Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

算数のレッスン

2010-03-01 12:14:57 | 日記


☆問題:次に掲げる<言葉(概念)>のうち、“等式(イコール:=)で結べるものは、どれでしょう?

リベラリズム(自由主義)
デモクラシー(民主主義)
ヒューマニズム(人間中心主義)
ナショナリズム
資本主義
キリスト教(ピューリタニズム)

☆ 考える(thinking)
① まず、<デモクラシー=リベラリズム>だと思われてきたのではないか?
<戦後民主主義>においては。
しかし“リベラリズム”の<自由>とは、“自由に競争できる自由”のことであった。
すなわち、<自由>のすべてを追求するものではない(あるいは、“自由とはなにか”についてある限定された<観念>によってなりたっている)

②“デモクラシー”を標榜する<国家>は、現在まですべて“ナショナリズム”である。
ゆえに<デモクラシー=ナショナリズム>が成り立つ。

③リベラリズムは、そもそも“競争の自由”であるから、<リベラリズム=資本主義>である。

④その“資本主義”の原動力になったのは、“キリスト教ピューリタニズム”であるから、<資本主義=キリスト教>である。

⑤奇妙なことに(つまりぼくにとっては;笑)この“キリスト教”は、<人間>ではなく<神を根拠とする>はずだが、“信ずる人々”は、自分を“ヒューマニスト”と思っている。
ゆえに、<キリスト教=ヒューマニズム>である。

☆ 解答(結論)
デモクラシー=リベラリズム=ナショナリズム=資本主義=キリスト教=ヒューマニズム


なんか変だな?

と思ったひとは、ただしい“感受性”を持っていると(ぼくは)思う(笑)



それで、もう一問;

☆ 英語の“people”を翻訳して(日本語にして)ください。

☆ 解答例;
<国民>、<民族>、<市民>、<人民>、<人々>、<世人>、<住民>、<大衆>、<庶民>、<民衆>、<労働者>、<凡人>、<平民>、<臣民>、<部下>、<従者>、<家来>、<親類>、<祖先>、<家族>、<両親>、<被抑圧階層>、<権力者>、<植民者>、<草食系男子>、<肉食系女子>、<選挙民>、<麻薬ディラー>、<客>、<一群の動物>、<芸能週刊誌や大衆紙の名前>、<消費者>、<享受者>、<観客>、<噂話が好きな人>、<依存者>、<怨念人間>、<嫉妬者>、<復讐者>、<下衆(ゲス)>、<ケータイ依存者>、<テレビ人間>、<人間>、<人>




<蛇の足;蛇足>

昨夜、ひさしぶりに「地獄の黙示録」を(途中から)見た。

まえにDoblogでも書いたが、”完全版”で復活したフランス人入植者に主人公が遭遇するシーンがある。

そこでの夫を戦闘で喪ったフランス人女性が、主人公に言うセリフ;

”あなたのなかには二人の人間がいる、
 殺すあなたと、
 愛するあなた”



This is the end, beautiful friend
This is the end, my only friend, the end

And the all the children are insane
All the children are insane
Waiting for the summer rain, yeah

<The Doors;”THE END”>







<参考>

ぼくは“下記に引用すること”が、昔から納得しがたいのである(だれかこれに“納得する”ひとがいるなら、ぼくに“説明”してください)

★ このように、『諸国民の富』(『国富論』)においてスミス(アダム・スミス)が経済活動の基礎を「利己心」の原理に置いたことは、かれが『道徳感情論』において道徳の基礎を「同感」の原理に置いたことと一見矛盾するようにみえる。しかし、「利己心」の原理も、「同感」の原理を支えていた「良心」あるいは「神の代理者」によって保証される。いいかえれば、少なくとも経済活動の原理としての「利己心」は、「同感」の原理によって是認されうるものであって、否定されるものではない。そして、ここに、いわば「予定調和」の信仰にもとづく経済活動の「自由放任」が説かれることになる。すなわち、「利己心」の自由な発動は、「勤勉」と「節倹」をもたらすことによって、個人の利得を増大させるばかりでなく、それは神の「見えざる手」に導かれて、おのずから調和をもたらし、社会の利益と進歩に貢献するものとされる。
<中村雄二郎+生松敬三+田島節夫+吉田光;『思想史第2版』(東京大学出版会1977)>


疑問点
①「利己心」と「同感」は、矛盾しないだろうか?
 ここでの“矛盾しない”ということの論拠は、
 《「利己心」の原理も、「同感」の原理を支えていた「良心」あるいは「神の代理者」によって保証される》ということであるが、これは“ただしい”か?
②《少なくとも経済活動の原理としての「利己心」は、「同感」の原理によって是認されうるものであって、否定されるものではない》
 ということの論拠はなにか?
③ 上記の疑問が呈せられる以上、
《「予定調和」の信仰にもとづく経済活動の「自由放任」が説かれ》ても、ぜんぜん納得しがたい。
④《「利己心」の自由な発動は、「勤勉」と「節倹」をもたらすことによって、個人の利得を増大させる》
  などという根拠もわからない(笑)
  “アダム・スミスの時代”には、そういうひとがいたのだろうか!
④《それは神の「見えざる手」に導かれて、おのずから調和をもたらし、社会の利益と進歩に貢献する》
  ????????????
  これは“オカルト”であろうか?(爆)


ぼくが“浅薄”であるから理解できないか、上記のアダム・スミスの思想の要約が不充分(まちがい)であるのかもしれない。

しかし、上記引用を読むかぎりでは(すなわち“世間”に流通している資本主義(“経済学”)の父の概念では)、論旨が“転倒している”(ひっくり返っている、逆立ちしている)よーに、ぼくには思えるのである。

つまり“すべて”が、<神の手>(という“予定調和”)がなければ、成り立たないのである。

すなわち、もし(笑)、<神の手>が存在しなかったら、どーするのであろうか???

同じことだが、<良心=神の代理者>であるなら、神がいなかったら、どーするのだろうか?

どうも、“信仰うすきもの”であるぼくには、さっぱりわからないのである。





友と一冊の本;唯一の機会

2010-03-01 10:01:52 | 日記


他人の不幸と私の不幸or他人の悲しみと私の悲しみ。

すなわち、他人の不幸を、私の不幸として感受することはできるだろうか?
あるいは、他人の悲しみを、私の悲しみとして、悲しむことができるか?


読売編集手帳は言う;
きのうはチリ巨大地震による津波の警戒に明け、暮れた。震源は地球の裏側でも津波は押し寄せる。“遠い国”も“近い国”もない。誰もが同じ、ひとつの星に暮らしている――当たり前の事実を、いまさらながら噛みしめた方もあったはずである◆現在のところ、国内で人的被害は出ていないが、チリの被災地を思えば「幸いにも」と言い表す気持ちにはなれない。瓦礫の下で、大勢が生死の境にあろう。球形の巻き貝に同居する友に、救いの手を急がねばならない。(引用)

天声人語は言う;
▼ うち153編を収めた『千の風になったあなたへ贈る手紙』(朝日文庫)が近く発売になる。「息子よ。私も、お父さんも泣くまいと思ったのです。悲しんだら、あなたは、親不孝者になってしまうから」と59歳の母は語りかける▼「葬儀から帰って洗面所を覗(のぞ)くと、今はもう主の居ない化粧水の壜(びん)が空(むな)しく並んでいました。『さよなら』と言いながら全部を流しました。コポコポと泣いていました」。だが79歳の夫は再び前を向いて歩き出す。亡き妻への手紙は「もう大丈夫」と締めくくられている▼悲しみの荒野にも緑の芽は吹く。春を喜べる日がきっと来る。空を渡る風の励ましが、胸に染みるような一冊である。


こういう“ロジックとセンス”は、ただしいか?

あまりにも安易ではないだろうか。

いったいどこに、《球形の巻き貝に同居する友》はいるのか。

<友>とは、ただ地球の上にいる“すべてのひとびと”のことなのだろうか。
もし地球の上にいるすべてのひとびとが、そうであるが故に<友>であるなら、あらゆる争いも妬みも戦争も存在しないはずである。

まさに<世界>は、そのようでなかったし、現在もそのようではない。
“そのようでない世界で”、<友>を見つけるのは、友達になるのは、“自然状態ではなく”、個々人の(球形の巻き貝に同居する個々人の)意志である。


《悲しみの荒野にも緑の芽は吹く。春を喜べる日がきっと来る。空を渡る風の励ましが、胸に染みるような一冊》

いったいどこに、《一冊の本》はあるのか。

なぜ、私たちは、“他人の悲しみ”を読むのか。

私と同じ悲しみを、<他者>に見出して、安堵するのだろうか?

しかし、<その悲しみ>は、同じであろうか?

私が喪った<あなた>はみんな、《千の風》に、“ならなければならない”のだろうか?

<私とあなたの>の唯一の機会は、どこにもないのだろうか。


<友>とは、“私とあなた”の唯一の機会である。
この地球という環境が、<球形の巻貝>であるなら。

“友と私”のかたわらに、<1冊の本>があってもよい。

一冊の本に友を見出してもよい。
一冊の本を共有して、友となるのもいい。

もし<友>が、リアルに現前し、輝くなら(イルミネーションのようではなく)、<一冊の本>も、静かに燃えている。