用)


ぼくは前にも書いたが、天木直人というひと(もちろんこのひとを、ぼくは、このブログでしか知らないが)、けっして嫌いではない。
“しかし”(笑)、このひとは今どき、何を言っているのか。

なぜ今頃、“鳩山首相への訣別宣言”などと言っているのか!

ほんとうに、ワカラナイ。

《半年たって何も出来なければ何年たっても出来ないということだ》
というのは、その通りである。
しかし、民主党政権が“なにもできない”ことは、民主党政権ができる前から分かっていたことである。

上記を引用したのは、そういうことを(ぼくが)言いたいがためではない。

問題は、<一億総保守化>である。

しかし天木氏の言う<一億層保守化>は、<政党>のことを言っている。
社民党や共産党が、“保守政党である”ことも、とっくに分かっていたことである。

《代わる政党がなければ、私のように既存の政治を全否定すればいいのだ》

!!!

すくなくともぼくは、とっくに“既存の政治を全否定”している。
天木氏のこの文はまちがっているのではないのか。
天木氏の立場は、“既成の<政治>を全否定”するのではなく、“既成の<政党>を全否定している”と書くべきではないのか。

《政治家や官僚の数を減らし、彼らが食いものにする税金を取り戻せばいい》
というのには、賛成である(笑)

さて問題は、その後である;

《政治家や官僚などいなくてもこの国は国民がいるかぎり存続する。
立派に動いていく。
国民はもっと自分に自信を持つべきだ。
政治家や官僚に卑屈になる必要はまったくない。
良くも悪くも主役は国民である、という意識を持つべきだ。》
(引用)


たしかに<国民>は、<卑屈>になるべきでないし、“主役である意識”を持つべきだ。

しかしそれは“現在ある国民”では無理である。

<国民>というのは、自然性において(もともと)存在しているのでは、ない。

どうやって“卑屈でない国民”に、<成る>のか?

これがぼくの<疑問>である。

もちろんぼくも<人民>のひとりとして、この問題の解答を天木氏に求めるのでは、ない。

人民=peopleのひとりとして、人民とともに、考えていきたい。





*写真は“atom(atomic)bomb”

どうも最近、“核密約”とか“非核3原則”というような言葉(抽象語)が飛び交っているわりに、<核>について具体的な感性をお持ちでない方々や、そういうことを“忘れた”方々が多いようなので、念のため。





Snapshot;意見を言う=書く

2010-03-22 11:50:19 | 日記


☆ なんにせよ、“意見を言う=書く”というのは、<情報>の<認識>によっている(かかっている)

☆ このとき、<情報>が、すでに、“いいかげん”なら、ぼくらはなにを<認識>し、<意見>を言う(書く)のか?

☆ 当然、いま、たとえば、“政局”について発言するなら、その政局についての<情報>を、ぼくたちは自ら“取材”してきたのではない。
これら情報は、“メディア”による、“非直接(間接)”情報のみである。
もし“取材”したひとが、自ら言う場合も、彼らも“すべてを”直接取材できるわけではないので、ぼくがここで述べていることは成り立つ。

☆ 次に、“情報を認識する”という場合の、<認識>ということも、当然、問題である。

☆ あることを、直接目撃したとしても、まったく客観的で公正な、<認識>などというものは、ありえないのである。

☆ つまりある<事件(事実)>というのは、客観的・公正に認識すれば、<ひとつ>であるなどということは、ありえないではないか。

☆ すなわち、<ひとつの事実>として、<背景(状況・歴史)>から切り出せる、<事実>などというものは存在しない。
すべての事実=事態は、錯綜しているのだ。

☆ むしろぼくたちが“信じ込まされる事実”というのは、いつもある先入見によって、単純化された<事実=言説>である。
この<単純化>(切捨て)を行う操作を<イデオロギー>と呼んでも、<常識(惰性態)>と呼んでもよい。

☆ もし事実を、“ありのままに見る”ことを望むなら、そういうことの<不可能性>について意識的であって、しかも、<認識>を放棄しない、思考の運動が求められる。

☆ ただ自分の目が見、手が触れたものを、信じていればよいのではないはずである。
ただ自分の脳内に点滅する信号(意識!)を、信じていればよいのではないはずである。

☆ だから、異なった<他者>の、ことなった<言説>を聞く必要がある。

☆ 実際に“会って聞く”ことができないなら、<本>を読む。



<当面の目標図書>

★テリー・イーグルトン:『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー1999)
★大岡昇平;『レイテ戦記』(中公文庫1974)
★ 内田隆三:『国土論』(筑摩書房2002)
★ ザフランスキー:『ニーチェ その思考の伝記』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス2001)




*写真は、ナンニ・モレッティ「エイプリル」