Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

イタリア

2010-03-07 00:13:54 | 日記


なぜか“イタリア”が気になった。

ぼくは一度だけイタリアに行ったことがある。
それがいつだったかもすぐにわからない。
その時撮った写真の“プロパティ”を見て、2007年10月だったことを確認する。

イタリアへ行ったと言っても、ほんの一部、正確には北イタリアの3都市だけである。
ローマにもフィレンツェにもヴェニスにもナポリにもシチリア島にも行っていない。

奇妙なのは、その時、ぼくは“イタリアに行く”ということを、本当には意識していなかったのだ。
ある意味では、どこでもよかった、“海外”ならば。

それで、ミラノからイタリアに入って、つくづく“ああ俺はイタリアにいるんだ”と実感したわけではなかった。
これは、ぼくの数少ない“海外旅行”の他の場所でもそうだった。
これはたぶんぼくの旅が、なんら“目標”をもたないことに関係している。
つまり事前に調べて、“行くべき場所”を定めていないからだ。
ようするに旅の前に、その行く場所についての“情報”をほとんど持っていないから。

もちろん“ミラノ”は知っていたが、そこに何があるかは、知らなかった。
“ストレイザ”と“ベルガモ”については、湖の畔にあることと、古い街であること以外なにも知らなかった。

けれども現地に行くと、昔から知っている所のような気がした。
滞在時間が経つほど、のんびりしたのだ。
まったくはじめての道が、不安であることはなかった。
ややオーバーに言えば、前世で暮らしていたような気がした。

イタリアについて、とくに“イタリア”として意識していたわけではなかった。
今日イタリアについて考えた。
イタリア文学でぼくが知っている人、持っている本。
ダンテの『神曲 地獄篇』は河出文庫で最近買ったが、読んでない。
パヴェーゼ『美しい夏』(岩波文庫)、カルヴィーノ『見えない都市』(河出文庫)、『冬の夜ひとりの旅人が』(ちくま文庫)。
アガンベンは近年、4冊くらい買ったが、読了したものはない。
岡田温司『フロイトのイタリア』も読み掛けである。

むしろ映画だな、ロッセリーニ、フェリーニ、アントニオーニ、ベルトルッチ、タヴィアーニ兄弟、、モレッティ。<注>


河島英昭『イタリアをめぐる旅想』(平凡社ライブラリー)があった。
これはめずらしく“読み終わった”本である。
これを取り出して読んで、びっくりしたのだ。
この本をぼくはイタリアへ行く前に読んでいたのに、イタリアへ行った時、この本のことをまったく忘れていた。
この本は、すぐれた本である(読了したとき、そう思った記憶がある)
今日、また読んで、また同じ感想を持った(なぜ“忘れる”ことができたのだろう)

この本は、実に、“旅している”本なのである;

★ 1980年11月17日、午前3時40分、日本航空461便ボーイング747は未明の灯火点滅させるレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に舞い降りた。デリーから乗ってきた隣席のインド人少女たちに別れて、肌寒いタラップを降りた。ぼくがいちばん先だった。後についてきた3,40人も、地上に降りた。そのとたん、にわかに話し声が湧き起こった。
(引用)

どうってことのない描写。
しかし、これが旅である。

もちろんこのひとは、“どうってことがない”旅人ではなかった。
パヴェーゼやカルヴィーノやボッカチオの翻訳者。
ローマでは、1980年当時の“落書きの都”についての、強烈なイメージが喚起される。
トリーノで河島氏が泊まるホテルで、パヴェーゼは自殺した。

★ 見知らぬ町に独りで住み、見知らぬホテルに独りで目覚める。それはぼくにとっての理想の状態だった。そしてたったいま、ほんとうに自分がそうしているのだと思うと、嬉しさがこみあげてくる。それこそは独りでいることの喜びだった。《どうして自分はこうなってしまったのだろう?いつから、人に会わないことが、これほどまでに好きになったのか?》しかし、よく考えてみれば、これは自分が日本でめざしていた日常生活にほかならなかった。方向性においては何ら変わっていない。ただ、日本では、これは実現しにくい状態だった。誰にも会わないこと、断じて独りでいること、それは自分を逃さないための唯一の方法だ。人びとのあいだにあればたやすく逃げてしまう自分という怪しげな存在、それにしっかりと向きあうのだ。この始末の悪い自分がいなければ、世界は存在しないのだから。
(引用)

そうだよなー、と思う。
野暮はいいたくないが、文学や思想というのは、やはり、“こういう孤独”からしか、発せられない。

たとえば、旅に出て、旅先でも、いろんなひとと“出会う”人がいて、その“人びと”とのこころあたたまる交流が、“旅のエッセイ”になる人もいる。
それはそれで、素敵なことである。

しかし“そうでない旅”もある(河島氏が“ふと出あった”人びとに、優しい視線を向けていないのではない)

イタリアのホテルの部屋は暗い(と河島氏は書いている)
その暗闇で、目覚める。

窓を開ければ、明るい陽光に照らされた市街がある。


スタンダールの『パルムの僧院』を読もう。
パヴェーゼ『美しい夏』も。

実は文庫クセジュの『ムッソリーニとファシズム』も読んだ。




<注>

”ht”さんのコメントに返信して思い出した。

パゾリーニを忘れては、いけません!