Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Nobody knows my name

2010-03-21 14:40:06 | 日記


さて下記ブログに取り上げた鬼界彰夫『ウィゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912-1951』(講談社新書2003)からさらに引用しよう。

テーマは、<名を知る>である;

★ 子供はまず自分の名前を呼ばれることに対する適切な反応を習得し、ついで様々な人物や対象に対して名を呼びかけることを習得する。これが名の運用能力の習得である。こうした能力しか持っていない段階で、子供に音声信号への適切な反応の体系以上のものを積極的に認める理由は何もない。簡単に言えば、この段階で子供と犬の間に決定的な違いを認めることはできないのである。

★ では一体いつ、ある存在が単に音声に反応しているだけでなく、名を知っているのだ、と言えるようになるのだろうか。それはその存在が、単に名を使うだけでなく、人や物には名があるのだということを知るに至ったときである。そしてそれは、この存在が「名」という概念を持つようになるときである。そして「名」という概念を持つとは、単に様々な名を使うばかりでなく、「名」という言葉を用いて「あの子の名はルーだ」等と名に言及できることである。そしてこうした名の概念の存在を決定的に示すのが「“私は”あの子の名を知っている」のような自らの名の知識を表明する言明なのである。子供がこのように単に知を持つのみならず、自らの知を言葉を用いて表明するとき、人はそれを反応の体系とはもはや呼ばない。自己の知を言葉で表明する子供は、自らが言うとおり名を知っているのである。

★ このような自らの知を言葉によって表明しうる知を“反省知”と呼ぼう。それに対して語の運用能力のような単なる使用能力を“前反省知”と呼ぼう。名前の知は反省知でなければならない。反省知として名を知るもののみが、本当に名を知っているのである。言語の知は名前の知を前提とするから、全く同じことが言語についても言える。すなわち、言語の知は本質的に反省知であり、言語を知り、しかも自分が言語を知っていると言葉で表明できる者のみが本当の意味で言語を知っているのである。

★ 言語の根源である「私は知っている」という知の言明は、同時に「私」の根源でもある。というのも、この言明をなしうるために子供は「私」と「知る」を自由に使い、「私」と「知る」という概念を持たなければならないのであるが、これまでそれができなかったがために子供は前反省的な名前知しか持っていなかったのである。言いかえるなら「私は知っている」というという言明においてはじめて子供は「私」という概念を持ち、「私」を生き、「私」として存在するのである。それによって子供は言語を知る存在としての自分にはじめて言及するのであり、言語を知る存在としての「私」という概念を持つ。本当の意味での「私」の言語ゲームを行うのである。

★ 人間的な意味で何物かの概念を持つとは、それの名の使用に習熟するのみならず、それについてそれとして語りうることなのである。それまで前反省的な言語運用能力しか持たなかった存在がはじめて「私は知っている」という知の言明を行うとき、その言明において言語と「私」が同時に生まれる。「私は知っている」という知の言明は、言語と「私」の等根源なのである。


(このウィゲンシュタイン最後の思考は、“さらに”展開する)

そして、
★ それゆえ他人に譲ることのできない言葉を持たない「私」は、いかに自分が他者から独立した存在であると言おうとも、それが存在すること(「私」で在りつづけること)と存在しないこと(「私」で在るのをやめること)の間に何の違いもないがために、「私」としては存在しない。「私」で在るとは、自分が譲れない言葉を持つということをあらゆる他者に向かって言明することである。「私」とは絶対的「私」であることによってのみ存在しうるのである。

★ この譲れない言葉を「私」の魂と呼ぶことができるだろう。「私」の魂とは私的論理に内容を与える言葉である。超越言明、あるいはムーア言明とは、自分に魂が有ることの宣言である。私的論理の宣言である。ムーアの言明においてウィゲンシュタインを深く動かしたもの、それはムーアによるこうした魂の宣言であったのだと考えられる。

★ 人は魂を持つことによってのみ語る存在となることができる。



*写真はタルコフスキー「ストーカー」






大人の世界を見ましたか?

2010-03-21 10:36:45 | 日記


昨日は朝10冊の本をこのブログに掲げたのに、そのうち読んだのは1冊であり、別の本(リスト外の本)数冊を次々に読んだ。

しかもいちばん集中して読んだのは、“すでに読了した本”である鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の最後の部分を再読、熟読したのだ。

たとえばそこにはこういうことが書いてある;
★ 絶対的「私」とは、仮にすべての他者と狂気関係に陥るとしても自分の言葉を譲らない、と宣言する「私」である。絶対的「私」は超越言明に先立ちどこかにもともと存在しているのではない。全ての他者と狂気によって隔てられても自己の主張を譲らないという宣言によってのみ、絶対的「私」は存在するのであるから、絶対的「私」とは超越言明においてはじめて現れる存在なのである。約束するという行為が約束という現実を生成する言語行為であるように、超越言語とは絶対的「私」を生成する言語行為なのである。


この“ウィトゲンシュタイン最後の思考”は、上記引用部分を読んだだけでは、わからない。
この鬼界彰夫の“解説本”全部を読んでも、わからない、ぼくには(笑)

しかし、そこでは、なにか極限的なことが言われている(と感じる)
もちろん“それがわからない”ときに言うべきことではないが、ぼくはこういうのを読んでいると、“そもそも極限的なものを思考する”という思考は“ただしいか?”という疑問がわくのである。
しかしたしかにぼく自身も、“極限的思考”に関心があるから、このような本を読んでいる。


夜は、延々テレビを見ていた。
ぼくの加入しているケーブルテレビで最近チャンネル編成替えがあって、“TBSチャンネル”がうつるようになり、それで、「ふぞろいな林檎たちⅡ」の連続放映をやっていた。
「ふぞろいな林檎たち」についてここで説明するのは面倒だ、見たことがあるひとも多いだろう。
ぼくはこのシリーズを、見れるかぎり見ていた。
しかしこの1980年代のシリーズを具体的に覚えていたわけではない。
だから、とても面白かった。

3、4話ぐらいを見ることができたのだが、そのなかに“大人の世界を見ましたか?”というタイトルの回もあった。
中井貴一が嫌いな上司を(いろいろあって)、はじめて“飲みに誘う”。
その店には石原真理子が勤めている。
酔った上司が石原真理子のオッパイとお尻を“つかんだ”ので、石原真理子は中井貴一を軽蔑する。
中井貴一は怒って上司(室田日出男)に抗議するが、室田は“水商売をする女がその程度のことで騒ぐのは大人じゃない”というふうに反論する。
一方、石原真理子も親友(手塚里美)との会話では、“男なんてかんたんよ、こーんな眼つきすれば、イチコロよ”というような認識にめざめる。


さて次に、ロバート・デ・ニーロが監督した「グッド・シェパード」という映画も見た(最初の方は見そこなった)
これはキューバ危機をメインの背景とする(時代と場所が終戦時のベルリンなどと錯綜するが)、“CIA諜報員”のお話である。
このマット・デイモン演ずる主人公は、実在のCIA諜報員の“複合人格”であるらしい。

すなわち、“ほんとうのこと”が(ある程度)描かれているということらしい。
つまり“現代史における”、そして“現在における”、CIA(やKGBやその他もろもろの各国諜報機関の)活躍などというものが、明らかにされたことなどないからである。

しかしこの“諜報機関員”というのも、“公務員”なのである(笑)
ル・カレの“スマイリー・シリーズ”を読むとこのことがよくわかる。<追記>


さて上記に書いてきた“話題”は関係がある、のである。

つまり、“リアルな世の中”とは、何ですか?
あるいは、あなたは“リアルな世の中”を認識したいですか?


ぼくは最近こう思うようになった。

たとえば、“ウソをつく”という行為(言説)は、“嘘をつかない状態が世の中の平常状態である”ということを“前提”にしている。

もはや、そういう前提が崩壊した<世界>にぼくたちは、生きている。

つまりこの世界全体が嘘をベースに成り立っているなら、ぼくたちは、少しでも“ほんとう”を見出し、それを言葉にしなければならない。






<追記;ただちに>

この映画は、“なにをいいたいかわからない”映画である。
しかしこういう映画であっても、“真実は語られる”。

すなわち、逮捕され尋問中に自殺する“ソ連諜報員”のセリフである;
《アメリカは<産軍複合体制>を維持するためにソ連を必要としている》

さて、だが、“ソ連は崩壊した”のである。
すなわち“ソ連崩壊はアメリカの望んだこと”ではなかった。
もちろん、“ロシア”がアメリカにとって潜在的な敵であり続けないわけではないし、中国も北朝鮮もある。
なによりも“テロリスト”とその“支援国家”がある。

また、<冷戦>という“わかりやすい構造”の崩壊によって、“世界はわかりにくい混沌”と化したともいえる。
また、“資本主義の原理およびそれを実行するシステム”自体が、“バーチャル化した”という新しい問題がある。

この現実の混沌は、とうぜん、“言葉のカオス”として出現すべきなのに、“現実”は、まったく逆である。
現在言葉は、このカオスに直面せず、それを使い古された<紋切り型言説>の洪水で覆い隠すことのみに奔走している。

ユナイテッド・ステーツの本質、このグロバール資本主義の本質が、<産軍複合体>にあることは、現在においても“変わらない”。

“ショーバイと戦争”こそ、<変わらない>リアルである。

フセインもビンラディンもアメリカが育てた。

すなわち、考えれば考えるほど、<正義>とか<真理>は不明であるので、“ぼくら”は<相対主義>とか<シニシズム>におちいる。
どうせ、“わからない”のだから、適当に“受け流し”、とりあえず目先の“たすけあい”にふける。

たしかに、そういうライフ(生=性)しかあり得ないかもしれないし、<それだけ>が現実的であるのかもしれぬ。

しかし、この<状況>において、気狂いのように考えるひとがいるなら、それを<希望>と呼ばずしてなんと呼べばよいのか。






<今日の目標図書>

☆ レーヴィット:『共同存在の現象学』(岩波文庫2008)
☆ 熊野純彦:『ヘーゲル <他なるもの>をめぐる思考』(筑摩書店2002)
☆ 港道隆:『レヴィナス 法-外な思想』(講談社・現代思想の冒険者たち1997)
☆ 大澤真幸:『<自由>の条件』(講談社2008)
☆ テリー・イーグルトン:『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー1999)
☆ 大江健三郎;『作家自身を語る』(新潮社2007)
☆ 大岡昇平;『レイテ戦記』(中公文庫1974)